1980年代後半のポーランド 東欧革命

1990年代のポーランド

 90年代の東欧は、ソ連が崩壊。ベラルーシやウクライナが独立を果たした。

1980年代後半の国際情勢

 世界は、歴史的転換である89年を迎える。主な出来事は、以下の通りである。

  • 日本 平成時代が始まり、消費税が導入される。
  • 中国 (第二次)天安門事件
  • ドイツ 東欧革命でベルリンの壁崩壊
  • ソ連 マルタ会談で冷戦が終結

共産党以外の選挙

冷戦期の東欧諸国の選挙

 現在、中国は共産党の一党独裁政権である。共産党以外の政党は非合法とされていた。当時の東欧諸国も共産党(もしくは労働党以外の政党は非合法とされていた。

新ベオグラード宣言

 東欧革命の始まりは、88年3月のソ連のゴルバチョフ書記長の新ベオグラード宣言である。ベオグラードは、旧ユーゴスラビアの首都で、現在はセルビアの首都である。

 新ベオグラード宣言とは、ゴルバチョフ書記長が提示した新外交方針である。ブレジネフ書記長の「制限主権論」を否定し、東欧諸国の自由を認めた。

ポーランドで「連帯」政権の成立

 ポーランドは、戦後、「統一労働党」の一党独裁の状態であった。当時の政権は、ヤルゼルスキ政権であった。

 88年2月、ヤルゼルスキ政権は、価格の引き上げと賃上げの当時実施を行おうとした。3月、新ベオグラード宣言。4月、価格引き上げに対する大規模なストライキが発生した。

 ストライキとは、労働者が経営者に労働環境の改善(賃上げなど)をもとめて、集団で仕事をさぼり(ボイコット)、無理やり休業させることである。日本では、労働団体が弱体化により、ストはほとんど行われていない。直近では、23年9月に、ストライキが発生。池袋西武が1日休業した。

 話を本題に戻す。翌89年1月、ハンガリーで複数政党制の選挙が実施された。2月、ポーランドで円卓会議を開催。6月に自由選挙を行うことが決定された。ワレサ氏の労働団体「連帯」が合法化された。

 「連帯」は、81年12月に非合法化されていた。

 6月に自由選挙を実施。9月、ヤルゼルスキ政権は、カトリック系政党から首相を任命。カトリック系政党との連立政権が実施された。

 翌90年11月の大統領選挙で、「連帯」のワレサ氏が勝利。ヤルゼルスキ連立政権が崩壊。ワレサ政権が成立する。

ハンガリー

 ハンガリーは、ポーランドとともに東欧革命の先駆的な存在であった。その背景は、2つある。1つ目は、中立国のオーストリアと国境を接していること。2つ目は、ソ連にそれほど親近感がないことがある。50年代に、ソ連によって、時の大統領が初見された経緯がある。

 ハンガリーは、ポーランドともに、血を流さず、話し合いで民主化した。ハンガリーも、きっかけは、経済の悪化であった。そのような中、88年に大統領が健康上の理由に引退した。同じ頃、新ベオグラード宣言が発表されている。

 1月、政治活動の自由を容認。多くの政党が成立した。

 5月、ハンガリーは、中立国のオーストリアとの国境を開放。これが11月のベルリンの崩壊につながる。

ベルリンの壁の崩壊

ハンガリーとピクニック

 ハンガリーは88年1月に民主化した。5月、このハンガリーは中立国のオーストリアとの国境を開放した。

 当時のオーストリアは、ソ連に配慮して、ECやNATOなど西欧諸国の国際組織には参加していなかった。95年に北欧諸国とともにEUに加盟したが、NATOは現在も非加盟である。

 国境を開放すると、多くの東ドイツの人々がハンガリー・オーストリア経由で西ドイツに向かった。これがピクニック計画である。

ベルリン壁の崩壊

 東ドイツ政府では、ピクニック計画による人口流出が問題になっていた。ちなみに、ドイツ前首相メルケル首相は東ドイツ出身であり、ロシアのプーチンもKGBの職員として東ドイツに派遣されていた。

 11月、東ベルリンで大規模集会が開催。これにより、ホネカー第一書記が辞任した。新政権の施政方針演説で事件が発生した。

 この時の、広報官が失言。西ドイツへの渡航の自由を発表してしまった。これにより、多くの人々がベルリンの壁へむかい、ベルリンの壁を崩壊してしまった。東ドイツ政府もこれを追認せざるを得なくなった。

 これが、翌90年10月のドイツ統一につながる。

チェコスロバキアの民主化

 一方、チェコスロバキアは、民主化では後進国である。それは、一番最後にソ連の弾圧を受けた国であるからである。68年の「プラハの春」である。そのため、当時のチェコスロバキアは親ソ政権であった。

 89年1月、大学生が「プラハの春」の追悼集会を実施。政府はこれを弾圧した。これを受けて、政府への抗議運動が活性化した。「プラハの春」の指導者ドプチェクは民主化を要求。味方である周辺国も民主化し、国際的にも孤立し始めた。

 5月、ハンガリーが国境を開放。西ドイツへ向かおうとする東ドイツ人がチェコを通過。10月、首都プラハで大規模集会を開催。11月、ベルリンの壁崩壊。12月、大統領が辞任し、民主化した。これをビロード革命と言われる。