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閣僚とは⑤ 内閣府特命大臣とは

内閣府特命大臣とは

 内閣府に所属して特定のテーマを担当する大臣。主として内閣府の下の組織の長になることが多い。また、ほかの国務大臣が兼務することもある。

内閣府とは

 内閣府は、省庁の一つで、複数の省庁にまたがる問題を調整する。トップは内閣総理大臣であるが、実務でのトップは、官房長官である。01年の橋本行革で誕生した。

必須の4閣僚

 内閣特命担当大臣は、原則首相が自由に決められるが、法律で4つの特命大臣を置くことが決まっている。

沖縄及び北方対策担当

 沖縄政策と北方領土問題を担当する大臣。

金融担当

 00年に大蔵省から分離した金融機関の監督業務を行う大臣。現在は財務大臣が兼務することが多い。

消費者および食品安全担当

 00年代から、牛肉のBSE問題などの食の安全に関する問題が表面化した。これを受けて、01年に食品安全担当をもうけた。

 福田政権時に、消費者問題を担当する消費者問題担当大臣を設置した。これを担当したのが岸田氏である。主たる仕事が各省庁でバラバラになっている消費者問題の一元化である。

 麻生政権時、消費者庁が設置。これに尽力したのが岸田氏とそれを引き継いだ野田氏であった。

少子化対策担当

 07年の第一次安倍政権時に、初めて設置。当初は女性閣僚が就いていたが、のちに男性閣僚も付くようになった。15年に設置が義務化された。

その他の特命大臣

経済安全保障担当大臣

 岸田内閣で初めて設置された大臣。それまでは経済財政政策担当大臣と呼ばれていた。

 経済財政政策担当大臣は、経済財政諮問会議を運営する。この会議は、内閣の経済政策の方針を決める会議である。この会議は総理大臣を議長とし、閣僚としては、経済財政担当大臣のほかに、官房長官、財政大臣、総務大臣(地方財政、地方税)、経済産業大臣が参加。そのほかに日銀総裁と学者2名、実業家2名が参加する。

 09年の民主党政権時に、これを閉じて国家戦略室を設置した。

 12年の政権交代で安倍政権が成立すると、従来の形に戻した。

 21年、岸田政権は、経済財政政策担当大臣を経済安全保障担当大臣に変えた。これは中国からの経済制裁に耐えられるようにするためである。経済政策に安全保障の概念を加えた。

男女共同参画担当

 99年に成立した男女共同参画法に基づいて設置。現在は少子化担当大臣を兼務している野田氏が兼務している。

 

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閣僚とは④ 新しい省庁

防衛大臣

 自衛隊の管理運営をを行う防衛省を所管。54年に防衛庁を設置。07年の第一次安倍政権で防衛省に昇格した。

 おな、自衛隊の最高指揮監督権は、防衛大臣ではなく内閣総理大臣が持つ。

環境大臣

 環境行政を司る環境省を所管。公害が政治問題化した71年に環境庁は設置された。01年の橋本行革で環境省に昇格した。

 公害防止と自然環境の保護が主な業務である。皇居外苑などの環境管理。原発事故への対応。温室効果ガス排出の抑制などを行っている。

 このポジションには、若手で発信力のある政治家が就くことが多い。小泉政権では小池環境大臣がクールビズを進めた。安倍政権では小泉進次郎氏が環境大臣を務めている。

復興大臣

 11年の東日本大震災の復興のために、11年12月に野田政権が設置した省庁である。10年間(21年まで)の期限付きの省庁であったが、10年の延長が決まり、31年までの延長が決まっている。

デジタル大臣

 20年にコロナが発生。デジタル化の遅れで給付金の支給が著しく時間がかかった。そのため、菅政権はデジタル化の促進のために、20年にデジタル庁を設置した。

 主な役割は、デジタル化の遅れの要因になっている規制の緩和である。その中で最も大きな業務はマイナンバーの普及であった。

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閣僚とは③ 5文字省庁の大臣

働き方改革 厚生労働大臣

 社会保障と労働行政を司る厚生労働省を管轄。01年の橋本行革以前は、厚生省と労働省に分かれていた。この時代、厚生大臣は公明党議員が務めていた。

 コロナなどどの感染症対策。ワクチンなどの医薬品の許認可。働き方改革などの労働政策を実施。現在、最も過酷な大臣といわれている。もっとも働き方改革が必要な大臣といわれている。

