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日本史

1960年代の衆院選 高度成長期と池田佐藤政権

69年12月 テレビの時代

政見放送の開始

 この選挙から政見放送が開始された。

自民党 田中軍団(田中チルドレン)

 自民党はこの選挙で16議席を増やし過半数を維持した。特にこの選挙で初当選したものが33名もいた。田中幹事長のもとで田中軍団を結成しした。これが72年の田中派結成につながる。この田中軍団の中には、小沢一郎氏や羽田孜氏など後の90年代前半の竹下七奉行のうち、5人がこの選挙で初当選している。

 また、00年に首相になる森喜朗氏もこの選挙で当選している。しかし、田中幹事長から後任を得られず、無派閥で当選。当選後に追加公認で自民党議員になった。この時にお世話になったのが岸元首相であった。

 また。佐藤首相は、70年で総裁任期が満了だったが、任期延長で72年まで総裁を続けることになった。

社会党 学生運動の影響で敗退

 社会党は、この選挙で44議席を減らす大敗をした。

 その原因は2つある。一つは、60年代後半の学生運動である。過激化した学生運動と機動隊との戦いを見て多くの人が脅威を感じた。69年1月の東大安田講堂事件はその象徴であった。もう一つは68年のプラハの春である。自由化を目指すチェコスロバキアに東側諸国が武力介入する様子に、怒りを感じた。

 なお、この選挙で土井たか子氏と横路孝弘氏が初当選ししている。

公明党と民社党

 公明党は22議席増の47議席を獲得。民社党は現状維持の31議席であった。

共産党 70年安保闘争で躍進

 共産党は、70年安保闘争で10議席増やした。不破氏はこの選挙で初当選している。

67年01月 黒い霧解散

黒い霧

 66年後半、自民党の不祥事事件が相次ぐ。この一連の不祥事は「黒い霧」と呼ばれた。

 66年12月、佐藤首相が総裁選でかろうじて再選。内閣改造で大蔵官僚の宮澤喜一氏を起用。これにより、旧池田派(大平派)を味方につけた。さらに、幹事長を佐藤派の田中角栄氏から岸派の福田赳夫氏に変えた。

 12月に衆議院を解散。1月に総選挙が行われた。

自民党 安定多数を維持

 自民党はこの選挙で敗北が予測されていた。しかし。1議席減ですみ。安定多数を維持した。宮澤喜一氏がこの時に初当選。河野洋平氏(河野太郎氏の父)や塩川正十郎氏(塩じいこと小泉政権期の財務大臣)もこの選挙で初当選している。

社会党 議席を伸ばせず

 黒い霧で自民党に逆風が吹く中での選挙にもかかわらず、社会党は1議席減の140議席となった。

民社党 躍進

 民社党は7議席増の30議席を確保した。

公明党 初進出

 宗教組織の創価学会は公明党を結成。この選挙から出馬した。

 初回の選挙で25議席を確保した。民社党の躍進とともに、野党の多党化が鮮明になった選挙であった。

共産党

  共産党は、この選挙では現状維持の5議席であった。

63年11月 オリンピック前選挙

高度成長とオリンピック

 この時代、日本は高度成長を実施していた。実現不可能と思われた「所得倍増計画」も成功した。そして、翌64年に東京オリンピックを控えている中で総選挙に踏み切った。

 しかし、選挙戦が始まると労働災害事故が発生。暗雲が立ち込める。

 なお、この選挙までは、投票日が平日であった。

自民党 安定多数を引き続き確保

 自民党は、この選挙で6議席減らすも、安定多数を引き続き海保した。

これにより、池田政権の継続が決定した。しかし、体調不良で東京オリンピックを病床で見ることに、64年の総裁選には不出馬。佐藤政権へ移行する。

社会党 現状維持

 社会党は、1議席減の144議席になった。

民社党 解党を回避

 民社党は前回の選挙で大幅に議席を減らしていた。今回の選挙で議席を減らすと回答の危機にあった。

 結果、6議席増の23議席を確保。民社党は存続した。

共産党 順調に議席を伸ばす

 共産党は、順調に議席を伸ばし5議席になった。

60年11月 外交よりも経済

安保闘争で岸首相が退陣

 60年は、安保闘争の真っただ中にあった。60年7月、岸首相は安保改定を実現し退陣した。跡を継いだのが池田首相である。

自民党 所得倍増計画

 10月、池田首相は、衆議院を解散した。ここで秘策を出した。「所得倍増計画」である。これにより、選挙の争点は安保から経済政策に変わった。

 これにより、13議席増やし296議席を確保した。

社会党 安保闘争で議席を増やす

民社党の結党で、議席を大きく失った。しかし、60年安保の影響で23議席増やし、145議席となった。

民社党 壊滅的敗北

 59年10月、参院選の敗北と60年安保闘争の方針(共産党との連携)で旧社会党右派の一部の議員が社会党を離党し、民社党を結党した。

想定支持層は、低所得で共産主義に抵抗がある人たちであった。

 池田首相の「所得倍増計画」は低所得者の心に響いた。そのため、この選挙で23議席減の17議席になった。

共産党 順調に議席を伸ばす

 共産党は、十町に議席を伸ばし、3議席を確保した。

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1980年代後半の衆院選 なぜ55年体制は終わったのか?

