封建社会から主権国家体制へ

(前史)封建体制

概要

主権国家

 中世、ローマ教皇が国王や皇帝に権威を与えていた。しかし、ローマ教皇の権威が低下。国王や皇帝は、自国の利害を求めて戦争と妥協を繰り返すようになる。

 16世紀に入ると、鉄砲などの最新兵器が登場。戦争は大規模化・長期化した。そのため、国家予算は膨張。そのため、徴税のために官僚機構が整備された。

 この時期、自己の支配領域を明確な国境で囲い込み、国内秩序を維持強化し、外に対しては主権者としての君主(国王や皇帝)のみが国を代表する体制を築いた。このような国家を主権国家という。

 すなわち、貴族と国王の契約関係で成立した封建社会から康応を中心とした主権国家へ移行した。ここでは。国王が貴族から権限を奪い取っていく過程を見ていきます。

絶対王政

 この時期、国王を中心とした強力な統治体制が築かれた。この体制を絶対王政という。この時、障害になったのは、免税特権をもっていた貴族(領主)や聖職者であった。国王は、これにたいこうするために商人などを味方に対抗した。

経済 問屋制

 経済では、商人が工業生産者(職人)に道具や原料を貸し出し生産を支配する制度が構築された。これを問屋制という。

 さらに、資本家(商人)は、工場を作り労働者を雇い生産をするものもあらわれた。

主権国家体制

 主権国家同士は、外交官の交換や国際会議で互いの利害を調整す量になった。これを主権黒海体制という。この体制は現在も続いている。

イタリア戦争

 15世紀末、イタリアをめぐり神聖ローマ帝国とフランスが争った。

 当時のフランスは、百年戦争に勝利して乗りに乗っているヴァロワ朝の時代。一方、神聖ローマ帝国は15世紀前半からハプスブルグ家が皇帝を世襲するようになっていた。

 15世紀末、フランス国王シャルル9世はナポリ国王の継承権を主張。イタリアへ侵攻した。これに神聖ローマ皇帝が反発。イタリア戦争が勃発した。

 この戦争では、ローマ教皇やヴェネツィアなどの北イタリアの諸国家が巻き込まれた。さらに、ばら戦争に勝利したイングランドのテューダー朝も参加した。

 16世紀前半、スペイン国王カルロス1世が神聖ローマ皇帝に即位。これに、フランス国王のフランソワ1世が反発。イングランドのヘンリ8世と会見した。フランスは、イタリアへ侵攻した。

 ローマ教皇は、フランスを支持した。そのため、カール5世はローマを灰にした(ローマの刧略)。これにより、イタリア=ルネサンスは終わった。

 このとき、親ハプスブルグ家のローマ教皇が即位した。イングランド国王ヘンリ8世は、スペインからフランスに鞍替えするためにスペイン王女との離婚を検討していた。当然、ローマ教皇は拒否した。これにより、ヘンリ8世はイングランド国教会を発足させた。

 一方、フランスは、オスマン帝国のスレイマン1世と結んだ。第1次ウィーン包囲やプレヴェザの海戦はこの時に起こっている。

 イタリア戦争は16世紀半ばのカトー=カンブレッジ条約で終結した。

スペインとハプスブルグ家

婚姻政策

 15世紀後半、ハプスブルグ家は婚姻関係によって領土を拡大していった。

カール5世(16世紀前半)

 16世紀に入ると、ハプスブルグ家のカール5世(カルロス1世)がスペイン国王、神聖ローマ皇帝に即位。これを支援したのが、南ドイツのフッガー家であった。

 カール5世の時代には、スペイン、ドイツ(神聖ローマ帝国)に加えて、オランダ(ネーデルラント)や南イタリア(ナポリ)までに広がるハプスブルク帝国を開いた。

 大航海事業にも、資金提供を行った。マゼランの世界一周を支援。東南アジアのフィリピンを領有した。

 イタリア戦争でフランスと戦争をおこなった。さらに、プレヴェザの海戦や第1次ウィーン包囲でオスマン帝国(スレイマン1世)の侵攻を受けた。

 宗教面では、カトリック教会を支持。ルター派の弾圧を行った。しかし、フランス王国やオスマン帝国との戦争の最中のため、徹底的な弾圧は行われなかった。

フィリペ2世(16世紀後半)

