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野田候補と二階派

今回から、4回にわたり、各候補の歴史を見ていきます。初回は野田候補を見ていきます。野田候補と

20年代

初出馬

 野田氏は、無派閥の議員である。そのため、何度も総裁選を出馬しようとしたが、20人の推薦人が集まらず断念した。

 しかし、今回は二階派が推薦人を提供。出馬が可能になった。

二階おろし

 01年、自民党総裁選が始まると、岸田氏が出馬表明。ここで、岸田氏は二階幹事長に先制攻撃を仕掛けた。公約の1つに自民党役員の任期制限を付けた。これが二階おろしの始まりである。

 若手議員や世論はこれを支持した。

 若手議員の支持が多い菅首相も、これを無視できなかった。そのため、菅首相も二階幹事長の再任を否定した。二階氏は、これを容認する一方で、後継候補を提供しなかった。

 敗色濃厚の衆院選が控えているため、幹事長のなり手がなく、菅首相は総裁選の出馬を断念せざるを得なくなった。

 一方、二階幹事長も迷走した。有力対抗馬の河野氏に接近したが、河野氏はこれを拒否。次に向かったのが石破氏であったが、不出馬で河野氏支持へ回った。

 結果、野田氏の出馬を支援することになった。

狂ったシナリオ

 二階幹事長と菅政権が想定していたシナリオは以下のとおりである。

 春には、コロナが終息。夏の東京オリンピックの成功で衆院選に勝利。無投票で総裁選を再選。

 しかし、デルタ株が流行で、緊急事態宣言の再発令。東京オリンピックも無観客で開催。観光客もほとんど来ず、多くの批判を浴びた。そのため、解散カードを切れず、先に総裁選を迎えることになった。

菅政権

 20年、安倍首相が体調不良で辞任。安倍首相や官邸は、岸田氏へ禅譲で進めていた。

 しかし、二階幹事長がここで仕掛けた。菅官房長官を担ぎ上げたのである。これにより、菅官房長官の流れができ、安倍首相らもこれに追随せざるを得なかった。

 岸田氏は、これに激怒。21年総裁選の二階おろしにつながる。

10年代

出馬断念の歴史

 12年、安倍政権が成立。野田氏は自民党総務会長に就任した。この時、高市氏も政調会長に就任している。

 15年、リベラル派の代表として総裁選に出馬を検討。しかし、推薦人が集まらずに断念。

 17年7月、安倍自民党は都議選で都民ファーストの会で大敗。内閣改造を実施。総務大臣は、タカ派色が強い高市氏から、野田氏に変更した。10月、タカ派色の強い小池氏の希望の党に勝利した。

 18年総裁選、再び野田氏が出馬に向けて動いた。しかし、また推薦人が集まらずに断念した。

二階派に成立

 09年、自民党が大敗。伊吹派は、壊滅状態の二階グループを吸収した。12年衆院選で自民党は与党に復帰。伊吹会長が衆議院議長に就任。二階氏が後継会長に就任。14年、野田氏の後継で二階氏が自民党総務会長に就任。16年、二階氏が自民党幹事長に就任。現在に至る。

弱きもののための政治

野田氏は、

00年代

90年代

80年代後半

70年代

60年代

50年代

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自民党の歴史 3人の長老 vs 若手

長老 vs 若手

 多くの自民党総裁選は、派閥の論理で決まっていた。しかし、今回の選挙はこの様相が違っている。派閥が若手をコントロールできなくなっている。

 現在、自民党では、当選3回以下の議員を若手と呼んである。3回前の選挙は、2012年に政権を奪還したときのものである。つまり、逆風の中での選挙は今回(2021年)が初めてである。

 自民党の推計では、与党で過半数を維持するが、多くの議席を減らすとしている。中堅以上の地盤がしっかりしている議員は、当選後の閣僚人事を気にする。そのため、おそらく派閥に従っていくと思われる。しかし、若手は勝てる候補を探している。