 この過酷さがワクチン供給の遅れになったといわれた。そのため、ことらな対策では内閣府特命担当大臣がサポートに回った。西村経済再生大臣がコロナ対策担当を、河野行革大臣がワクチン担当を兼務した。

 余談だが、麻薬取締官は厚生労働省の職員である。

文部科学大臣

 教育行政を司る文部科学省を所管。01年の橋本行革前は、文部大臣と科学技術庁長官に分かれていた。なお、内閣府には総合科学技術会議があり、科学技術政策は内閣府特命大臣(科学技術担当)が行う。

 下部組織には、スポーツ庁と文化庁がある。文化庁は、文化遺産の選定や宗教政策なども行う。

農林水産大臣

 農林水産省を所管。自民党は多くの農業団体に支えられている。そのため自民党にとって重要なポストである。現在はWTOの貿易交渉でタフな交渉術が求められる。

 不祥事を起こす大臣が多いポストとして有名で、呪われたポストといわれている。

経済産業大臣

 産業政策を司る経済産業省を所管する大臣。01年の橋本行革以前は通商産業大臣とばれた。

 経済産業大臣の最大の仕事は、企業の支援である。高度成長期は補助金や許認可権を通じて企業の支援を行っていたが、70年代の安定成長期以降は、政策提言で経済支援を行うようになった。また、貿易の自由化交渉を行うのも農林水産大臣と経済産業大臣である。

国土交通大臣

 建設行政や交通行政を司る国土交通省を所管する大臣。慣例として公明党議員が務めている。01年の橋本行革以前は、建設大臣、運輸大臣などに分かれていた。

 下部組織には、気象庁や観光庁などがある。再開が予定されているGoToトラベルキャンペーンも国土交通大臣が担当している。

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閣僚とは② 主要4閣僚

 昨日4日、岸田新首相が誕生。その日のうちに組閣が完了しました。今回は、閣僚のうち、重要な4閣僚を見ていきます。

財務大臣

 国の収入と支出を管理する財務省を統括する大臣。その最大の業務は予算の策定である。また、税金も財務省の管轄で、下部組織に国税庁がある。

 01年の橋本行革以前は、大蔵大臣と呼ばれ金融機関の監督も担当していた。しかし、金融機関の監督については内閣特命大臣(金融担当)が担っている。なお、麻生財務大臣は、内閣府担当大臣(金融担当)も兼任している。

法務大臣

 法務省を所管。

 検察を統括。すなわち、指揮権を発動して個々の事件の取り調べや処分に関与することができる。過去にも、指揮権を発動して政治家の収賄事件の捜査に涵養したことがあった。

 国家賠償訴訟では国を代表する。

 出入国を発行し、外国人の在留許可を与える。

 死刑の執行命令を発する。

外務大臣

 外交を司る外務省を統括する大臣。1880年代に内閣制度ができてから一度も名称を変更していない唯一の大臣色である。

 その主たる業務は、条約締結などの外国政府や国際機関との交渉である。そのため、外務大臣はタフな交渉力が求められる。

 そのほかにもパスポート(旅券)やビザの発行。外国にいる日本人の保護などの業務を行っている。

 岸田首相は、歴代最長の外務大臣経験を持つ。オバマ大統領の広島訪問を実現したのも岸田外相の時代である。

総務大臣

 もともとは総務庁長官であったが、01年の橋本行革で自治省と郵政省と統合。総務大臣に昇格した。

 総務庁は、80年代の中曽根政権時代に設置。国勢調査などの統計業務や各行政機関の観察などを行った。

 自治省は、地方行政を管轄する所長であった。そのため、総務省は、地方税、選挙管理、防災などを監督する。なお、宝くじなどの公営ギャンブルも総務省の管轄である。最近では、マイナンバーの発行で注目を浴びている。

