もくじ
90年02月 それでも自民党を支持しますか?
平成最初の選挙
89年1月、昭和天皇が崩御。昭和が終わり平成が始まった。この選挙は平成最初の選挙となった。
当時の経済は、バブル経済の全盛期。人々はうかれていた。しかし、昭和天皇の崩御で一気に自粛モードになった。
竹下政権とリクルート事件
87年11月、5年にわたる中曽根長期政権が総裁任期満了で退陣。竹下政権が成立した。
89年参院選に敗北
89年、竹下政権は3つの原因で支持率を落とす。
- 4月の消費税導入
- リクルート事件の発覚
- 牛肉オレンジ自由化で農家が反発。
89年6月、都議選と参院選に勝利をするため、クリーンのイメージのある外相の宇野氏に政権を譲った。しかし、就任直後に女性スキャンダル。自民党のイメージをさらに落とした。
89年7月の都議選、参院選で、マドンナ旋風の土井たか子社会党に惨敗。宇野首相は退陣した。
参院の大敗で、自民党は参院で過半数割れ。ねじれ国会が始まる。
海部首相とねじれ国会
89年8月、総裁選で海部総裁が誕生。衆議院の優越で海部首相が誕生した。
海部首相の最初の課題は、衆院選に勝利することであった。ン期満了まで残り10月であった。そして、89年02月に
自民党勝利でも海部おろし
自民党は、20議席減らしたものの過半数を維持。自民党は勝利した。その要因は以下のように考えられる。
- 幹部の一新でリクルート事件のイメージを払拭。
- 89年12月に日経平均が史上最高値の4万円近くまで上昇、これにより、消費税反対派が減少した。
- 89年12月のソ連の崩壊で、社会党などの左派政党にネガティブなイメージを持つ人が多かった。
この選挙で、岡田克也氏(後の民主党幹部)や福田康夫氏(のちの首相)が初当選している。
社会党 マドンナ旋風で議席を増やす
社会党は、マドンナ旋風が続いていた。53議席増の大勝した。本来は、自民党を過半数割れまで追い込みたかったが候補者を擁立することができなかった。その理由は中選挙区制で現職議員が新人の出馬に抵抗を示したためである。
この選挙では、09年の民主党政権で幹部になる人が多数初当選をしている。輿石氏や仙谷氏などである。
公明党 議席を大幅減
社会党の議席の減少は、公明党や民社党、共産党から奪った議席が半分以上であった。特に民社党や共産党は半分近く議席を失った。
86年7月 死んだふり解散
昭和最後の選挙
中曽根政権
中曽根首相は、83年総選挙で大敗。ほかの派閥に配慮した政治を行う必要があった。政治思想が違う人も閣僚に迎えた。
しかし、戦後政治の総決算として、戦前の内務省の復活ともいえる総務庁の設置。靖国神社の公式参拝を実施した。さらにJTやJR、NTTの民営化を実施。
ロッキード事件のイメージを払拭。自民党の支持率が上昇した。
死んだふり解散
86年初頭の中曽根政権は高い支持率を持っていた。一方で、前回選挙の敗北で河野洋平氏の新自由クラブとの連立を余儀なくされていた。中曽根首相は86年7月に衆参同日選挙を画策していた。
しかし、そこには問題があった。一票の格差問題である。前85年に違憲判決が出ていた。
社会党などの野党は、解散の口実を与えないように、公職選挙法改正に協力的な姿勢を示した。その結果、86年5月、公職選挙法を改正。一票の格差問題が解決。
そして、中曽根首相は衆参同日選挙に踏み切った。
自民党大勝 総裁任期の延長へ
自民党は300議席の大勝。これをうけて、86年9月で満了の総裁任期を1年延ばし87年9月までとした。
今選挙では、石破茂氏、武部勉氏(郵政選挙時の幹事長)、93年選挙でさきがけを作る武村氏と鳩山氏が初当選した。
河野洋平氏の新自由クラブは、この選挙結果を受けて自民党へ合流した。
社会党惨敗 土井たか子委員長へ
一方、社会党は、この選挙で大敗。土井たか子委員長が誕生。ここからマドンナ旋風が始まる。