15世紀の朝鮮半島 世宗大王の治世

成宗(ソンジョン)

家系

 68年、世祖が亡くなると、長男の叡宗が即位。ただ、病弱のためにすぐになくなった。翌69年に、甥の成宗が即位した。若干11歳であった。

 25年にわたる治世を終えると、長男の燕山君が即位した。

王族の追放

 70年、王族の亀城君が政治の中枢の外された。幼い成宗は、勲旧派の大臣が支えることになった。以後、政治の中枢は両班(やんばん)と呼ばれる貴族を中心に動いていく。

世祖

家系

 50年に世宗が亡くなると、幼少皇帝が2代続いた。55年、前国王の叔父で世宗の息子である世祖が即位した。

公務員の年金改革、職田法

 朝鮮建国当初、公務員の給料は位に応じて田畑を割り当てられていた。これを科田法という。割り当てられた田畑は退職後も保有し続けることができ、相続も可能であった。

 66年、世祖はこの法律を改正。この田畑を退職時に返還させることにした。これを職田法という。

勲旧派と士林派

 これで損害を受けたのが地方の中小貴族(両班)たちである。彼らは代々科挙に合格し続けないと、先祖代々の土地を守ることができなくなった。地方の貴族たちはこの時期反乱を起こしていた。

 これら、地方の反乱を鎮圧していたのは、王族や中央(ソウル)の大貴族たちであった。この時に活躍した貴族(両班)たちが、政治の中枢につくようになる。彼らは勲旧派と呼ばれるようになった。

 一方で、地方の中小貴族から上がってきた官僚は、士林派と呼ばれるようになる。

仏教の保護

 朝鮮王朝の皇帝は、表向きは仏教を否定し、儒教を重んじていた。しかし、晩年は仏教に帰依するものも多かった。世祖も晩年は仏教に帰依した。世宗大王が作った国営の儒学研究所を廃止した。また、仏典のハングル語訳も作成した。

世宗大王

10000ウォンの人

 世宗大王は、朝鮮王朝の中で一番偉大な王である。10000ウォン札には、世宗大王の肖像画が描かれている。

 ソウル駅かた光化門(景福宮)につながる南北につながる道は、世宗大路と呼ばれている。この道の途中には世宗大王の像がある。この場所は、渋谷のスクランブル交差点に当たる場所で、日韓ワールドカップなどではこの場所でパブリックビューイングが行われた。

永楽帝

 朝鮮王朝は、14世紀末に成立した。しかし、後継者争いで大いに乱れた。これを治めたのが世宗大王の父である第3代国王太宗であった。

 太宗は、明王朝に使いを送り、正式に明王朝の冊封国になった。18年に三男の世宗に譲位した。その後、太宗は22年まで院政を引いた。このおかげで世宗は太宗の死後も

 当時の明王朝は、靖難の役に勝利した永楽帝の時代である。都は南京から北京へ遷都。永楽帝は自らの正当性を示すため、多くの国に冊封を求めていた。それに応じたのが朝鮮王朝の太宗や室町幕府の足利義満がいた。14世紀初頭の東アジアには、強力な権力者が多く存在した。

仏教→朱子学

 前王朝の高麗王朝は仏教を重んじていた。一方で、朝鮮王朝は、明王朝と同じように儒教を重んじるようになった。世宗は、国営の儒教の学問所を設立した。

 この学問所は世宗大王の諮問機関としての役割を果たすようになった。

ハングル文字

 国営の儒学研究所では、儒教以外にも科学的研究がかなり進んだ。天文観測や日時計はその一例である。また、この時期に活版印刷も始まった。

 その中で一番の功績はハングルの研究である。訓民正音としてハングル(文字)が発明された。