 郵政省は、郵便局の統括だけでなく、通信全般を取り扱う。TV局やラジオ局の許認可権を持つ。また、携帯電話も総務省の管轄である。

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閣僚とは

 本日4日、岸田内閣が成立しました。今回から、5回にわたって、閣僚についてまとめていきます。

組閣とは

 組閣とは、総理大臣が閣僚を選ぶ作業である。内閣総理大臣は、閣僚を指名する権利と罷免する権利があります。

閣僚とは

 閣僚は、法律上は国務大臣と表現されている。閣僚の仕事は主として2つある。

  • 管轄の省庁を指揮する。
  • 閣議に参加する。

 閣議とは、内閣の最高意思決定機関である。法案提出や予算の提出、国会の召集や解散はここで決定される。

 全会一致の原則をする。そのため、閣僚が一人でも反対したら否決される。小泉政権の郵政解散では、反対する閣僚がいた。そのため、その閣僚をその場で罷免して閣議決定した。

 また、法律の範囲内で政令を出すこともできる。ちなみに内閣府令や省令は大臣が独自に決済して発令する。

副総理

 国務大臣のトップで、内閣のNo2.法律上の正式な役職ではない。なお、内閣法では、総理大臣にもしものことがあった場合の代行順位をあらかじめ定めることになっている。しかし、実際に利用されてことはない。

官房長官

 総理の女房役といわれるポジション。首相候補者の登竜門的なポジションといわれる。

 内閣の補助機関として以下の業務を行う。

  • 各省庁の調整
    • 文部省の管轄する幼稚園と厚生労働省の管轄する保育園のちょうせいなどの複数の省庁にまたがる問題を調整する。
  • 国会や会派(政党など)との調整
  • 政府報道官
  • 内閣府の事務の総括
    • ただし、内閣府特命大臣が扱うものを除く

 報道では、政府首脳と表現されることもある。なお、官房長官の執務室は、総理官邸内にある。

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党三役って何?

 9月29日、岸田新総裁が誕生。10月1日に、党三役が発表されました。では、党三役とは何でしょうか。

党三役とは

 党三役とは、自民党幹部の総称である。幹事長、総務会長と政調会長の役職を指します。たまに、これに選挙対策委員長を加えて党四役と表現することもあります。

党三役は何故先に発表されるの?

 自民党の総裁には、2つの顔があります。自民党のトップの顔と総理大臣の顔である。

 自民党の総裁は、総裁選は総裁選挙で選ばれますが、内閣総理大臣は国会で改めて指名されます。本日(10月3日)時点で、自民党の総裁は、岸田新総裁ですが、総理大臣は菅首相のままです。明日、10月4日の臨時国会で指名されて初めて岸田新首相が誕生することになります。その後、閣僚が正式に発表されることになります。

幹事長とは

 幹事長は、総裁、副総裁に次ぐ3番目のポジションである。しかし、総裁は総理大臣で忙しく、副総裁も常設のポストではないので、事実上の党のトップである。

 幹事長は、公認権(選挙で公認を与えるか否かの判断をおこなう)をもち、党の財政や党の人事も管理する。党のスポークスマンの役割を持つ。

 その使命は主に3点ある。1つ目は自民党を選挙で勝たせることである。

 2つ目は、国会対策である。総裁に代わり、国会の議院運営員会や党の国会対策委員会を通じて野党と交渉し、スムーズな法案成立を行い、総裁を支える。

総務会長

 総務会長とは、総務会のトップである。本来は総務会で決定されるが、慣習として総裁が指名している。

 総務会とは、党の運営や自民党員の国会活動についての重要事項を決定する機関である。幹事長などの党の人事も総務会の決議事項であるが、総裁に一任することが慣習になっている。

 総務会の最大の権限は党議拘束である。党議拘束とは、国会での表決行動をあらかじめ決めることである。これに違反すれば、除名などの処分を受けることになる。

 総務会長は、長老級の派閥の領袖たちを納得させるのが仕事になる。そのため。調整型や長老級の政治家が就くことが多い。また、メディアへの露出が少ないため、苦労の割には目立たないポジションである。

