1890年代のポーランド
90年代のポーランド。ポーランド王国は存在していたが、国王は、ロシア皇帝が兼任。ロシアの支配下にあった。
その頃、フランスではポーランド出身の科学者マリ・キュリー(キュリー夫人)が放射能研究で活躍していた。
1880年代の国際情勢
日本は、明治時代。大日本帝国憲法を制定し、帝国議会が始まった頃である。
ヨーロッパ諸国は、帝国主義の時代。世界各国は植民地獲得競争で躍起になっていた。この時期は、アフリカ分割が進んだ時代であった。
ロシア皇帝暗殺
ロシア皇帝暗殺事件
81年、ロシア皇帝アレクサンドル2世が暗殺された。犯行は、ナロードニキの流れをくむテロリスト集団「人民の意思」であった。
ロシア皇帝とポーランド国王
当時のポーランドは王国であった。しかし、1815年のウィーン体制で、ロシア皇帝がポーランド国王を兼任することになった。
19世紀、ポーランドは何度も独立運動を展開したがいずれも失敗した。
ポーランド国王アレクサンドル2世
アレクサンドル2世は、55年に皇帝に即位。当時は、配色濃厚なクリミア戦争の真っ只中であった。
クリミア戦争に敗北すると、「上からの近代化政策」を展開。その代表格が農奴解放令である。
ポーランドで反乱がおこると、政策を転換。反動政治を行った。これにより、民衆が反発。81年の皇帝暗殺につながる。
反動政治
新皇帝
新皇帝アレクサンドル3世が即位。前皇帝アレクサンドル2世の暗殺事件を受けて、皇帝専制政治を強化した。
ロシア語の強制
アレクサンドル3世は、暗殺事件を受けて、反皇帝派の弾圧を行った。
アレクサンドル3世の反動政治の特徴は、ロシア語の強制と宗教政策である。
ポーランドなど、ロシア帝国の支配下にロシア語教育を強制。ポーランド語による教育を禁止した。
宗教も、東方正教会を重視し、他の宗教を弾圧した。ここから、反ユダヤ主義の考えも登場。多くのユダヤ人がアメリカへ移住した。これをきっかけに「シオニズム運動」が始まる。
ピウスツキの投獄
ナロード=ニキの過激派「人民の意思」は、再び皇帝暗殺計画を立てた。しかし、87年3月実行に移る前に発覚。関係者が投獄された。この中には、この後ポーランド独立運動を展開していくピウスツキも含まれていた。
ピウスツキは、元ポーランド貴族の家系に生まれる。84年に母が死亡。86年、ロシアのハリコフ大学に入学。医学を万編んでいた。
ロシアとドイツ
ビスマルク外交
70年代、80年代のヨーロッパは、ビスマルク外交によって平和が保たれていた。それを仕切っていたいのがドイツ帝国宰相のビスマルクであった。
ドイツ帝国は、70年に成立したばかりの帝国である。周りには、西のフランス、南のオーストリア、東のロシア(ポーランド)と大国に囲まれていた。ビスマルク外交の背景には、オーストリアかロシアがフランスと結びついてドイツを攻撃するのを恐れていた。
結果、ヨーロッパでは大きな戦争は怒らなかった。その軍事力は植民地獲得戦争へ向かっていった。
80年代のビスマルク外交
77年の露土戦争、78年ベルリン条約を通じて、ロシアとオーストリアは、バルカン問題をめぐり対立するようになった。
ビスマルクは、この対立を通じてロシアかオーストリアがフランスと結びつくことを恐れていた。
81年、新三帝同盟
ビスマルクは、まずオーストリアに接近。79年に独墺同盟を成立。ロシアは、これに驚愕。81年、三帝同盟を復活させた。新三帝同盟である。
87年、再保証条約
85年、バルカン半島のブルガリアをめぐり、オーストリアとロシアが再び対立。新三帝同盟は、87年に解消された。
同87年、ビスマルクは、オーストリアには極秘で、ロシアと再保障条約を締結した。
露仏同盟へ
再保障条約の翌年である88年、ドイツでは新皇帝が即位。ヴェルヘルム2世である。
90年、ヴェルヘルム2世は、宰相ビスマルクを引退させ、ロシアとの再保障条約を解消した。
翌91年、ロシアは、露仏同盟を成立。ビスマルク体制は崩壊し、ドイツ帝国は、フランスとロシアの脅威にさらされることになった。