 若手議員が求めているのは、2001年の総裁選である。当時の自民党は、森首相の発言で逆風が吹いていた。民主党政権への政権交代も現実味を持っていた。しかし、この選挙で小泉首相が誕生。自民党の支持率は急上昇した。

 若手議員は、派閥中心の密室政治が自民党を悪く見せていると考えている。前回(2000年)の総選挙は、派閥相乗りで菅総理が誕生した。そのため、長老に歯向かうことで自民党が改革していることをアピールしている。

3人の長老① 前首相の安倍氏

生い立ち

 安倍首相は、初の戦後生まれの総理であった。54年に東京都で生まれた。祖父が岸首相、父が安倍晋太郎という3世議員である。幼いころに安保闘争を経験している。

 成蹊大学を卒業後、神戸製鋼に就職。その後、父安倍晋太郎の秘書となった。91年総選挙で初当選。同期には、今回の総裁候補の岸田氏、高市氏がいる。ちなみに田中真紀子氏も銅器である。父と同じ、旧安倍派(現在の細田派)に所属している。

 00年の森首相時に官房副長官になった。03年、山崎氏がスキャンダルで失脚すると自民党幹事長に就いた。05年、小泉氏が優勢選挙で総理。安倍氏を後継に考え官房長官に就けた。

 06年、小泉首相の任期満了で総裁選が行われる。この時出馬したのが麻生氏と谷垣氏(現在の岸田派)である。小泉氏の後継ものとして圧倒的大差で勝利した。

 経済政策は、小泉首相時代のものを継承。教育改革などタカ派色の強い政策をとった。しかし、この時期、自民党の不祥事が相次いだ。07年の参院選に敗北。1年で退陣した。

 12年、谷垣氏の任期満了の総裁選で勝利。首相に返り咲いた。

3人の長老② 副総理の麻生氏

3人の長老③ 幹事長の二階氏

 二階幹事長は、戦時中の39年、和歌山県に生まれる。父は県議会議員の政治家の家系であった。

80年代 初当選、田中派に所属

 83年の中曽根政権時に初当選。同期は谷垣元総裁である。初当選時は最大派閥の田中派に所属した。二階氏は、親中派になる。

90年代 小沢氏とともに、自自公連立内閣へ

 93年に小沢幹事長とともに自民党を離党。新生党に参加する。その後新進党へ。新進党が回答すると、小沢氏とともに自由党に参加。98年の自自公連立に参加する。

00年代 自民党へ合流

 00年4月、小沢氏の連立離脱で、自由党が分裂。海部元首相らとともに自由党を離党し、保守党(のちの保守新党)を結成。連立政権に残留。7月の総選挙で保守党に大惨敗。このころ、保守党の野田氏の紹介で中曽根元首相と親交を深める。

 03年11月の総選挙でも、保守党は議席を減らす。その年に自民党に合流。二階グループを結束。05年の郵政解散で、活躍。厚い信頼を得て、復党組では異例の要職に追くことになる。

 09年の政権交代選挙で、二階グループは、当選が二階氏の身になった。そのため、同期の伊吹会長を頼って、伊吹派(元中曽根派)に所属した。

10年代 幹事長へ

 12年に自民党が与党に戻ると、会長の伊吹氏が衆議院議長に就任。二階氏は派閥の会長になる。

 16年、前幹事長の谷垣氏が自転車事故で入院。二階氏は自民党幹事長になる。

 

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50年代の自民党 自民党の結党

党人派と官僚派

 50年代から60年代、党人派と官僚派が勢力争いをしていた。

 官僚派とは、高級官僚出身の政治家である。代表格は吉田首相である。戦後、党人派の大部分はGHQによって公職を追放。選挙に出馬することができなかった。そのため、保守派の政治家が不足した。そこで代わりに政治家になったのが、高級官僚たちであった。