政調会長

 政調会長は、政務調査会のトップである。

 政務調査会は、党の政策の立案が仕事になる。国会に提出する法案は、政務調査会の審査を経なければならない。

 政務調査会は、国会議員だけでなく学識経験者も参加している。

 政務調査会は、部会と呼ばれる下部組織をもっている。これは国会でいう委員会に相当するもので、外交や国防などテーマごとに設置されている。自民党の国会議員は部会に参加して法案の作成を行っている。

法案の流れ

 法律は、自民党の部会で立案。自民党政務調査会で審査。自民党総務会で承認を得た後に、閣議に挙げられる。閣議決定を経て国会に提出される。

 その後、衆議院の委員会、衆議院の本会議、参議院の委員会、参議院の本会議でそれぞれ審議を得て法律になる。

副総裁

 副総裁は、文字通り党のNo2である。これは任意で設置するポストである。総裁に代わり、幹事長などの党幹部を管理監督するポジションである。最高顧問ともいえる役職である。

 80年代から90年代前半にかけては、最大派閥の田中派や竹下派の長老が総理のお目付け役としてこのポジションに就いた。

 00年代以降は、論功行賞として中間派閥の劉秀が就くことが多い。今回も麻生派のトップである麻生氏が就任した。

選対委員長

 選挙対策委員長は、国政選挙を取り仕切る役職である。

 00年代に発足した新たな役職である。選挙対策はもともと幹事長の下にある総務局の仕事であった。

 06年の安倍総裁時に、幹事長の下に選挙対策総局を設置。菅首相も選挙対策総局の局長を務めた。

 07年、福田総裁時に、ポスト不足から選挙対策総局を選挙対策委員会に格上げ、幹事長から選挙に関する権限を分離した。初代委員長は古賀派(後の岸田派)の古賀氏であった。

 古賀委員長は、09年の都議選の敗北により、辞任。後任人事がなかなか決まらず空位に。理由は、逆風の衆議院選挙が近かったからである。

 その後、選挙対策委員会は選挙対策総局に格下げ。

 12年に、再び選挙対策委員会が復活。現在に至る。

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河野候補と麻生氏、石破氏

20年代

副総理 麻生氏

 河野候補は、スター級の応援者が多い。そのため、2回に分けました。前回は、同郷の小泉氏と菅首相を扱いました。今回は、河野候補の派閥の長である麻生副総理と河野候補を支持する石破氏の歴史を見ていきます。

 河野候補は、麻生派に所属している。しかし、麻生氏は河野候補の出馬に否定的である。

 麻生氏は、菅政権でも副総理兼財務大臣を務めている。また、麻生派は現在自民党の第二派閥である。

安倍首相のライバル 石破氏

 石破氏は、現在要職についていない。20年の総裁選では、菅氏に敗北。想定に反して最下位に終わった。これにより、石破氏は求心力を失った。

 21年総裁選。二階幹事長は石破氏を完全バックアップをしようとしていた。しかし、前回の大敗に二の足を踏んでいた。そこに国民人気の高い河野候補が出馬。党員票が割れると踏んで出馬を取りやめ、河野支持に動いた。

10年代

18年総裁選

 安倍氏と石破氏の一騎打ちになった。主要派閥が安倍首相を支持たため、安倍氏の3選が決まった。しかし、党員票などで石破氏が肉薄した。

新麻生派

 12年総裁選、麻生派と山東派は共同して安倍政権成立に動いた。これをきっかけに合流に向けて交渉を開始した。

 そして、17年に合流。自民党第二派閥になった。

 山東派は、党人派の三木武夫氏が創設した派閥である。クリーンな印象のある派閥で、ロッキード事件時に三木首相を、リクルート事件時には海部首相を輩出した。

16年参議院選挙

 16年、参議院選挙直前の都知事選で自民党推薦候補を破り、無所属の小池都知事が誕生した。自民党の中では参院選を不安視するようになった。

 そのため、安倍政権は内閣改造に踏み切った。石破氏は農水大臣として入閣を要請したが、これを固辞した。

 この頃から、石破氏は安倍政権への批判的な発言が目立つようになった。安倍政権は、石破氏を中国地方のトップから外した。この一件から、石破派と細田派の対立が続いた。この対立は現在も続いていて今回の総裁選にも影響が出ている。

