平和な東アジア
18世紀、東アジアは平和な時代であった。清王朝(中国)黄金期を迎えていた。康熙帝、雍正帝、乾隆帝の時代である。一方で、江戸幕府(日本)は、徳川綱吉の元禄文化が花開いたころである。
英祖(ヨンジョ)
老論派(ノロン派)政権
20年、粛宗(スクチョン)が亡くなると、景宗が即位した。これにより、主流派であった老論派(ノロン派)は野に下った。しかし、景宗は病弱だったため、すぐに後継者問題があっ施した。幼い景宗の息子か弟の英祖(ヨンジョ)かである。老論派(ノロン派)は、英祖(ヨンジョ)と結びついた。24年、景宗が亡くなると、英祖(ヨンジョ)が国王に即位した。
少論派(ソロン派)の反乱
英祖(ヨンジョ)が即位すると、少論派(ソロン派)が反乱を起こした。英祖(ヨンジョ)は命からがらこれを鎮圧した。この反乱によって、英祖(ヨンジョ)と老論派(ノロン派)の結びつきを強めた。
実学の時代
英祖(ヨンジョ)の時代には、実学の研究が大きく進んだ。実学とは農業(農学)など生活に直結した学問である。サツマイモ栽培の奨励もその一環である。
粛宗(スクチョン)
粛宗(スクチョン)はどんな国王?
粛宗(スクチョン)は16世紀後半に国王に即位。20年に崩御した。
政権交代で王権を強化
粛宗(スクチョン)の時代は、最も党争が激化した時代であった。粛宗(スクチョン)は、この党争を利用して王権の強化に強めた。具体的には、頻繁に政権交代を行い、主要派閥の弱体化をはかった。
主な派閥
党争時代の派閥のことを、朋党(ほうとう)と呼ぶ。粛宗(スクチョン)時代の主要な朋党は次の3つであった。
- 老論派(ノロン派)
粛宗(スクチョン)時代の初期の主流派 - 少論派(ソロン派)
粛宗(スクチョン)時代の初期の反主流派 - 南人派(ナミン派)
粛宗(スクチョン)時代以前の主流派
国境の画定
粛宗(スクチョン)時代には、国境の画定も行われた。この時に清王朝との国境を白頭山山頂に定めた。
江戸幕府とも、17世紀末に朝鮮通信使を通じて日本海にある島の領有権を確定させた。この文書は現在の竹島問題につながる。