 党人派とは、戦前から政治家だった人たちである。代表格が自民党の初代党首である鳩山一郎である。

安保闘争と岸首相

 岸首相は、日清戦争勝利直後の96年の山口県に生まれた。東京帝国大学卒業後、農商務省に進んだ。当時のトップ省庁である内務省で、岸氏の判断は周りを驚かせた。

 農商務省は、農林省(現在の農林水産省)と商工省(現在の経済産業省)に分離された。岸氏は商工省に配属された。その後、満州に配属された。ここで、軍部や財界、官界に広範な人脈を築いた。同郷の鮎川氏(財閥のトップ)や松岡氏(国連脱退時の外務大臣)も満州にいた。東京へ戻ると、東條内閣で商工大臣として入閣。しかし、その後次官に降格。これにより、岸元大臣は反東條派になる。

 戦後は、A級戦犯として投獄された。48年に釈放。公職追放処分を受けて、民間企業の役員を歴任した。

 公職追放解除後は、自主憲法制定を掲げて政党を設立。ただ、53年総選挙で大敗。吉田自由党に入党する。 

 56年、岸政権が成立。汚職、貧乏、暴力の三悪の追放を掲げ、減税を実施した。

 また、米国とは一定の距離を置き、自主外交を展開した。

 60年1月、アイゼンハワー大統領と会談。安保条約を改定。安保条約の不平等性を改善する一方で、相互防衛を約束した。

 これにより、東京で安保闘争が起こる。60年7月岸内閣は退陣した。

石橋首相

 56年自民党総裁選が行われる。決選投票までもつれ込み、わずか7票差で岸首相を破り、石橋氏が総理総裁になった。しかし、体調不良で2か月で退陣。次点の岸首相が後継総裁になった。

自民党は何故誕生したのか?

 55年1月、鳩山首相は、衆議院を解散。比較第一党を確保するも、過半数をとることができなかった。

 55年10月、社会党左派と社会党右派合流。日本社会党が結成された。これにより、社会党が第1党になった。これに脅威を感じ、鳩山首相の民主党と吉田前首相の自由党が合併。自由民主党が設立した。

 鳩山首相は、自主外交を展開。ソ連と国交を回復し、国連に加盟した。

 鳩山首相は、ソ連との国交回復を花道に、退陣した。

鳩山首相

 鳩山首相は、帝国議会が設立される前の83年の東京で生まれる。東京帝国大学(現在の東京大学)卒業。地方議会を経て、1915年に衆議院に初当選。

 終戦後に、自由党を結成。46年の総選挙で第一党になる。しかし、公職追放。首相の地位を吉田に預ける。

 51年、公職追放を解除。

 54年11月、民主党を結党。幹事長に就いたのが岸氏である。12月に鳩山政権が成立した。

吉田首相

 52年4月、サンフランシスコ講和条約を締結。日本は独立をはたした。この前後から、公職追放が解除。鳩山氏や岸氏が政界に復帰する。

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1980年代前半の自民党 中曽根長期政権

バブル経済と中曽根政権

青年将校、中曽根首相

 中曽根首相は、1918年の第一次世界大戦中に生まれた。東京帝国大学(現在の東京大学)を卒業。戦前は、内務省で働き、海軍へ出向した。

 47年の衆議院選挙で初当選。この選挙は、大日本帝国憲法下の最後の衆議院選挙であった。自民党結成前は、民主党に所属。反吉田の急先鋒で活躍した。

 59年の岸内閣で初入閣。

 首相退任後は、

首相を輩出する群馬3区

 中曽根首相の地盤は、高崎市のある群馬3区である。福田元首相がトップ当選し、2番手で中曽根氏、3位に社会党議員が当選し、末席で田中派の小渕氏が当選した。3人の首相を輩出する選挙区である。