 その後、石破氏は石破派を正式に発足させた。

 2016年の総裁選では、山東派から、SPEEDの今井氏が出馬し、当選した。合流して麻生派に所属。岸田候補を支援している。

15年総裁選

石破氏は、安倍政権の支持率を理由に出馬を見合わせた。野田氏はこの総裁選に出馬を検討していた。しかし、出身派閥の山東派が麻生派との合流交渉中のため、推薦人を出さなかった。推薦人が集まらず出馬を断念した。これにより、安倍首相は無投票で再選された。

石破幹事長

 12年総裁選で逆転負けした石破氏は、幹事長に就任。12年衆院選、14年参院選を勝利に導いた。

 国会議員の増加で党員票の比率が低下。石破幹事長は党員票と国会議員票の比率を1対1になるように変更した。

 14年9月改造内閣。内閣府特命大臣(安全保障法制担当)を打診された。石破氏は、党幹事長への残留を希望したために固辞。党幹部の批判を受け、内閣府特命大臣(地方創生担当)に就任した。

 この頃、石破氏は、無派閥議員を集めて勉強会を発足した。事実上の石破派の結成と目され、15年総裁選への出馬が噂された。

12年総裁選 安倍総裁の誕生

 12年の総裁選は、谷垣総裁続投で決まるはずであった。しかし、旧山崎派の石原幹事長が出馬を表明。森氏など党の重鎮が石原幹事支持へ。勝算が低いとして、派閥のトップの古賀氏が谷垣総裁に出馬断念を促した。

総裁出馬断念で、総裁選は今回のような乱立状態になった。党員票に強い石破氏と町村派の町村会長が出馬を表明。石破元政調会長vs石原幹事長の戦いの様相になった。

ここで、若手の筆頭菅氏が動いた。安倍元総理を擁立したのである。安倍元首相は、町村会長の手前、固辞した。しかし、麻生派と高村派(後の山東派)の支援を確保。急遽出馬した。

 議員票が分裂。党員票に強い石破氏がトップになったが過半数を取れなかった。

  

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河野候補とチーム神奈川

神奈川県

 河野太郎氏の地盤は、神奈川県西部である。サザンビーチで有名な茅ケ崎市があるエリアの選挙区である。

 この選挙区には、別荘地で有名な大磯がある。80年代に芸能人水泳大会で有名になった大磯ロングビーチがあるところである。戦後、ここには吉田茂元首相が晩年を過ごした邸宅がある。その孫が、現在の派閥の会長である麻生太郎氏である。

 神奈川県選出の議員には、このほかに横浜の菅首相。横須賀の小泉進次郎氏がいる。

00年代

ワクチン担当大臣 河野候補

 河野氏は、菅政権で行革大臣に就任した。行革110番の設置を菅首相から指示されると速やかに実行した。

 21年、田村厚生労働大臣がワクチンまで手に回らなくなると、ワクチン担当大臣を兼任。薬事法の規制を次々緩和しワクチン接種を進めた。

菅首相

 20年に入ると、官邸と菅官房長官の関係が悪化した。重要な決定が菅官房長官のいないとことで決まるようになった。この不仲は野党が国会で追及するほどであった。

 ここに目を付けたのが二階幹事長である。当時、安倍首相は、甘利氏を次期官房長官に考えていた。甘利氏は、山崎派に所属していたが、12年の総裁選で旧山崎派の石原氏が出馬するも、菅氏や麻生氏らとともに安倍政権の樹立に尽力した人物である。

 二階氏は、令和おじさんとして人気の高い菅官房長官に目を付けたのである。

 9月、森友加計問題で安倍首相は体調を崩し退陣。二階幹事長は動き出した。菅官房長官が出馬を発表。各派閥の若手議員もこれに追随。主流の細田派、麻生派と竹下派もこれに追随。菅政権が成立した。

