宗教改革

(前史)中世のキリスト教

中世のキリスト教

 キリスト教は、4世紀のローマ帝国で国教化されて以降、地位を格段に向上させた。8世紀に偶像崇拝問題で東方正教会とローマ=カトリックに分裂。11世紀のカノッサの屈辱事件でローマ教皇の権威がみとめられた。11世紀末には、十字軍を編成。そして、12世紀末のインノケンティウス3世の時代に絶頂期を迎える。

ローマ教皇権力の衰退 

 13世紀後半から14世紀にかけて、ローマ教皇の地位が低下していく。その要因は、十字軍の失敗とペストの流行である。

 14世紀に入ると、アナーニ事件をきっかけに「教皇のバビロン捕囚」が始まる。14世紀後半には教会大分裂(大シスマ)に発展する。

 また、宗教改革を行う研究も、中世には始まった。カイロのアズハル学院の情報が、東方貿易でヨーロッパに伝わった。12世紀に入るとヨーロッパ各地に大学が作られた。

 大学では、神学として聖書の研究が行われた。神学の教授の中にはローマ教会のシステムを批判する者もあらわれた。イングランドのウィクリフ教授や神聖ローマ帝国のフス教授がその一例である。

宗教改革のはじまり

ルターの登場

 ルターはドイツ中部のザクセン出身の16世紀前半の人物である。ザクセンの大学で神学を教えていた。

 16世紀初頭は、イタリア=ルネサンスの全盛期である。このころローマのサン=ピエトロ教会の修復が行われた。ローマ教皇はこれを豪華なものにするため、資金調達を行おうとした。それが贖宥状である。

 贖宥状は、分裂状態の神聖ローマ帝国内で売られた。ザクセン王などドイツの諸侯は高価な贖宥状の購入をためらっていた。

 そして、1517年、ルターは教会に95か条の論題を張り付けた。これが宗教改革の始まりである。

 ルターの考え方は、福音主義といわれ、聖書(バイブル)を重視した。そのため、聖書に記述のないローマ教会や贖宥状を否定した。

 ルターの考え方は、ローマ教皇の搾取に反発する諸侯や市民、領主に搾取される農民にまで広がった。彼らはルター派(プロテスタント)と呼ばれた。

vs ローマ教皇

 19年、ローマ教皇は、ルターへ論客を送り込んだ。ライプツィヒ論争である。ルターはこのとき、ローマ教皇の至上権を否定し、フスの説を擁護した。ちなみにこの年は、カール5世の戴冠式が行われた年である。

 20年、ルターは「キリスト教の自由」を刊行。これに対し、ローマ教皇はルターに破門を言い渡した。

 21年、イタリア戦争真っただ中のカール5世が仲介に入った。ルターをヴォルムス帝国議会に予備だした。カール5世は、ルターを死刑にすることはできず、国外追放処分にとどめた。ルターはザクセン選帝侯にかくまわれた。カール5世もイタリア戦争の最中でザクセンを敵に回すことはできず、黙認した。

ドイツ農民戦争

 24年、トマス=ミュンツァーを指導者とするルター派農民による反乱がドイツで起きた。

 ルターは、当初のこの農民反乱を支持したが、運動が過激化すると批判的になった。

 このドイツ農民戦争は25年に鎮圧された。

プロテスタント

 ザクセン選帝侯など、ルター派の諸侯たちはローマ教会から離脱。領邦教会制へ移行した。修道院を廃止し、その財産を没収した。

 26年、カール5世は、シュパイエル帝国議会でルター派諸侯の行動を容認した。

 27年、ローマの刧略で、カール5世はフランス国王と結んだローマ教皇を排除。

シュマルカルデン戦争

 29年、カール5世は、再びルター派を否定した。この年にオスマン皇帝によるウィーン包囲が行われる。

 30年、ルター派諸侯がシュマルカルデン同盟を結成。

 46年、ルターが死去

 46年、シュマルカルデン戦争が始まった。

アウクスブルクの和議

 55年、カール5世はアウクスブルクの和議で、ドイツ諸侯の信仰の自由をみとめた。しかし、領民の宗教の自由は認められなかった。さらに、カルヴァン派もこの時には認められていない。

