(前史)19世紀後半のヨーロッパ
アフリカ
ベルリン=コンゴ会議
85年、ベルリン=コンゴ会議を開催。アフリカの植民地化のルールが定まる。これにより、アフリカ分割は加速化した。
また、この会議でベルギーのコンゴ自由国の設立が認められた。
イギリス アフリカ縦断政策
イギリスは、エジプトと南アフリカを結ぶアフリカ縦断政策を行った。
エジプトでは、75年にスエズ運河株を買収。78年のベルリン会議で東地中期のキプロス島を獲得。80年代初頭、ウラービー運動を鎮圧。99年、スーダンのマフディーの乱を鎮圧。スーダンまで征服した。
一方、南アフリカは、1815年のウィーン議定書でオランダからケープ植民地を獲得。ケープ植民地は、ローズを中心に運営された。99年、マフディーの乱の最中に南アフリカ戦争が行われる。
イギリスは、インド(カルカッタ)、エジプト(カイロ)と南アフリカ(ケープタウン)を結ぶ植民地政策をとった。これが3C政策である。
フランス アフリカ横断政策
1830年、シャルル10世がアルジェリアに出兵。54年、ナポレオン3世がスエズ運河建設を開始すると、紅海沿岸にジプチ港を建設した。
78年のベルリン会議で、チュニジアの保護国化が認められる。81年、チュニジアを保護国化。フランスはアフリカ北西部に植民地を拡大させた。
その後、アルジェリアからジプチを結ぶアフリカ横断政策を計画した。これがイギリスのアフリカ縦断政策と衝突。98年ファショダ事件が発生。フランスが譲歩して軍事衝突は避けられた。
00年代に入ると、イギリスは南アフリカ戦争やマフディの乱で疲弊。さらに、ドイツとの建艦競争が始まった。04年、日露戦争の開始が予測されると、両国は英仏協商を締結した。
ドイツ 出遅れたアフリカ進出
ドイツがアフリカへ進出し始めたのは、ベルリン=コンゴ会議後の80年代後半からである。北アフリカはすでにイギリスとフランスが進出していた。ビスマルクは両国との衝突を避けるため、南アフリカの沿岸部へ進出した。ベルギー自由国の両側のカメルーンとタンザニア(ドイツ領東アフリカ)、そしてナミビア砂漠のナミビア(ドイツ領南西アフリカ)へ進出した。当然これらの地域は経済的価値に乏しかった。
90年、ヴィルヘルム2世が即位。「世界政策」が始まる。ただ、90年代はアフリカ植民地にあまり進出しなかった。
00年代に入り、モロッコ事件が発生。フランスのモロッコ支配に待ったをかけようとした。しかし、英仏協商でイギリスがフランス側に回ったために失敗。12年、モロッコはフランスの保護国になった。
イタリアとエチオピア
イタリアがアフリカへ進出開始したのも、85年のベルリン=コンゴ会議以降である。東アフリカ北部のソマリランドとエリトリアを獲得した。
90年代、イタリアはエチオピアへの侵攻。フランスとイギリスがエチオピア支援に回り、アドワの戦いに敗北。エチオピアの植民地化をあきらめた。
11年、イタリア=トルコ戦争に勝利。オスマン帝国からリビア(トリポリ、キレナイカ)を獲得。
第一次世界大戦直前、独立を維持したのは2国のみであった。イタリアを撃退したエチオピア帝国とリベリア共和国のみであった。リベリア共和国は、アメリカ植民協会が47年にアフリカに建国した国で、解放黒人奴隷を入植させて建国した。
太平洋
概略
16世紀、大航海時代にスペイン・ポルトガルが進出。
17世紀、オランダが進出。
18世紀、イギリスが進出。
19世紀、フランス、ドイツ、アメリカが進出。
イギリス(オーストラリア)
18世紀後半に、オーストラリアをイギリス領にする。建国当初は流刑植民地であったが、その後、自由移民が加わった。
19世紀半ば、オーストラリアでゴールドラッシュ。急速に発展した。
イギリスは、このオーストラリアを中心に太平洋南西部にイギリス領が広がった。ニュージーランド、北ボルネオ、ニューギニア島へも進出した。
また、オーストラリアの先住民を奥地に追い込み、ニュージーランドの先住民の抵抗を武力で鎮圧した。
フランス(タヒチ)
フランスは、タヒチなど太平洋南東部の島々を獲得しt。阿
ドイツ(ビスマルク諸島)
ドイツが太平洋に進出したのは80年代のビスマルク時代である。ドイツは東南アジアに進出することができなかった。そのため、フィリピンの西のミクロネシア(太平洋西部の赤道付近の島々)に進出した。
その名残で、太平洋にはビスマルク諸島が存在する。
アメリカ(フィリピン)
アメリカが太平洋に進出したのは、90年代に入ってからである。
98年の米西戦争に勝利。スペイン領のグアムとフィリピンを獲得した。
また、米西戦争の最中にハワイ王国を併合した。
ラテンアメリカ
概略
ラテンアメリカ諸国は、19世紀前半にスペインから独立した。
独立を主導したのは、原住民ではなく、ヨーロッパから移住した白人移民の子孫であった。彼らは大土地所有で裕福な生活を営んでいた。そのため、大土地所有の白人たちと貧困層の貧富の格差が拡大していた。また、政教分離を進める自由主義政党とカトリック政党との対立もあった。軍部や地方軍閥の反乱も頻発した。
19世紀末になると、交通技術や冷凍技術の進化で欧米諸国への輸出が拡大した。中米ではアメリカ向けの輸出が、南米ではイギリス向けの輸出が多かった。
89年、アメリカ合衆国はパン=アメリカ会議を開催。以後定期的に開催した。
このころ、地主層への農民反乱や、大商人に対する労働者の反乱が頻発した。88年、ブラジル帝国は奴隷制を廃止した。
メキシコ
48年、アメリカ=メキシコ戦争に敗北。
58年、自由党のファレス政権が成立。カトリック教会の地保有を禁止。
60年、保守派の反乱。フランスのナポレオン3世がこれを支援した。しかし、アメリカの強い反発でこれは失敗した。
77年、ディアス政権。鉱山開発などの近代化政策を進める。
10年、メキシコ革命でディアス政権が崩壊。
イギリス vs ドイツ
ビスマルク外交
80年代まで、ドイツ(ビスマルク首相)を中心とした各種同盟関係が成立。ヨーロッパの平和が保たれていた。
露仏同盟
90年、若き皇帝ヴェルヘイム2世は、ビスマルク首相を罷免。さらに、ロシアのとの再保障条約を見送った。再保障条約の更新ができなかったロシアは、フランスと露仏同盟を締結。
三国協商
00年代に入ると、イギリスとドイツの対立が激化した。建艦競争が始まった。さらに、アフリカ進出に出遅れたドイツは、オスマン帝国に接触。バグダード鉄道建設を開始した。
バグダード鉄道は、ベルリン~バルカン半島~ビザンティウム(イスタンブール)~バグダード~ペルシャ湾をむすぶ鉄道である。これを3B政策という。
イギリスは、栄光なると孤立をすてて、02年、日清戦争に勝利した日本と日英同盟を締結。日露戦争の予測が高まると、04年英仏協商を結び、フランスと相互に中立を約束した。
イタリアと三国同盟
一方、ドイツは82年に成立した三国同盟が存在した。これには、オーストリアとイタリアが参加した。
ただ、この両国の間には、未回収のイタリア問題が存在。
10年代に入ると、イタリアのリビア進出でフランスとイタリアの関係が改善。イタリアは、三国協商側と密約を結ぶことになっていく。