 しかし、コロナ問題はデルタ株によって長期化。ワクチン供給も遅れ支持率が低下した。

 21年総裁選をひかえて、若手議員を中心に反発。小泉環境大臣が説得に当たるも失敗。総裁選不出馬を表明し、退陣することになった。

環境大臣 小泉進次郎氏

 19年8月、オリンピック招致で活躍した滝川クリステル氏と結婚。翌9月、環境大臣に就任した。20年1月、第1子が誕生。20年9月の総裁選では、菅官房長官を支援した。

10年代

外務大臣 河野太郎氏

 河野氏は、10年幹事長代理に就任。シャドウキャビネットで行革担当大臣になる。12年総裁選では、麻生氏とともに安倍元首相を支持。15年、安倍政権で行革大臣に就任。

 17年、岸田候補が政調会長に就任したのにともない、外務大臣に就任。ハイペースで外国へ訪問するとともに、韓国に対しては断固とした態度をとった。

 19年、防衛大辞任就任。20年、菅政権が成立すると行革大臣になった。

最強の官房長官 菅氏

 野党時代、菅氏は無派閥の議員で会った。12年総裁選。安倍元首相の擁立に尽力した。安倍元首相が所属する町村派は町村会長で一本化されていた。菅氏は、安倍元首相を説得。さらに、麻生派を味方につけて安倍政権を復活させた。

 安倍政権が成立すると、菅氏は官房長官に就任した。菅官房長官は、官邸主導を進めるために内閣人事局を設置。この官邸主導はのちに、忖度として森友加計問題につながる。ちなみに初代局長は。現在の官房長官の加藤氏である。

 19年4月、官房長官として新元号「令和」を発表。これにより、菅官房長官は若者の人気を集める。当時官邸は、岸田政調会長への禅譲を進めていた。そのため、官邸と菅官房長官の間に亀裂が生じた。

青年局長 小泉氏

 小泉氏は09年に初当選。逆風選挙で同期当選は2人であった。そのため、多くの役職を兼務した。11年、青年局長に就任。12年の衆議院選挙では、各地で応援演説を行い当選させた。そのため、多くの若手議員は、小泉氏に恩を感じ出ている。15年、自民党農林部局長に就任。農協(JA)の改革を行った。

00年代

09年 政権交代選挙

 08年、河野候補の師である麻生氏は首相に就任。早期に解散し長期政権を目指そうとした。しかし、予定が狂った。9月のリーマンショックである。これにより。不況が始まった。自民党の支持率はさらに低下。解散ができなくなった。

 09年7月、都議選に敗北。古賀氏は責任を取り、選挙対策委員長を辞任。逆風の衆院選を控え後任人事は難航。結果、空位のまま、選挙対策副委員長であった菅氏が代行した。

 09年衆議院選挙で、小泉元首相が政界を引退。小泉進次郎の出馬が決まった。このとき、時の首相の麻生氏は「進次郎が出馬するの、あの人はお父さんと違って普通の人だよ」と語った。

 この衆院選で、小泉氏は初当選。同期当選は2人しかいなかった。自民党も議席を半減。野党になった。

 その後の総裁選。河野太郎氏が出馬。第一派閥の谷垣派の谷垣氏が総裁に就いた。

07年総裁選 反麻生同盟

 安倍政権は、07年の参院選挙に敗北。選挙対策委員長に横浜で選挙に強い菅氏が就任した。

 07年、安倍首相は辞任。自民党総裁選挙が始まった。古賀氏と麻生氏は仲が悪かった。麻生政権の成立を嫌った。そこで、古賀氏は谷垣派と町田派(現在の細田派)と組んで、町村派の福田氏を擁立。福田氏は、麻生氏を破り、総裁になった。