 カール5世は、アウクスブルクの和議の翌年に皇帝の地位を弟のフェルディナント1世に譲った。フィルディナント1世はウィーン包囲で活躍し、ドイツ諸侯の間で信頼が厚かった。

 これにより、ハプスブルグ家は、フィルディナント1世のオーストリア=ハプスブルク家と息子のフェリペ2世のスペイン=ハプスブルク家に分裂した。

 ルター派は、デンマークやスウェーデンなどの北欧諸国に広がった。

その他の宗教改革

カルヴァン派

 同じ頃、スイス(神聖ローマ帝国)でも、宗教改革が行われていた。15世紀後半、ツヴィングがチューリッヒで宗教改革を開始。

 そして、16世紀に入ると、ジュネーブでカルヴァンがカルヴァン派を開いた。

 彼は予定説をとなえ、天国へ行く人と地獄へ行く人はかみによってあらかじめ決まっていると唱えた。そのため、カルヴァン派を信仰する人はあまり布教を行わなかった。そのため、日本の徳川家康は特にカルヴァン派の弾圧は行わなかった。

 カルヴァン派では、働くことは美徳とし、富の蓄積はその成果として否定しなかった。そのため、多くの商人に広がった。

 ルター派はローマ教皇権を否定したが、司教制度は認めた。そのため、領邦教会制度が確立した。一方で、カルヴァン派は司教制度を否定。信仰の厚いものを長老に選ぶ長老主義がとられた。

 カルヴァン派は、スイスのほかに、フランス、オランダ、イングランドなどに広がった。16世紀後半には、オランダではオランダ独立戦争を引き起こし、フランスではユグノー戦争が行った。そして、17世紀に入るとイングランドでイギリス革命を起こした。

イギリス国教会

 次の舞台はイングランドである。イングランドは15世紀のバラン戦争得成立したテューダー朝のじだいである。

 16世紀初頭、ヘンリ8世が即位。彼はもともと熱心のカトリック教徒であった。しかし、子宝に恵まれなかった。そのため、ローマ教皇に離婚を申し出ていた。しかし、タイミングが悪かった。

 ヘンリ8世の妻はカール5世の王女であった。当時のローマ教皇はカール5世と対立していたので離婚もすむーずにながれるはずだった。しかし、27年にローマの刧略でカール5世によってローマ教皇は変わっていた。当然、新教皇は離婚を認めなかった。

 激怒したヘンリ8世は、34年、国王至上法(首長法)を制定。イングランド国内の教会のトップはローマ教皇ではなくイングランド国王であると定めた。イングランド国教会の始まりである。

 ヘンリ8世は、修道院を議会立法で次々廃止し、その財産を没収した。そのため、イングランド王室の財政は大いに潤った。

 ただ、国王のわがままで作った宗教であるため、協議がなかった。教義は息子のエドワード1世の時代に整えられた。

 16世紀半ば、幼くしてエドワード1世が亡くなった。跡を継いだのは、エドワード1世の姉のメアリ1世である。メアリ1世は、離婚させられたスペイン王女の娘で、旦那は、スペイン国王フェリペ2世である。そのため、メアリ1世は、熱心なカトリック教徒であった。そのため、イングランド国内のカルヴァン派の弾圧を行い、その財産を奪っていった。そこからついたあだ名が、ブラッディ―メアリーである。

 メアリー1世は、後継者を生まずに亡くなった。そのあとを継いだのがメアリー1世の妹エリザベス1世であった。カルヴァン派の弾圧をやめ、統一法でイギリス国教会の協議を確定させた。これは、カルヴァン派とカトリックの中間的なものであった。

 統一法は、大部分のカルヴァン派に容認された。しかし、一部の熱心なカルヴァン派はこれを認めなかった。彼らはピュア(純粋

 統一法は、大部分のカルヴァン派に容認された。しかし、一部の熱心なカルヴァン派はこれを認めなかった。彼らはピュア(純粋)なカルヴァン派として、ピューリタンと呼ばれるようになった。

 また、エリザベス1世は、絶頂期のスペインのフェリペ2世を敵に回すことになった。

カトリックの改革