18世紀後半の朝鮮半島 老論派 vs 朝鮮国王 正祖

18世後半の朝鮮半島

李氏朝鮮

 18世紀、朝鮮半島には李氏朝鮮という王朝が存在した。李氏朝鮮は、14世紀末から20世紀初頭まで続いた王朝である。なお、李氏朝鮮という言葉は現在あまり使われてなく、単に朝鮮というのが一般的である。

 建国は14世紀末である。東アジアでは、モンゴルの元王朝が衰退し、漢民族の明王朝が成立した時期である。ちなみに日本では足利義満が南北朝を統一した時期である。李氏朝鮮は、元王朝の属国であった高麗王朝を倒して建国した。初代国王は李世民である。

 李氏朝鮮は、明王朝や清王朝の庇護のもと、400年以上の長期政権を築いた。しかし、日清戦争で清王朝が日本(明治新政府)に敗れると1910年に日韓併合で朝鮮王朝の歴史に幕を閉じた。

党争(貴族たちの権力闘争)

 18世紀、李氏朝鮮の政治の中心は両班(やんばん)と呼ばれる貴族であった。両班(やんばん)は官僚になるため、国家試験(科挙・かきょ)に合格しなければならなかった。そのため、両班は、科挙の重要科目である儒学に精通していた。儒学は多くの学派に分かれていた。儒学者の学派同士の対立と貴族の権力闘争が結び付いて、李氏朝鮮では魑魅魍魎(ちみもうりょう)な政権抗争が行われた。これを党争(とうそう)という。

 朝鮮国王は、この派閥争いを巧みに使いながら国王の地位確保を進めた。17世紀から18世紀の朝鮮政治史はこの党争を理解しないとほぼ理解できない。後半では、2人の朝鮮国王を見ていきます。

18世後半の国際情勢 

 18世紀のヨーロッパは、第二次英仏百年戦争の真っただ中にあった。その舞台は、ヨーロッパとインド、アメリカであった。そのため、当時の東アジアは、比較的安定していた。東アジアの国々(中国の清王朝、李氏朝鮮、日本の江戸幕府)は、ヨーロッパとの交易は行っていたものの時の政権がこれを独占していた。

 この時代は、日清ともに長期政権が樹立された時代である。清王朝では黄金期の最後の皇帝乾隆帝の時代であった。一方で、日本では18世紀後半に徳川幕府最強の将軍徳川家斉が即位。19世紀初頭の家斉バブルへ向っていく。

 外敵がいないおかげで、朝鮮は権力抗争に明け暮れる余裕があった。

 しかし、この安定期は長くは続かなかった。96年に清王朝皇帝乾隆帝が亡くなると、中国南部で白蓮教徒の乱が発生。これをきっかけに、清王朝は衰退期に入っていく。

正祖(チョンジョ)

復讐に燃える国王

 76年、正祖(チョンジョ)が国王に即位した。正祖国王の父は、当時政権の中枢にいた老論派(ノロン派)の陰謀によってなくなった。そのため、正祖国王は、即位すると間もなく老論派の一掃を行った。このドラマチックな展開は、韓流時代劇「イ・サン」に描かれている。

 正祖国王は、老論派と対抗できる政権を作らなければならなかった。そのため、実力者が次々と採用した。これにより実力主義に政権ができた。一方で、国王の権限強化と中央集権化が進んだ。

国王の敵、老論派(ノロン派)とは

 老論派(ノロン派)は、17世紀後半の粛宗(スクチョン)時代に国王側についた党派。18世紀前半、粛宗が亡くなると、政権から離脱した。しかし、英祖(ヨンジョ)を担いで再び政権に返り咲いた。

 正祖(チョンジョ)が国王に即位すると、再び野に下った。老論派(ノロン派)は分裂した。イサンを支持した時派と反イサン側になった僻派である。

 時派は、冷遇されていた少論派(ソロン派)や南人派(ナミン派)と結びついて政権を維持した。

反カトリック運動で国王派劣勢に

 正祖(チョンジョ)国王は、反カトリックの立場をとりつつも、柔軟な対応を行っていた。

 90年代に入ると、カトリック関連のスキャンダルが次々起こる。反主流派の僻派は、強硬な反カトリック運動を展開した。

世界遺産 水原華城

 正祖(チョンジョ)は、ソウルの南、水原(スウォン)に華城(ファソン)を築いた。これは、非業な死を遂げた父を弔うためである。
 正祖(チョンジョ)は、ソウルから水原へ遷都も計画されていた。

志なかばで亡くなる

 00年、正祖(チョンジョ)国王は、幼い息子を残して亡くなった。反カトリックで劣勢の状態であった。これにより、国王の権限強化政策は志なかばで終わった。これにより、水原遷都も実現はしなかった。

 その後は、時派の安東金氏一族による外戚政治が展開される。安東金氏一族は、反カトリックの世論にこたえるため、カトリックの弾圧を積極的に行った。

英祖(ヨンジョ)

長期政権

 英祖(ヨンジョ)は18世紀前半に朝鮮国王に即位した。在位期間は50年以上におよび、歴代朝鮮国王の中で最長の在位期間を持つ。

勢力均衡

 英祖(ヨンジョ)は、老論派の支持で国王に即位した。そのため、国王就任当時は、老論派の官僚を積極的に採用した。

 18世紀後半に入ると、英祖(ヨンジョ)国王は、国王の権限強化のため、勢力均衡を図っていく。そのため、反主流派の少論派(ソロン派)官僚も積極的に採用した。また、同じ党派内の結婚を禁止した。

 76年に英祖(ヨンジョ)が亡くなるころには、老論派の脅威は薄ららいでいた。そして、老論派への復讐に燃える正祖(チョンジョ)が国王に就任する。

サツマイモに救われる

 18世紀、朝鮮ではたびたび飢饉が起きた。日本でも18世紀後半に天明の大飢饉が起きている。

 英祖(ヨンジョ)国王は、朝鮮通信使が持ち帰ったサツマイモの栽培を奨励した。その結果、飢饉に強いサツマイモのおかげで朝鮮国民は飢えをしのぐことができた。