 この時、菅氏は、古賀派に所属していたが、離脱して麻生支持回った。以後、菅氏は無派閥であるが麻生派と良好な関係を築いている。

 ポストの不足から、選挙管理委員長というポストを新設。古賀氏を就任した。副委員長には、元選挙対策本部長の菅氏が就いた。

 古賀氏と菅氏は、たたき上げの政治家である。当時批判の高かった世襲について制限を検討した。しかし、党内の世襲議員たちの反発にあい、実行できなかった。

 この頃、小泉進次郎氏は、06年にコロンビア大学を卒業。アメリカのシンクタンクの研究員になる。07年、小泉元首相は、進次郎氏を帰国させ、自身の私設秘書に就けた。そして、08年に、小泉元首相は引退を表明した。

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岸田候補と岸田派

20年代

21年総裁選 党改革と二階幹事長

21年総裁選。当初は、岸田氏vs菅首相の戦いになるはずであった。岸田首相は先制パンチを打った。これが党改革である。党三役に任期を設け、二階幹事長を退かせようとした。これにより、若手の任期を得た。

 菅首相もこれに追随。これで、二階幹事長と菅首相の関係が悪化。菅首相は出馬を断念せざるを得なくなった。

20年総裁選 二階幹事長と菅官房長官に敗れる

 岸田候補は、ポスト安倍の最有力候補であった。

19年から、森友加計問題や桜を見る会の問題で心労がたたった。そこにコロナの問題。安倍首相は体調を崩し、辞任した。

 ここで二階幹事長が動いた。令和おじさんで人気を博した菅官房長官を擁立したのである。二階派と若手議員が菅官房長官に就いた。これに危機感を感じ、細田派(安倍首相派閥)、麻生派、竹下派の主要3派閥が菅官房長官につき、菅政権が成立した。

給付金問題

 おそらく、安倍元首相は、岸田首相と菅官房長官のタッグを考えていた。しかし、官僚は、動かしにくい菅官房長官を外そうと動いていた。20年に入ると、重要な決定で菅官房長官が外されることがあったようだ。野党からもこのことについて追及されるほどであった。

 コロナで経済が悪化。官邸の官僚と岸政調会長は、給付金について協議。低所得者層に30万円の給付金を発表した。しかし、二階幹事長が公明党と一緒に反発。一律10万円の支給に変えられた。

10年代

政調会長時代

 17年8月、自民党政調会長に就任。ポスト安倍の準備を始める。18年9月の総裁選。岸田政調会長を推す声も高かったが、出馬を見送り、安倍首相を支持した。

外務大臣時代

 14年12月に外務大臣に就任した。起用の理由は2つあった。1つは、バックについていた古賀氏中国に太いパイプを持っていた。もう一つは、沖縄県知事に強いパイプを持っていた。当時の沖縄は、民主党政権の置き土産で普天間基地の移設問題を抱えていた。

 岸田外務大臣時代は、韓国との関係が悪化した時代である。徴用工問題と慰安婦問題である。慰安婦問題では財団を設立し10億円を拠出し日韓合意を得た。

 岸田外務大臣の最大の功績は、オバマ大統領の広島訪問である。

野党の国対委員長

 11年、谷垣総裁時代に、国会対策院長に就任。与党民主党との交渉を担当した。

00年代

アフター小泉政権

07年、岸田候補は安倍政権で初入閣。内閣府特命大臣として、高市候補、野田候補と連携し、消費者庁を創設に尽力した。

07年、安倍首相が退陣。有力候補は麻生氏であった。主要派閥は、反麻生同盟を結成。町村派(細田派)の福田氏が首相になった。加藤の乱で分裂した旧宮澤派の谷垣派と堀内派はこの時に合流した。これが現在の岸田派である。

08年、麻生政権が成立。人気の高い麻生政権で支持率を上げて解散に踏み切ろうとした。しかし、9月にリーマンショックが発生。景気が悪化。任期満了間近の09年12月に総選挙。自民党は野に下った。岸田候補は、この逆風選挙で議席を守った。

加藤の乱

00年、森政権が成立。失言で支持率を大きく低下させていた。そのような中、野党の民主党が内閣不信任案を画策していた。加藤派(旧加藤派)の加藤氏と山崎派(旧中曽根派)の山崎氏がこれに賛成しようとした。これは80年のハプニング解散や93年の小沢グループの造反を意識したものであった。