90年02月 それでも自民党を支持しますか?

平成最初の選挙

 89年1月、昭和天皇が崩御。昭和が終わり平成が始まった。この選挙は平成最初の選挙となった。

 当時の経済は、バブル経済の全盛期。人々はうかれていた。しかし、昭和天皇の崩御で一気に自粛モードになった。

竹下政権とリクルート事件

 87年11月、5年にわたる中曽根長期政権が総裁任期満了で退陣。竹下政権が成立した。

89年参院選に敗北

 89年、竹下政権は3つの原因で支持率を落とす。

  • 4月の消費税導入
  • リクルート事件の発覚
  • 牛肉オレンジ自由化で農家が反発。

 89年6月、都議選と参院選に勝利をするため、クリーンのイメージのある外相の宇野氏に政権を譲った。しかし、就任直後に女性スキャンダル。自民党のイメージをさらに落とした。

 89年7月の都議選、参院選で、マドンナ旋風の土井たか子社会党に惨敗。宇野首相は退陣した。

 参院の大敗で、自民党は参院で過半数割れ。ねじれ国会が始まる。

海部首相とねじれ国会

 89年8月、総裁選で海部総裁が誕生。衆議院の優越で海部首相が誕生した。

 海部首相の最初の課題は、衆院選に勝利することであった。ン期満了まで残り10月であった。そして、89年02月に

自民党勝利でも海部おろし

 自民党は、20議席減らしたものの過半数を維持。自民党は勝利した。その要因は以下のように考えられる。

  • 幹部の一新でリクルート事件のイメージを払拭。
  • 89年12月に日経平均が史上最高値の4万円近くまで上昇、これにより、消費税反対派が減少した。
  • 89年12月のソ連の崩壊で、社会党などの左派政党にネガティブなイメージを持つ人が多かった。

 この選挙で、岡田克也氏(後の民主党幹部)や福田康夫氏(のちの首相)が初当選している。

社会党 マドンナ旋風で議席を増やす

 社会党は、マドンナ旋風が続いていた。53議席増の大勝した。本来は、自民党を過半数割れまで追い込みたかったが候補者を擁立することができなかった。その理由は中選挙区制で現職議員が新人の出馬に抵抗を示したためである。

 この選挙では、09年の民主党政権で幹部になる人が多数初当選をしている。輿石氏や仙谷氏などである。

公明党 議席を大幅減

 社会党の議席の減少は、公明党や民社党、共産党から奪った議席が半分以上であった。特に民社党や共産党は半分近く議席を失った。

86年7月 死んだふり解散

昭和最後の選挙

中曽根政権

 中曽根首相は、83年総選挙で大敗。ほかの派閥に配慮した政治を行う必要があった。政治思想が違う人も閣僚に迎えた。

 しかし、戦後政治の総決算として、戦前の内務省の復活ともいえる総務庁の設置。靖国神社の公式参拝を実施した。さらにJTやJR、NTTの民営化を実施。

 ロッキード事件のイメージを払拭。自民党の支持率が上昇した。

死んだふり解散

 86年初頭の中曽根政権は高い支持率を持っていた。一方で、前回選挙の敗北で河野洋平氏の新自由クラブとの連立を余儀なくされていた。中曽根首相は86年7月に衆参同日選挙を画策していた。

