1880年代のポーランド
80年代のポーランド。ポーランド王国は存在していたが、国王は、ロシア皇帝が兼任。ロシアの支配下にあった。
当時のポーランドは、皇帝暗殺事件を受けて、ロシア帝国の厳しい統制下にあった。
1870年代の国際情勢
日本は、明治時代。明治新政府がさまざまな政策を実施していた。また、士族反乱も多かった。西郷隆盛の西南戦争がおきたのもこの時代である。
ヨーロッパでは、ドイツ帝国が成立。ビスマルク体制が成立した。
ビスマルク外交
ドイツ帝国と外交方針
70年、ドイツは、普仏戦争でフランスに勝利し、ドイツ帝国を建国した。
ドイツ帝国は、フランス、オーストリアとロシア(ポーランド)という3つの強国に囲まれていた。
普仏戦争で険悪になったフランスとロシアもしくはオーストリアが結びついたら、ドイツ帝国は存亡の危機になる。事実、120年ほど前(18世紀半ば)の七年戦争では、フランス・オーストリア・ロシアの同盟が成立し、ドイツの全身であるプロイセンは、滅亡寸前にまで至った。
プロイセンは、オーストリア・ロシアとともにポーランド分割を実施。3国は、ポーランドを通じて良好な関係を築くことができた。
ビスマルクは、七年戦争を教訓に、ロシア皇帝とオーストリア皇帝とともに73年に三帝同盟を締結した。
ドイツ帝国とロシア
ビスマルクは、ロシアとの関係を良好な関係を築こうとした。そのため、ロシアの東欧(ポーランドやバルカン半島)への進出を容認していた。
露土戦争とベルリン条約
78年、ロシア帝国は、露土戦争に勝利。ロシアはバルカン半島に大きな影響力を持つようになった。
これに待ったをかけたのがオーストリアとイギリスである。オーストリアは、多民族国家のためバルカン半島の独立運動がへ自国の波及を恐れていた。また、イギリスは、エジプトへ進出していたため、ロシアの地中海進出を警戒していた。
ビスマルクは、ロシアのバルカン半島進出には寛容であった。しかし、オーストリアとイギリスを敵に回すことはできなかった。
ビスマルクは、ベルリン会議を開催。ロシアのバルカン半島進出を制限した。これがベルリン条約である。
これにより、三帝同盟は崩壊した。
ベルリン条約後のドイツとロシア
ベルリン条約によって、ドイツ帝国とロシア帝国は亀裂が入った。
ビスマルクは、ロシアとの関係修復は困難と考え、オーストリアとの関係を重視した。79年、独墺同盟を締結した。
ロシアは、ビスマルクの方針転換に脅威。81年、三帝同盟は復活した。
ビスマルクとポーランド
ビスマルクは、ポーランドの独立運動をロシアの外交交渉のカードに利用していた。ときによっては、ビスマルクはポーランドの独立運動を利用した。
一方で、ドイツ国内にもポーランド人も存在した。そのため、ドイツ国内のポーランド人が独立運動を起こすことも警戒した。そのため、過度にポーランドの独立運動をすることはなかった。
ポーランドとロシア
ポーランドの反乱
61年、ロシアで農奴解放令がでる。これをうけて、ポーランドで大規模な独立運動が発生。
ロシア帝国は、これを鎮圧。ポーランドへの反動政治が始まった。
反動政治
70年代のポーランドは、1月蜂起後の反動政治の時代であった。
その1番の影響は、ポーランド語の禁止である。ポーランドの学校教育はすべてロシア語で行われるようになった。
また、ポーランド議会は解散。ポーランド人は要職から追放された。そのため、ポーランド貴族は没落した。その1例がピウスツキである。