 カール5世の後、ハプスブルグ家はスペイン=ハプスブルク家とオーストリア=ハプスブルグ家に分裂した。

 スペイン=ハプスブルク家を継いだのは、カール5世の子、フィリペ2世であった。スペイン=ハプスブルク家は、スペインのほかに、オランダ(ネーデルラント)と南イタリア(ナポリ)を継承した。

 イングランドのメアリ1世と結婚。しかし、メアリ1世が亡くなり、エリザベス1世の時代に入ると、イングランドとの関係は悪化した。

 カトリック教徒を擁護。ルター派のドイツ諸侯に配慮する必要がなかったため、徹底的なプロテスタントの弾圧が行われた。その影響を大きく受けたのが、オランダ(ネーデルラント)であった。オランダはカルヴァン派(新教徒)が多く住んでいたため、オランダで反乱がおきた。これがオランダ独立戦争である。

 フィリペ2世はポルトガルを併合。ポルトガルのアジアの拠点を継承。「太陽の沈まぬ国」と呼ばれるようになる。

オランダ(独立戦争)

 ネーデルラントは、オランダ・ベルギーがあるエリアで、毛織物産業で栄えていた。商人が多いため、カルヴァン派を信仰するようになった。

 15世紀後半の婚姻政策でハプスブルグ家の領土となり、その後、スペイン=ハプスブルク家に引き継がれた。16世紀後半、フィリペ2世がカルヴァン派の弾圧が行われた。

 16世紀後半、カルヴァン派の弾圧により、オランダで反乱がおきる。カトリックの多い南部は早々に離脱。北部はユトレヒト同盟を結成した。北部が後のオランダ、南部が後のベルギーになる。

 オランダの総督のオラニエ公が独立宣言を発表。スペインと対立していたイングランドのエリザベス1世がこれを支援。エリザベス女王はアルマダの海戦でスペインの無敵艦隊を破った。

 オランダは、スペインと交戦を続けながらバルト海交易で富を蓄積した。さらに、17世紀に入ると東インド会社を設立。ポルトガル(スペイン)が独占していたアジア交易に参入した。スペインと講和した。

 17世半ばのウェストファリア条約でオランダの独立は国際的に承認された。

イングランド エリザベス女王

 イングランドは、テューダー朝の時代である。このころ、ジェントリーと呼ばれる新興地主層が台頭してきた。

 15世紀末に入るとエンクロージャーが進んだ。エンクロージャーとは、端的に言えば小作人のリストラである。地主が小作人から土地を取り上げて自分で経営することである。地主たちは、小作人から取り上げた農地を牧草地に転換。羊毛生産を拡大した。その結果、毛織物産業が国民産業となった。

 16世紀前半のヘンリ8世の時代、イギリス国教会が設立。星室庁裁判所が作られ、絶対王政が構築された。

 16世紀半ば、メアリ1世が女王に即位。ローマ=カトリックへ戻った。

 しかし、エリザベス女王が即位すると、イギリス国教会の協議が固まった。とくにアルマダの海戦でスペインに勝利したことはイギリスの国民意識を高めた。

 エリザベス1世自身は、政治にあまり関心がなかった。宗教改革は議会主導で進んだ。そのため、議会の重要性が高まった。当時の議員の中心は、ジェントリーと呼ばれる大地主たちであった。彼らが政治の中心となった。

 17世紀に入ると、エリザベス1世は、東インド会社を設立。アルマダの海戦では敗北したスペイン(ポルトガル)が持っていたアジアの拠点へ進出した。

フランス

宗教内乱 ユグノー戦争

 フランスは、百年戦争に勝利したヴァロワ朝の時代である。16世紀前半は、フランソワ1世の時代。イタリア戦争で、カール5世(スペイン・神聖ローマ帝国)と争っていた。

 この時代、多くの商人がカルヴァン派に改宗した。彼らはユグノーと呼ばれた。16世紀半ばになると無視できないほどの勢力になっていた。

 16世紀半ば、幼い皇帝シャルル9世が即位。母のカトリーヌが摂政を務めた。これにより王位継承権をめぐって内乱が起きた。この内乱では、宗教が争点になったため、カトリック勢力の貴族とユグノーの貴族が争うようになった。そのため、この内乱はユグノー戦争と呼ばれた。

 16世紀後半のフランスは内乱状態になっていた。新教徒の貴族が多く殺害されたサンバルテルミの虐殺はこの時に行われた。思想家のボーダンなど内乱よりも国内統一を重視する声もたまっていた。