 しかし、そこには問題があった。一票の格差問題である。前85年に違憲判決が出ていた。

 社会党などの野党は、解散の口実を与えないように、公職選挙法改正に協力的な姿勢を示した。その結果、86年5月、公職選挙法を改正。一票の格差問題が解決。

 そして、中曽根首相は衆参同日選挙に踏み切った。

自民党大勝 総裁任期の延長へ

 自民党は300議席の大勝。これをうけて、86年9月で満了の総裁任期を1年延ばし87年9月までとした。

 今選挙では、石破茂氏、武部勉氏(郵政選挙時の幹事長)、93年選挙でさきがけを作る武村氏と鳩山氏が初当選した。

 河野洋平氏の新自由クラブは、この選挙結果を受けて自民党へ合流した。

社会党惨敗 土井たか子委員長へ

 一方、社会党は、この選挙で大敗。土井たか子委員長が誕生。ここからマドンナ旋風が始まる。

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90年代の衆院選 55年体制から自公政権へ

 90年代の政界は激動の時代であった。93年に55年体制が崩壊。非自民政権が成立。その後、自社さ政権を経て、99年に自公政権が成立。現在の政治構造が固まった。

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2000年代の衆院選 小泉政権から民主党政権へ

09年08月 政権交代

リーマンショックと派遣社員

 08年9月、麻生政権が成立。臨時国会後、すぐに解散総選挙の予定であった。しかし、思わぬことが起きた。リーマンショックが起きたのである。これにより、景気が悪化。小泉政権時の派遣法改正で大規模な派遣切りが発生。その年の年末、野党の民主党は、年越し派遣村を設置。自民党政権を批判した。麻生政権も定額給付金で景気対策をしようとしたが、それでも改善しなかった。

 麻生政権は、任期満了(09年9月)が近づき解散へ踏み切った。公明党への配慮から都議選のある7月ではなく09年8月の解散とした。

 この頃、民主党は社民党と国民新党(亀井静香氏)と政策協定を結び連立政権の準備を始めた。

選挙結果 民主党政権へ

 民主党は、300議席に迫る大勝。政権交代を実現。鳩山政権が成立した。

選挙結果 自民党大敗

 自民党は、議席を半減する大敗。麻生総裁が辞任し、第一派閥の谷垣派の谷垣総裁が誕生した。

05年09月 郵政解散

郵政民営化

 03年参院選に敗北。安倍幹事長は退任。武部幹事長が就任した。小泉政権はこれに合わせて、郵政民営化モードにシフトした。経済財政政策担当大臣であった竹中大臣を郵政を管轄する総務大臣に就けた。この時、副大臣でだったのが後の菅首相である。

 では、小泉首相はなぜ、郵政民営化にこだわったのであろうか。それは、旧竹下派が持つ2つの票田を奪うことにあった。建設業界票と郵政票である。郵便貯金やかんぽ生命で集めた資金は特別会計として主として公共事業に使われていた。これにより、無駄な公共事業が多く行われた。

郵政解散へ

 05年05月、小泉政権は、郵政民営化法案を国会へ提出。自民党から多くの造反者が出た。亀井静香氏や野田聖子氏が衆議院はかろうじて通過した。しかし、参議院で否決。郵政民営化法案は廃案になった。

 05年9月、小泉首相は、衆議院を解散した。郵政解散である。投票日は9月11日、9・11テロの4年後である。

刺客

  郵政民営化法案に造反した議員に対して小泉氏は公認を出さないばかりか対立候補を擁立した。この候補は刺客と呼ばれた。当時の映画で上戸彩主演のあずみが影響していると思われる。

 その代表が、小池百合子環境大臣であった。小池大臣は、クールビズで人気を高めた。小池氏は、この時に選挙区を兵庫県宝塚市から東京都の池袋に変更した。このほかにもホリエモンや高市早苗氏などが刺客として送り込まれた。

新党

 造反議員は比例代表に参加するために浸透を結成した。小林興起氏らの新党日本や亀井静香氏らの国民新党が結党された。

03年11月 小泉政権の初選挙

期日前投票

 この選挙から、期日前投票が可能になった。それまでも期日前には不在者投票で投票は可能であった。しかし、手続きが煩雑であまり利用されていなかった。

小泉政権

 01年総裁選で、小泉政権が成立。小泉フィーバーで人気を高めた。小泉フィーバーはいったん落ち着いたが、02年日朝首脳会談で再び支持率を引き上げた。

民主党とマニュフェスト

 00年代になると、自民党と民主党の構図がはっきりしていた。もし小泉政権が成立しなければ、この選挙で民主党政権が成立したといわれている。

 98年、鳩山由紀夫氏、菅直人氏らによって結党。新進党の分裂により成立した。

 00年、小沢氏ら自由党が自自公連立政権から離脱。

 03年、民主党は、小沢氏らの自由党を吸収。鳩山・菅・小沢のトロイカ体制が成立した。

 総選挙が始まると、政権公約を発表。この時、民主党はマニュフェストと表現。

73年定年制

 小泉首相は、比例代表に73年定年制を導入した。96年の選挙区調整で比例単独になった中曽根元首相や宮澤元首相はこの選挙で政界を引退した。

 これにより、55年体制以前の政治家は黒海から姿を消した。

選挙結果 自民党 安定多数を確保

 与党は12議席減らしたが安定多数を維持した。自民党は単独で過半数割れしたので連立の保守新党を吸収した。保守新党には、二階氏や海部元首相が所属していた。彼らは自民党入党後二階グループを結成した。

選挙結果 民主党 二大政党制へ

 民主党は、過半数を確保できなかったものの40議席に増やした。

 一方で、社民党や共産党は壊滅的な敗北。議席数が1桁になった。