日清戦争は、本来10年早く始まる可能性があった。それは親日派のクーデターである。今回はこのクーデターを見ていきます。
親日派と親清派
1880年代、朝鮮では2つの派閥が対立していた。独立党と事大党である。独立党は、日本にならった改革を目指す改革派の派閥である。一方、事大党は、清王朝(中国)との関係を重視する保守派の派閥である。
では、なぜ朝鮮半島は2つの派閥に分かれたのだろうか。朝鮮は、清王朝のおかげで平和を維持することができた。しかし、19世紀半ばからその前提条件が狂いだした。清王朝は、アヘン戦争、アロー戦争でイギリスに敗北しているからである。そのため、東アジア全体に危機感が生じた。
日本は、清王朝との関係が朝鮮ほど大きくなかった。そのため、簡単に改革にかじを切ることができた。これが明治維新に至る一連の行政改革や帝国憲法の制定はその一環であった。
一方、朝鮮と中華王朝の関係は深いものがあった。朝鮮半島は、中華王朝の怒りを買えば国の存亡にかかわる事態になる。そのため、清王朝の顔色を見ながら改革を進めていかなければならなかった。
天津条約と親日派クーデター
独立党のリーダーは金玉均であった。当時の朝鮮は、壬午事変で、事大党の閔妃一族が政権を担っていた。さらに清王朝は閔妃政権を守るため軍隊を朝鮮に駐屯させた。
清仏戦争(84年6月)が勃発すると、84年12月、金玉均らは日本軍の支援を得て王宮を占拠した。朝鮮に駐屯していた清王朝軍は直ちに王宮を攻撃。3日でクーデターは収まった。これを甲申事変といる。
85年、日本と清王朝は天津条約を締結。日本軍と清王朝軍はともに朝鮮半島を撤兵した。両国とも全面戦争を行いたくない思惑があった。清王朝は清仏戦争の真っただ中にあった。一方で、日本もロシアとの戦争準備のため無駄な戦争は行いたくなかった。
余談だが、金玉均ら独立党のメンバーは80年代日本に留学していた。彼らが学んだのは、福沢諭吉が創立した慶應義塾大学である。福沢諭吉は、甲申事変が失敗した報を受けると「脱亜論」を発表した。
壬午軍乱
80年代に入ると、朝鮮の財政は困窮した。そのため兵士への俸給が滞るようになった。一部では兵士への俸給を水増しするため、給料のコメに石を詰めてごまかしたというエピソードもあった。
82年、兵士が、閔妃政権と閔妃政権を支援する日本の日本大使館を攻撃した。この時、兵士は大院君を担ぎだして戦争を行った。この反乱は日本軍と清王朝軍の支援によって鎮圧された。これを壬午軍乱という。
日本政府がこの反乱で賠償金を得るとともに大使館護衛のために朝鮮に軍隊を駐屯するようになった。一方で、閔妃政権は、清王朝軍の強さを実感した。そのため、清王朝との関係を強めていくようになった。そのため、清王朝は朝鮮半島に軍隊を駐屯させるようになった。壬午軍乱で駐屯した日本軍と清王朝軍が2年後甲申事変を引き起こすことになる。