紀元前6世紀のギリシャ アテネの民主化

紀元前6世紀のギリシャ

紀元前、6世紀のギリシャは、地中海沿岸や黒海沿岸に数多くの植民市を建設し、地中海交易が盛んになっていた。

ギリシャは3つの身分で構成されていた。政治と軍事を担う貴族、奴隷などを利用して農業・商業などをおこなう市民、そして奴隷である。

 紀元前6世紀になると市民の間に格差が生まれ始める。富裕市民の中には自前で武具を買いそろえられるものが現れた。かれらは騎兵になることはできなかったが、重装歩兵として戦に出るようになった。兵隊になる市民はやがて参政権を求めるようになった。これにより、富裕市民と貴族の対立がはじまり、ギリシャは民主化へ向った。

アテネとスパルタ

アテネ

 ギリシャでは、有力なポリスが2つ誕生した。イオニア系のアテネとドーリア系のスパルタである。

 アテネでは、3つの階級が存在した。市民階級の貴族と平民、そして奴隷である。アテネの奴隷は総人口の3分の1に当たる。その大多数は異民族であった。

 奴隷は、個人所有で、家事や農作業、手工業、銀山の採掘などを行った。

スパルタ

 スパルタは少数の市民と大多数の奴隷で構成された。奴隷は、半自由民のペリオイコイと奴隷のヘイロータイで構成された。

 ペリオイコイは、同じドーリア系や先住民のアカイア系で構成。商工業に従事した。市民と同じ扱いを受けたが、参政権などの市民権はなかった。なお、戦争時には歩兵部隊として参加した。

 ヘイロータイは、征服されたアカイア系住民が中心。農地が与えられ農作業に従事。スパルタではたびたびヘイロータイの反乱がおきた。

 スパルタ市民の仕事はヘイロータイの反乱防止であった。そのため、スパルタの市民は厳しい軍事訓練をうけ。ここから、スパルタ教育ということが生まれた。また、ヘイロータイには貨幣の使用を禁止した。

 また、市民の団結を高めるために鎖国政策を行った。このような体制は6世紀半ばに成立した。

クレイステネスの改革

 ペイシストラトスの僭主政治がおわると、クレイステネスが政権を握った。彼らは独裁者復活しない仕組みを作りだした。これが陶片追放(オストラキスモス)である。

 また、血縁(世襲)による旧来の部族性を排して、地縁共同体による部族性に改めた。

ペイシストラトスの僭主政治

 6世紀半ばになると、僭主と呼ばれる独裁者が現れ始めた。その代表例がアテネのペイシストラトスである。

 ペイシストラトスは、中小農民の保護を行い、彼らの支持を集めた。彼らの支持により政権を握り続けることができた。世界初のポピュリズムといっても問題ないだろう。

ソロンの改革

 血縁(貴族か市民か)ではなく、財産の大小によって市民の参政権を定めた。(財産政治)

 かわりに、徳政令のように負債を帳消しにした。さらに、借財を負った市民を奴隷として売ることを禁止した。(債務奴隷の禁止)

そのころトルコは

ササン朝ペルシアの侵攻

 紀元前6世紀、トルコにはリディア王国が存在した。この国は6世紀半ばに全盛期になった。

 46年、東の大国アケメネス朝がリディア王国へ侵攻。リディア王国は滅亡。トルコは、アケメネス朝の支配下に入った。

リディア王国

 紀元前7世紀、初めてオリエント(中東)が統一された。アッシリア王国である。しかし、紀元前7世紀末に崩壊。4つの王国に分裂した。トルコにできたのは、リディア王国である。

 リディア王国は、世界で初めて金貨を製造した。