概要
ここから、4回にわたってヨーロッパ史を見ていきます。最初は16世紀のヨーロッパの様子を見ていきます。
この時、大きな変化が次々起きている。1つは、大航海時代である。大航海時代を通じてアフリカやアメリカなどとの交易が本格化した。文化面では、中世の宗教色の濃い分から変わった。これがルネサンスである。また、この時期にプロテスタントが登場。また、この頃から主権国家という概念が登場した。
中世の復習
15世紀のヨーロッパの特徴は以下のとおりである。
- ローマ教皇の権威が低下した。
- 封建社会が崩壊。騎士階級が没落し、農奴の地位が向上した。
- 国王の地位が向上した。
- 商業が活発化した。
大航海時代
15世紀末、ポルトガルは喜望峰を回るインド航路を発見。南インドの人々との交易がはじまる。これにより、リスボンは大いに栄えた。
同じ頃、スペインは、コロンブスが大西洋を横断。コロンブスはインドにたどり着いたと思った。しかし、その後の研究でこの大陸がアメリカ大陸だと判明した。
16世紀、スペインは、コルテス・ピサロをアメリカ体躯に派遣し征服活動を始めた。この時に、メキシコのアステカ王国やペルーのインカ帝国は滅亡した。
大航海時代によって、商業の中心がイタリアから、スペインポルトガルに変わった。(商業革命)。さらに、15世紀半ばにポトシ銀山が発見されると銀価格が暴落。穀物価格が高騰した。ドイツなど東欧の地主階級は、その恩恵を受けた。
文化 ルネサンス
文化面では、イスラム圏から古代ギリシャローマ時代の研究結果が流入。さらに、ローマ教皇の権威が低下。
その結果、古代ギリシャローマ風の文化が見直された。これがルネサンスである。宗教色が薄くなり、人文主義的な分が成立した。
宗教改革
中世、ヨーロッパで神学を研究する大学が成立した。これにより、神学の教授の中にはローマ=カトリックを批判する者もあらわれた。
一方で、ローマ教会は腐敗していた。レオ10世が贖宥状をドイツで販売すると、ドイツ(神聖ローマ帝国)の神学者ルターが批判。神聖ローマ皇帝であるカール5世が仲介に入った。
カール5世は、追放処分にした。しかし、フランスとのイタリア戦争、オスマン帝国のウィーン包囲、ドイツ農民戦争を受けて妥協をせざるを得なかった。16世紀半ば、アウグスブルグの和議が成立。諸侯の宗教の自由が認められた。
同じころ、スイスではカルヴァン派成立。西ヨーロッパ各国の商人に受け入れられた。イギリスでは、ヘンリ8世の離婚問題からイギリス国教会が成立した。
一方、ローマ=カトリック内でも革新運動が起こった。(対抗宗教改革)。禁書目録の制定。宗教裁判所の設置。イエズス会の結成がその例である。
外交 主権国家の形成
中世、国王はローマ教皇の戴冠によって認められていた。しかし、ローマ教皇の権威が低下。これにより、国王の地位は戦争によって示されるようになった。その要因の一つが14世紀から15世紀にかけて行われた英仏百年戦争である。
この戦争で、国王たちは主権国家体制の重要性を認識した。
15世紀末、英仏百年戦争に処理したヴァロワ家と神聖ローマ帝国のハプスブルグ家が争うようになった。
16世紀半ば、ハプスブルグ家は、オーストリア系とスペイン系に分裂した。スペイン国王フェリペ2世は、ポルトガルを併合。世界中に植民地を持つ大帝国になった。
しかし、スペインの栄光は長くは続かなかった。オランダでカルヴァン派が反乱。オランダ独立戦争が勃発した。
イギリスは、ばら戦争に勝利したテューダー朝の時代である。ヘンリ8世は、イギリス国教会を設立。エリザベス女王は、オランダの独立を支援。この時期、貴族で構成された議会の発言力が高まった。
フランスは、イタリア戦争後ヴァロワ家が断絶。ユグノー戦争が勃発した。この戦争は、カルヴァン派とカトリックとの対立の影響で激しくなった。サンバルテルミの虐殺はその一例である。カルヴァン派のブルボン家が勝利。ブルボン家はカトリックへ改宗する一方で、ナントの王令で宗教の自由を認めた。
17世紀に入ると、神聖ローマ帝国でルター派の反乱がおきる。ドイツ三十年戦争である。この戦争はフランスなどの近隣諸国が参加。大規模かつ長期の戦争になった。
この戦争は、カトリックの神聖ローマ皇帝側の敗北に終わった。これにより、神聖ローマ帝国は事実上崩壊した。ドイツ三十年戦争によって、スウェーデンが強国になった。
一方で、プロイセンやロシアが成立したのもこの時代である。