 森首相支持派の小泉氏(森派)と野中氏(小渕・橋本派)が切り崩し工作を行った。これにより、加藤の乱は失敗に終わった。

 加藤の乱で、加藤派(現岸田派)は、加藤氏に追随した谷垣派と加藤氏に就かなかった堀内派に分裂した。岸田候補は、親戚の宮澤元首相を頼って堀内派に参加した。

90年代

 93年、岸田候補は、父の地盤を引き継いで広島から出馬。親戚で現職首相の宮澤氏に応援演説をしてもらった。無事初当選。同期には安倍元首相や野田候補がいた。当選後、岸田候補は宮澤派に所属した。97年に若手のトップ自民党青年局長に就任した。

80年代後半

87年、日本長期信用銀行(現在の新生銀行)を退職。衆議院議員の秘書になる。

70年代

 78年、岸田候補は、早稲田大学を卒業。日本長期信用銀行に入行。

 翌79年、岸田氏の父が通産官僚を退職。衆議院選挙に出馬。当選する。同期は、麻生氏や亀井氏がいる。岸田候補の父は大平派(後の宮澤派に所属した。)

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日本史

高市候補と安倍元首相

20年代

21年総裁選

20年、安倍首相が体調不良を理由に退陣。翌21年の総裁選。安倍元首相は岸田候補を麻生副総理と一緒に推していた。しかし、岸田候補が森友学園問題の再調査に言及。安倍元首相は、急遽高市候補を擁立した。

安倍首相は何故退陣することになったのか?

 では、なぜ安倍首相は任期途中で退陣したのであろうか。この時期、多くのスキャンダルが発覚した。森友学園問題や桜を見る会の問題である。森友学園問題は、国有地を相場よりも安い価格で、知り合いの森友学園に販売したという疑惑である。桜を見る会の問題は、桜を見る会の開催時に講演会の人たちの宿泊費等を一部負担した可能性があるといる疑惑である。

10年代

総務大臣 vs野田候補

 14年改造内閣。高市候補は総務大臣に就任した。17年、安倍首相は都議選で小池都知事の都民ファーストの会に大敗。内閣改造を余儀なくされた。多様性を重んじて、安倍色の強い高市氏から安倍首相と考え方が遠い野田氏に総務大臣を後退させた。19年、再び高市氏が総務大臣に就任。20年、高市氏が総務大臣を退任した。

政権交代で党三役に

 安倍総裁は、12年12月の衆院選に勝利。安倍政権が成立した。この時、高市候補は政調会長に就任した。

12年総裁選

 12年総裁選。町村派(現、細田派)は分裂していた。12年の総選挙。町村派は候補者を一本化できず、安倍元首相と町村会長がともに出馬した。

 町村氏は、体調不良で総裁選から離脱。町村派は安倍元首相に一歩ウンカした。

 総裁選は、一位が無派閥の石破氏、二位が安倍元首相になった。しかし、決選投票になり、派閥を固めた安倍元首相が逆転。安倍総裁が成立した。

 ただ、この総裁選で派閥批判が高まった。そのため、党員票の比率をさらに引き上げ、現在のルールになった。

安倍元首相vs町村会長

 では、町村会長と安倍元首相は、なぜ対立していたのであろうか。それは10年の参議院幹事長選挙にあった。町村派など主流派の派閥は谷川氏でまとめていた。しかし、若手議員が反発。中曽根元首相の息子である中曽根氏を担ぎだした。これに安倍元首相ら町村派議員が同調。中曽根氏が勝利した。

 ちなみに、この問題をきっかけに高市候補は町村派を離脱している。この問題があるため、細田派の一部議員は高市候補に否定的になっている。

00年代

 00年代前半は、小泉政権の時代である。高市氏は、03年の衆院選で落選。05年の衆議院選挙(郵政選挙)。刺客として国替。国政に復帰した。

 06年の安倍政権で初入閣。内閣府特命大臣として消費者問題を担当した。

 しかし、07年の福田政権で経済産業副大臣に。この時、消費者問題担当を引き継いだのが野田候補であった。