 96年、小選挙区制が導入されると、候補者調整で比例選挙区に回った。しかし、03年、小泉首相が定年制を導入。中曽根氏は政界を引退した。

現在の二階派

 中曽根首相は、自民党結党前は野党の民主党に所属。吉田首相との対決姿勢を見せていた。

 自民党が結党されると、河野一郎派に所属。ちなみに、河野一郎氏は河野太郎の祖父である。河野派は当初、主流派1であったが池田首相時代に反主流派2になる。66年、佐藤首相の支持・不支持で分裂。中曽根ら、不支持派は河野派を離脱。中曽根派を旗揚げした。河野一郎氏の後を継いだ河野洋平氏は、中曽根派に参加。中曽根派が正式な後継派閥になった。72年の角福戦争では、キャスティングボードを握り、田中首相の誕生に貢献した。一方、佐藤首相支持派はのちに、福田派に合流している。

 中曽根氏は、読売新聞の正力松太郎氏や渡辺恒雄氏らと関係が深い。

 中曽根氏は、90年リクルート事件で自民党を離党。派閥は渡辺氏が引きついだ。98年、山崎拓氏らが中曽根派を離脱。山崎派(現在の石原派)を結成。99年、三塚派(現在の細田派)を離脱した亀井グループが合流。村上・亀井派を結成。これが現在第3位の二階派となる。

財政再建とJR

 日本は内需拡大をするため、国営事業の民営化を進めた。JR(旧国鉄)、JT(日本たばこ産業)、NTT(元日本電電公社)

ロンヤス外交

 80年代に入ると、アメリカでは双子の赤字が問題視されるようになった。80年のソ連のアフガニスタン侵攻で、新冷戦が始まると軍事費が増大。財政はひっ迫した。

 アメリカのレーガン大統領は、鈴木首相(大平派、現在の岸田派)に軍事協力を求めた。しかし、鈴木首相はこれをやんわり断った。そのため、日米の関係は悪化した。

 また、円借款問題で韓国政府(全斗煥大統領)でもめていた。

 中曽根首相は、首相になると日韓関係は改善された。

 中曽根首相は、防衛費の拡大と武器輸出三原則の例外処置を土産に訪米。レーガン大統領はこれを歓迎。これによりロンヤス関係が成立した。

 83年5月、ウィリアムズパークサミットを開催。レーガン大統領は、中距離弾道ミサイルの配備を提案。しかし、フランスのミッテラン大統領らヨーロッパの首脳は消極的な対場をとった。このとき、中曽根首相の発言で雰囲気が変わる。声明に西ヨーロッパへの中距離弾道ミサイル配備の可能性について言及された。

 85年、プラザ合意で円高誘導。これにより、円高不況をぼうしするため、大胆な金融緩和を実施。バブル経済が発生した。

 それでも、アメリカが景気回復をしないため、貿易自由化交渉が進められた。これが、80年代後半の牛肉オレンジ自由化問題につながる。

中国と靖国公式参拝

 中曽根首相は親中派である。70年代は日中国交正常化に尽力した。83年11月に、胡耀邦総書記の訪日を実現している。

 85年8月15日、中曽根首相は靖国神社を公式参拝。日中関係が急速に悪化した。当時の中国は、親日派と反日派で権力闘争が行われていた。靖国神社公式参拝で、親日派のメンバーの立場が悪くなった。そのため、中曽根首相は以後公式参拝を中止している。

防衛費GNP1%枠の撤廃

 中曽根首相は、反吉田派である。自主憲法制定、再軍備を主張していた。

 靖国神社の公式参拝。防衛費GNP1%枠の撤廃を行った。

 このように右派色は否定的な一面もあるが。86年の三原山噴火の際は、国家を総動員して全島避難をさせるなど安全保障上の利点も大きい。

 当時、世界は新冷戦の真っただ中。アメリカ政府は防衛費GNP1%枠の撤廃を歓迎した。

男女雇用機会均等法

 79年に、国連で女子差別撤廃条約が締結。これをうけて、85年に男女雇用機会均等法が改正された。これにより、女性の社会進出が進んだ。

 また、風営法を改正。性風俗の規制を強化した。ちなみに、この時期にトルコ風呂がソープランドに改称された。これはのちに都知事になる小池氏が尽力したものである。トルコ人学生の陳情を受けて、カイロ大学を卒業した小池氏が厚生労働省に陳情したものである。 

