1970年代のイギリス イギリス病不況から EC加盟へ

1970年代、日本は高度成長期がおわり、低成長期に入った。これは日本だけでなくアメリカやヨーロッパでも起こっていた。

 イギリスも例外ではなかった。しかし、イギリスは60年代から低成長期に入っていたこの60年から70年の低成長期をイギリス病という。70年代の不況は、イギリスのEC加盟に結び付いた。

 この70年代、イギリスのロックシンガー、ジョンレノンがイマジンを発表した。

前回の復習 80年代のイギリス

 80年代、保守党のサッチャー首相が自由主義経済政策を進めた。今回はサッチャー首相を生んだ、70年代の不況下のイギリスを見ていく。

イギリス病という名の不況

 イギリス病とは、60年代から70年代にかけての20年間にわたるイギリスの経済停滞期をいう。アメリカに次ぐ世界2位の経済大国であったイギリスは、フランス、西ドイツ、日本に抜かれることになる。

要因、大きな政府政策

 40年代のアトリー労働党政権以降、イギリスは大きな政府政策を行った。企業の国有化と社会保障費の増大である。それを支えたのが30年代の経済恐慌があった。一時的な財政赤字が景気をよくするというケインズ経済学の考え方である。また、労働組合も大きな発言力を持っていた。とくにソ連の台頭は労働組合の発言力を強めた。
 しかし、60年代に入ると、フランス、西ドイツ、日本などが台頭。イギリス経済は停滞期に入った。税収は低下、大きな政府政策を維持する財政力を維持できなくなった。
 また、強い労働組合や保守的な経済構造は国際競争力を低下させていた。

結論、保守党サッチャー首相の小さな政府政策

 今までの大きな政府政策(企業の国有化や社会保障の拡大)が大きな批判を浴び、小さな政府政策を訴える。保守党サッチャー氏が台頭していく。75年、政権交代を許したヒース首相に代わり野党保守党の党首に、そして79年、政権交代を果たし、首相になった。

大きな政府と小さな政府

 「大きな政府」と「小さな政府」は政治学の用語である。大きな政府は、税金が高いが政府支出が大きいので公共サービス充実している。一方小さな政府は、税金が安く、その分政府支出が少ない。税金は一般的に高所得者に対して不利に作られている。そのため、大きな政府低所得者に有利に、小さな政府は高所得者に有利な政策となる。この視点を持って政治家の発言を見るとより政治がわかりやすくなると思います。

70年 保守党 ヒース首相

政権交代で樹立

 70年総選挙、当初、現職ウィルソン首相の労働党が勝利するものと思われた。しかし、予想をくつがえし、僅差で保守党が勝利した。その要因は、ストライキの規制強化とIRAテロ(北アイルランド問題)と思われる。

北アイルランドとIRA

 北アイルランドは、アイルランド島にあるUK(イギリス)領。もともと、カトリック教徒のアイルランド人が生活していた。しかし、スコットランド人のプロテスタントが大量に移民。移民のほうが多数派になった。そのため、1922年アイルランド独立時に、UK(イングランド)に残った。

 北アイルランドは、3分の2がプロテスタント、3分の1がカトリックである。少数派になった北アイルランドカトリック教徒がUKを離脱したアイルランドに併合ざれることを望んだ。60年代末、その一部が過激化し武装化した。彼らをIRAアイルランド共和国軍)と名乗った。

 この問題は、1998年ブレア政権時代、北アイルランド和平合意が行われた。IRA武装解除には時間がかかり、2003年にIRA武装解除を宣言した。しかし、現在も北アイルランド自治はまだ事件していない。UK(イギリス)がEUから離脱する際に、この地域がEUアイルランドとして残留するか、UKとしてEUから離脱するかが現在問題になっている。

毛沢東と香港保全交渉

 70年代、中ソ対立が激化していた。71年、アメリカのニクソン大統領が訪中。西側諸国と中国の関係が急速に改善した。ヒース首相も訪中した。このとき、97年の九龍半島返還時についても交渉が行われ、香港島などの割譲地の保全交渉を行った。

世界的な経済停滞期

 60年代、イギリス経済は停滞傾向にあったが、世界経済は好調に推移した。しかし、70年代に入ると経済が停滞傾向に入った。日本でも高度成長期が終わったのもこのころである。

 71年、アメリカのニクソン大統領が金とドルの交換を停止した。アメリカは同時、ベトナム戦争の軍事費と社会保障費の増大による財政赤字が原因である。これは経済停滞のきっかけとなった。さらに、73年、第四次中東戦争が勃発。中東諸国は経済制裁をおこなった。石油輸出の停止である。これにより、物価が高騰した。オイルショックである。これにより、不況と物価高のダブルパンチを食らった。

イギリスはEFTAを脱退してEECに加盟

 50年代、イギリスは、ヨーロッパと一線を画し、EECに加盟しなかった。EECに対抗してEFTAを参加した。しかし、60年代、イギリス経済が停滞。保守党マクミラン首相はこの打開策としてEC加盟を申請した。しかし、EC加盟は拒否された。その中心人物はド=ゴール首相であった。
 しかし、68年の学生運動でド=ゴール大統領退陣。また、ドル=ショックやオイルショックでEECの経済状況も悪化した。EECの拡大が重要な政策となった。
 73年、イギリスは、アイルランドデンマークとともにEEC加盟を実現した。同じ年、フランスとともに東ドイツとの国交を樹立した。

71年 ビートルズ解散

 イギリスの有名ロックバンド「ビートルズ」が事実上解散した。同じ年、ビートルズのジョンレノンは、「イマジン」を発表した。この歌は、ベトナム戦争反戦歌として世界中に広まった。

74年 労働党 ウィルソン首相

再び首相へ

 EC加盟などで景気回復に奮闘した保守党ヒース首相であったが、景気を回復することは実現しなかった。これにより鉱山労働者によるストライキが頻発。74年総選挙に敗北。労働党ウィルソン首相が政権に復帰した。

75年、国民投票でEEC加盟を承認

 労働党は、EEC加盟派とEEC離脱派に分裂した。そのため、EECについて国民投票を行った。これにより、EEC残留が決定した。

75年、フランスパリで第1回サミット開催

 世界的な経済停滞は深刻さを増していた。そのため、フランスのジスカールデスタン大統領はサミット開催を提案した。参加したのはEEC加盟国のイギリス、フランス、西ドイツの3か国に加えて、これまでの経済のけん引役であったアメリカ、そして急成長級の日本である。
 これ以後、サミットは毎年開催されている。

76年 労働党 キャラハン首相

 ウィルソン首相の辞任により、キャラハン首相が誕生した。

IMFから融資を受ける。

 財政収支の赤字を受け、ポンドが大暴落した。これに対し、UK政府はポンド買いを進めた。しかし、UKの外貨準備が枯渇。IMFの緊急支援を受けてようやく収拾した。
 IMFは、緊急支援の条件を提示した。その条件は財政赤字の削減であった。
 これに対し、労働党の支持基盤である労働組合が反発。一部の労働党議員も同調。労働党は分裂した。これにより79年の総選挙で大敗。鉄の女こと、保守党サッチャー首相に政権を譲り渡す。

70年代の終焉、ジョンレノン暗殺

 70年代の音楽は、銃声によって終わった。80年12月、ジョンレノンは、帰宅途中に銃殺された。本当に余談だか、バブル絶頂期の91年の日本のトレンディドラマ「東京ラブストーリー」の中で、ビートルズとジョンレノンが登場する。 

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