 最終的には、新教徒側のブルボン家のアンリ4世が即位した。ブルボン朝の始まりである。カトリック系の貴族へ配慮するため、カルヴァン派からカトリックへ改宗した。そのうえで、ナントの王令を出してカルヴァン派の信仰を認めた。フランスは、カトリックにとどまったが、ローマ教会からの独立性を主張するようになった。

絶対王政のブルボン朝へ

 17世紀に入ると、ルイ13世が即位。宰相リシュリューの元で絶対王政の基礎を築き上げた。三部会を停止。王権に抵抗する貴族やユグノーの抵抗を抑えた。

 神聖ローマ帝国で三十年戦争が勃発。フランスは当初中立の立場にいた。しかし、終盤で新教徒側で参戦。三十年戦争でハプスブルグ家に勝利した。

 17世紀半ば、太陽王ルイ14世が即位。宰相もマザランに変わった。ここがチャンスとばかりに貴族は反乱を起こした。フロンドの乱である。しかし、フロンドの乱は数年で終息。太陽王ルイ14世の絶対王政への時代へと向かる。

神聖ローマ帝国(ドイツ)

17世紀の危機

 17世紀に入ると、16世紀後半の価格革命によるバブルが崩壊、経済は停滞した。凶作・不況・疫病など社会不安は増大していた。

宗教戦争 三十年戦争

 神聖ローマ帝国は、カール5世が亡くなるとスペインと分裂。オーストリア=ハプスブルグ家が皇帝についていた。神聖ローマ帝国では皇帝権力の強化が行われず大小の両方に分裂した封建社会が続いていた オーストリア=ハプスブルグ家は、直轄地のオーストリアとチェコ(ベーメン)のみを統治していた。

 17世紀に入り、皇帝がカトリックの強化政策を進めた。フス戦争以降、カトリックに強い反感を持つチェコはこれに反発。大反乱がおきた。ザクセンなどルター派の諸侯がこれを支援し、神聖ローマ帝国は内戦状態になった。これが三十年戦争の始まりである。

 その後、スペインがカトリック側で、北欧のデンマークがルター派側で参戦。三十年戦争は国際戦争に発展した。

 ヴァレンタイン傭兵隊長の活躍でカトリック側が有利になると、北欧の強国スウェーデン(グスタフ=アドルフ)が参戦。

 最後に、フランス(ルイ13世)が新教国側で参戦

 新教国側の勝利で戦争が終結した。

ウェストファリア条約

 17世紀半ば、三十年戦争が終結。国際会議が開かれた。この後、主要な戦争の後には国際会議で講和条約が結ばれるようになる。

 この会議で、神聖ローマ帝国内の諸侯(ザクセンやプロイセンなど)に完全な主権が認められた。これにより、神聖ローマ皇帝の地位はただの名誉職になった。

 オーストリア=ハプスブルグ家は、オーストリアやチェコを修める一諸侯になった。このため、ウェストファリア条約は神聖ローマ帝国の死亡証明書といわれている。

 この戦争で、ドイツは人口が急減。さらに土地も荒廃した。そのため、ドイツは長きにわたる停滞期に入る。

 一方、戦勝国は領土を拡大した。フランスは、長年の係争地になるアルザスを獲得。スウェーデンも北ドイツに領土を拡大。バルト帝国を完成させた。スイスとオランダもこの時に国際定期に独立を承認された。

東欧

プロイセン

 13世紀の東方植民の時代に、ドイツ騎士団がプロイセンを建国。一方、東ドイツのブランデンブルグは、14世紀の金印勅書で選帝侯国になった。15世紀に入ると、ホーエンツォレルン家が世襲するようになった。

 17世紀に入り、プロイセンとブランデンブルグ選帝侯国が結び付き、プロイセン公国が成立。17世紀半ばのウェストファリア条約で主権が認められ、さらに勢力を拡大。18世紀に入ると王国に昇格した。

 この地域は、東方植民以来、農業が盛んであった。16世紀後半の価格革命で農産物価格が高騰すると地主層は経済力を拡大させた。この地域の地主層はユンカーと呼ばれ、農奴を使った農業で生計を立てるとともに、プロイセンの地方行政を担った。

ロシア

 キプチャク=ハン国(モンゴル)から独立したロシアは、16世紀後半にイヴァン4世が貴族を押させて皇帝の専制政治が始まった。領土を南ロシアに拡大。コサックのイェルマークを使ってシベリアの探検を開始した。

 イヴァン4世の死後、内紛状態になる。17世紀初頭に内紛が終わる。ミハイル=ロマノフがロマノフ朝を開いた。

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