派閥の世代交代

84年総裁選 二階堂擁立構想

 84年総裁選。高支持率を背景に無投票での再選を考えていた。非主流派の安倍氏(福田派)、宮澤氏(大平・鈴木派)、河本氏(三木派)が再選阻止に動いていた。

 84年、鈴木前首相(大平・鈴木派)は、目白の田中邸を訪問。田中派の二階堂氏擁立を提案した。しかし、田中元首相はこの提案を拒否。

 中曽根首相の無投票再選が決まった。

 この事件で、元首相の発言力が低下していることが露呈。各派閥で世代交代が進んだ。

  • (細田派)福田元首相 → 安倍氏
  • (岸田派)鈴木前首相 → 宮澤氏
  • (麻生派)三木元首相 → 河本氏

大平派 田中氏 vs 宮澤氏

 大平派は、鈴木首相退陣後に後継者起こった。実力で行けば、次は宮澤氏のはずである。しかし、宮澤氏は田中元首相に嫌われていた。そのため、田中角栄元首相は、田中六助氏を支持に回った。それに対し、宮澤氏をサポートしたのが福田元首相である。これで角福戦争の代理戦争が勃発した。

 この後継者争いは、85年田中六助氏が死去。田中角栄元首相も死去。これにより、宮澤派が成立した。

83年総選挙 河野氏の新自由クラブとの連立政権

 83年6月の参院選、自民党が勝利。順調な滑り出しをきった。しかし、その後に逆風が吹き始めた。10月、ロッキード事件で実刑判決。12月の衆院選で、過半数割れの大敗をした。

 中曽根氏は、元中曽根派の河野洋平氏率いる新自由クラブと連立政権を樹立。何とか政権を維持することができた。

 ちなみに、この選挙で83年1月に死去した中川一郎の後を継ぎ、中川昭一氏が初当選。タカ派色の強い福田派に所属した。のちに亀井氏らとともに村上亀井派(現在の二階派)に参加した。

田中曽根内閣

 82年総裁選。鈴木首相の再選を予測していた。しかし、突如鈴木首相が不出馬を表明。後継に中曽根首相を指名した。

 82年の自民党総裁選。田中派の支持を受けて勝利した。第一次田中内閣では、後藤田氏や二階堂氏などの田中派の議員が起用された。そのため、田中曽根内閣などと揶揄された。

 なお、この総裁選では以下の人が出馬した。

  • 安倍氏 反主流派の福田派(現在の細田派)
  • 河本氏 反主流派の三木派(現在の麻生派)
  • 中川氏 石原慎太郎氏と青嵐会というタカ派集団を結成
        翌83年1月に自殺。

鈴木首相

 鈴木首相は岩手県の網元の家に生まれた。大学時代に津波で大きな被害を受けて政治家を志すようになる。

 中曽根首相と同じ47年衆議院選挙で初当選。日本社会党に所属する。その後、支持者の説得で吉田首相率いる民主自由党に参加。自民党結党後は池田派の宏池会(後の大平派、現在の岸田派)に所属。

 80年、ハプニング解散。大平前首相が選挙中に死亡した。ロッキード事件の最中で、第一派閥の田中派は総裁を出せなかった。一方で、福田派や三木派は不信任に参加したために総裁を出すことはできなかった。そのため、大平派の鈴木氏が首相になった。

 海外での知名度が不足。Who is 大平 と揶揄された。

 この時に官房長官に就いたのが大平派の宮澤喜一氏である。

 この時期から財政再建が叫ばれるようになった。大平前首相は消費税を導入しようとして失敗。鈴木氏は「増税なき構造改革」を掲げた。これを指揮したのが中曽根氏である。

 一方で、反主流派の河本氏(三木派)、中川氏(石原慎太郎派)を起用した。

 政治改革に着手。参議院の全国区を比例代表制に変更した。

 

