近代③ 絶対王政

概要

 17世紀に入ると、国王の権威が最高潮に達した。「王様のいうことは絶対」が文字通りに通用した時代である。

絶対王政の政治と経済

概論

 17世紀前半のドイツ三十年戦争で、国王の地位を守るには常備軍を必要とすることを痛感した。その維持のために多額の資金を必要とした。そのため、各国は重商主義政策をとるようになった。重商主義政策を実行するため、各国は植民地を求めるようになった。

イギリス(イギリス革命)

 17世紀初頭、エリザベス女王が亡くなると、スチュアート朝が成立。フランス王室に倣って絶対王政を引いた。この絶対王政は、貴族の反感を買った。

 17世紀後半に入るとイギリス革命(清教徒革命、名誉革命)が勃発した。同じ頃、英蘭戦争も行われた。

 イギリス革命は、オランダから国王を迎えることで終結した。そのご、スコットランドとイングランドが合同。18世紀には、ハノーヴァー朝が成立。議会中心の政治が始まる。

フランス(ルイ14世)

 イギリスがイギリス革命で混乱している17世紀後半、フランス王室は全盛期を迎える。ルイ14世の絶対王政である。ヴェルサイユ宮殿が作られたのもこのころである。カトリックの強制を実施。スペイン継承戦争などの対外戦争が行われた。

オーストリアとプロイセン

 18世紀前半は、戦争の世紀であった。スペイン継承戦争、オーストリア継承戦争、七年戦争である。

 これらの戦争で成長したのが、プロイセンである。プロイセンは地主層のユンカーを中心に国力を増強した。

 一方、衰退したのが、オーストリアである。

ロシアの台頭

 東欧中心は、スウェーデンであった。18世紀はスウェーデンからロシアに強国が変わる時代であった。18世紀前半、ピョートル1世は北方戦争でスウェーデンに勝利。18世紀半ば、エカチェリーナ2世は、オスマン帝国からクリミア半島を獲得。黒海へに進出を果たした。

ポーランド分割

 ポーランドは、16世紀後半にヤゲヴォ朝が断絶。選挙王政の時代に入った。18世紀後半、プロイセン、ロシアとオーストリアによって分割された。

植民地政策

アジア

 17世紀以降の植民地政策を見ていきます。

 17世紀前半、イギリスとオランダがアジアへ進出。アンボイナ事件で、東南アジアはオランダの勢力圏になった。イギリスは、アウラングゼーブ帝期のムガル帝国(インド)に拠点を置いた。

 17世紀後半、ルイ14世紀のフランスがアジアへ進出。インドをめぐり、第二次英仏百年戦争が始まる。

アメリカ

 アメリカに最初に進出したのは。16世紀のスペインである。スペインは、インカ帝国やアステカ王国のあった太平洋側に拠点を置いた。

 17世紀に入ると、イギリス、オランダとフランスが進出した。オランダは英蘭戦争に敗北して撤退した。アメリカ東海岸にはイギリス13植民地が成立した。一方、フランスが、カナダのケベックに進出。17世紀後半には、ミシシッピ川沿いにルイジアナ植民地を建設した。

 18世紀、第二次英仏百年戦争にフランスが敗北。フランスもアメリカから撤退した。

 17世紀から18世紀にかけて、大西洋三角貿易が盛んになった。

絶対王政期の文化と社会

宗教の影響が亡くなり、自由に研究が行えるようになった。これにより科学革命が起こった。万有引力を発見したニュートンはその一人である。この科学革命が、18世紀後半の産業革命につながる。

 また、新たな思想がこの時期に登場した。これを啓蒙思想という。モンテスキューやルソーが活躍したのもこの時代である。これらの思想が革命の原動力になった。

 芸術面では、16世紀のルネサンス文化から、バロック文化やロココ文化へ移行した。これらの文化の担い手は国王たちであった。