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1980年代後半の自民党 竹下首相とリクルート事件

金権政治と政治不信

 80年代、日本はバブル景気の中にあった。自民党も中曽根首相の長期政権が続いていた。

 しかし、80年代後半に入ると、自民党に逆風が吹き始めた。それがリクルート事件である。これにより、自民党は逆風が吹き始め、参議院で過半数割れ、ねじれ国会の時代に入っていく。

クリーンな政治家、海部首相

三木・河本派

 海部首相は、愛知を基盤にした政治家である。少数派閥の三木・河本派閥に所属。なお、三木・河本派は、後の山東派となり、麻生派に合流した。

クリーンな政治家

 参院選の敗北で宇野政権は退陣。98年総裁選が行われた。当時の有力政治家は次の3人である。宮沢派(元鈴木派で、現在の岸田派)の宮澤喜一氏。宮澤氏は後に首相になる。安倍派(元三塚派で、現在の細田派)の安倍晋太郎氏。安倍氏は、安倍首相の父である。渡辺派(元中曽根派で、のちの二階派)の渡辺美智雄氏である。しかし、彼らはリクルート事件の関与で出馬を見合わせた。そのため、次の次の首相を目指して動いていた。

 そこで、竹下元首相が指名したのは、河本派の海部首相であった。これは、田中首相が退陣した際に、三木首相を指名したのに近い。

 総選挙では、海部氏のほかに、二階堂派(旧田中派で、現在は存在しない)の林氏と、のちに都知事になる無派閥の石原慎太郎氏が出馬した。海部氏は、河本派のほかに主要派閥の竹下派と安倍派が支持し勝利した。ちなみに、林氏は宮澤派の支援を得ていた。石原氏は、安倍派を除名された亀井氏らの支援を受けた。

ねじれ国会

 首班指名選挙では、衆院では、海部総裁が選出された。しかし、参院では、社会党の土井委員長が選出された。ここではじめて衆議院の優越が適用。衆院で選出された海部総裁が首相になった。

 しかし、法律制定では衆議院の優越は使えない。このように、参議院で過半数を確保していない状態をねじれ国会という。海部首相は社会党などの野党に配慮した政治を行う必要になった。

竹下元首相 VS YKK

 海部首相は、実質竹下元首相の傀儡政権であった。海部政権が誕生すると、小沢幹事長が組閣名簿を作成したといわれている。

 重要な政策は、竹下派の竹下元首相、金丸氏、小沢幹事長に相談した。この3人は、金竹小(こんちくしょう)と呼ばれた。

 一方で、反竹下派の発言力も高まった。安倍派(現在の細田派)の小泉氏、宮澤派(現在の岸田派)の加藤氏と中曽根派の山崎氏である。彼らは、イニシャルをとってYKKと呼ばれた。

 竹下派とYKKの戦いは90年代に激化。最終的にはYKKが勝利。2001年の小泉政権につながる。

女性問題で退陣、宇野首相

滋賀の中曽根派の政治家

 宇野首相は、関西の滋賀県選出の国会議員である。県議会議員を経て、国政へ進出した。国政では、中曽根派の議員で活躍した。

リクルート事件で竹下首相が退陣

 89年4月、リクルート事件で竹下首相が退陣。有力政治家はリクルート疑惑で身動きが取れなかった。多くの政治家に首相を打診したが、低支持率で選挙に勝てる自信がなく、ほとんどが辞退。サミット直前ということもあり、外相で中小派閥の中曽根派の宇野首相が誕生した。

サミットと天安門事件

 6月、中国で天安門事件が発生。西側諸国は中国に対して経済制裁を行った。宇野首相も、竹下政権時に決定した中国への資金提供を凍結した。

 サミットでは、三塚外相が中国を孤立させないとほかの西側諸国と距離を置いた。

 中曽根元首相や竹下前首相、鈴木元首相が対中制裁に否定的な立場をとった。この背景には、牛肉オレンジ自由化問題があった。

女性スキャンダルと男女雇用機会均等法

 宇野首相は、サミット直後に参院選を控えていた。当時の自民党はリクルート事件で支持率は低く、参院選は難航が予測された。

 そのような中、就任直後の宇野首相に女性スキャンダルが襲った。

 当時の日本は、85年に男女雇用機会均等法が成立。女性の社会進出が重要視された。最大野党の社会党では、女性の土井たか子が党首に。参院選では多くの女性議員を立候補させた。

参院選で自民党が過半数割れ

 リクルート事件や女性スキャンダルで、自民党は大敗。

 7月の参院選では、マドンナ旋風。土井たか子社会党の躍進で過半数割れを起こす。自民党が参院で単独過半数を回復するのは2012年の安倍政権の時代になる。

 当然、宇野首相は退陣した。

リクルート事件と竹下首相

Daigoのおじいちゃん

 竹下首相は、島根県の英語教師であった。その後、県議を経て国政へ進出した。田中派の議員として活躍した。

 ちなみに、現在の竹下派のボスである竹下亘氏は竹下首相の弟である。2000年、病気で竹下元首相が政界を引退。その地盤を引き継いだのが竹下亘氏である。の竹下派のボスである竹下亘氏は竹下首相の弟である。2000年、病気で竹下元首相が政界を引退。その地盤を引き継いだのが竹下亘氏である。

 余談だが、石破氏は隣の鳥取県が地盤。安倍元首相は隣の山口県が地盤である。

田中元首相、倒れる

 84年、田中元首相は二階堂擁立構想を握りつぶし、中曽根首相を再選させた。

 翌85年2月、田中元首相は脳梗塞で倒れた。ここから政治は転換期に入っていく。

任期延長

 86年7月、中曽根首相は死んだふり解散で衆議院と参議院の同日選挙を実施。自民党は大勝した。

 これは、ハイテク景気が寄与した。

 86年9月、中曽根首相は任期満了。当時の自民党の規定では、総裁の任期は2期4年であった。しかし、直前の自民党の大勝を受け、特例で1年延長された。

竹下派の旗揚げ

 87年5月、田中派の二階堂氏が総裁選への出馬を決めた。このとき、竹下氏は、これに反発。多くの議員を引き連れて、田中派を離脱。当時の最大派閥である竹下派を結成した。

ニューリーダー

 次期総裁は、中曽根首相にゆだねられた。当時の有力政治家は以下のとおりである。

竹下氏、旧田中派(現在の竹下派)のトップ

安倍氏、安倍元首相の父。旧福田派(現在の細田派)のトップ

宮澤氏、旧大平派のトップ

 ちなみに、残りの派閥は、当時の首相の中曽根派と三木派を継承した河本派がある。

 その中で、中曽根首相は竹下氏を後継者に指名した。

昭和天皇崩御

 竹下首相の時代、日本はバブル経済の真っただ中にあった。

 そのような中、悪夢の89年が始まった。1月昭和天皇が崩御。浮かれ気分の日本は自粛ムードに入った。

 ちなみに元号を発表したのは、当時の官房長官である小渕氏である。

消費税導入

 4月、消費税が導入。3%でスタートした。これにより、国民の不満は高まった。

 政治家の経済政策を見るポイントは、緊縮財政かばらまき政策課である。緊縮財政政策とは、増税を行って財政の健全化を図る政策である。一方で、ばらまき政策とは、国債を発行して、財政支出を拡大し、景気を良くして税収を増やし財政を健全化しようとする政策である。

牛肉オレンジ自由化

 80年代、日本は日米貿易摩擦が問題化された。

 竹下首相は、農産物の貿易自由化を突きつけられた。竹下首相は米の自由化を阻止したが、かわりに牛肉とオレンジの輸入を認めた。

 自民党の支持基盤は、農村に集中していた。牛肉オレンジ自由化で自民党は農家の大きな反発を受けた。

 この貿易摩擦から、自民党はアメリカと対抗できる力を持とうとした。そこで目を付けたのが中国であった。

リクルート事件で退陣

 消費税が始まった4月、大きな金権スキャンダルが発生した。リクルート事件である。

 7月に参院選を控えていたため、竹下首相は退陣した。