(前史)太陽王ルイ14世
17世紀後半、太陽王ルイ14世が即位。ヴェルサイユ宮殿を作り絶対王政の確立を内外に示した。一方で、多くの戦争を繰り返し財政が悪化。18世紀初頭のスペイン継承戦争では多くの損害を出した。
跡を継いだのが、ルイ15世である。18世紀半ばの七年戦争に敗北。海外植民地の大部分を放棄した。
フランス革命以前の社会
フランス革命以前、国民は3つの階級に分けれていた。第一身分の聖職者(カトリック教会の司教など)、第二身分の貴族、第三身分の平民であった。
重要な官職は、聖職者と貴族が独占。また、聖職者と貴族は免税特権を持っていた。
こうした階級制度を旧制度(アンシャンレジーム)という。
一方で、各身分は、貧富の差をは関係なく家柄で決まっていた。そのため、各身分で貧富の差が生じていた。
89年初め、シェイエスが「第三身分とは何か」を発表した。
フランス革命の推移
フランス革命時は多くの政府が誕生した。これを議会の変遷でまとめてみた。
- 三部会
- フランス革命以前のフランスの国会
- 旧体制(アンシャンレジーム)の象徴
- 国民議会
- 89年7月のフランス革命勃発で成立
- ラ=ファイエットら立憲君主派が主導
- 立法議会
- 91年憲法で成立
- ジロンド派(穏健共和派)が主導
- 国民公会
- 92年のヴェルサイユ行進で成立
- ジャコバン派(急進共和派)が主導
- 総裁政府
- 94年のテルミドール9日のクーデターで成立
- 穏健共和派が主導
- ナポレオン独裁(統領政府)
- 99年のブリュメール18日のクーデターで成立
立憲君主制へ
特権階級への増税問題
七年戦争の敗北で、フランス王室は財政が行き詰った。ルイ16世は、改革派官僚を起用して財政改革を断行しようとした。改革派官僚の代表格は、テュルゴーやネッケルであった。
改革派官僚が提言したのが、免税特権を持つ貴族と聖職者への課税であった。
当然、貴族たちは反発。16世紀初頭に停止された三部会(国会)の開催を要求した。
89年5月、三部会が開催。しかし、議決方法で特権階級(貴族・聖職者)と第三身分(平民)が対立。
89年6月、第三身分が三部会に変わる議会として国民議会を発足を宣言した。これが「球戯場の誓い」 である。国王ルイ16世や一部の貴族がこれに同調した。
貴族の同調の背景には、貴族間の貧富の差があった。裕福な貴族は、税金を支払ってでも、議会を通じて政治に参加したいと考えていた。彼らは自由主義貴族といわれた。一方で、貧しい貴族は、免税特権の維持に固執した。
フランス革命の始まり
89年7月、国王ルイ16世は考えを転換。保守派の貴族側に回り武力クーデターを実施。国民議会を武力で解散させた。
このヴェルサイユ宮殿での出来事が、パリ市民を激怒させた。7月14日、パリ市民はバスティーユ監獄を襲撃。フランス革命が勃発した。この革命は、フランス全土の農民蜂起につながった。多くの貴族はこれにより亡命した。
人権宣言
フランス革命によりクーデターは失敗。国民議会は継続した。その中心は自由主義的貴族であった。8月4日、国民議会は封建的特権を廃止を決議した。領主裁判権や教会への十分の一税が無償で廃止された。しかし、貴族への地代は、有償廃止となった。
8月26日、国民議会は人権宣言を採択した。起草は、アメリカド独立戦争にも参加した自由主義的貴族のラ=ファイエットである。自由と平等をうたうとともに、私有財産の不可侵を記載した。
ヴェルサイユ行進
10月初頭、パンの高騰を受けて、女性を先頭にしたパリ市民がヴェルサイユへ行進。王家と国民議会をヴェルサイユからパリ(テュイルリー宮殿)へ移した。
この後、国民議会は市民が求める政策を実行した。
- 地方の行政区画の見直し
- 教会財産の没収(国有化)
- 度量衡の統一の計画を決定(99年のメートル法)
共和政へ
ヴァレンヌ逃亡事件
91年6月、ルイ16世一家はオーストリアへの亡命を決行するも失敗。(ヴァレンヌ逃亡事件)。これにより、国王は国民の信を失った。
91年8月、オーストリアは、プロイセンと共同でルイ16世の救援を各国君主に呼び掛けた。
第一共和政
91年9月、国民議会は91年憲法を制定。国民議会は解散した。91年憲法は、一院制の立憲君主制を採用。選挙権は雄さん市民に限定された。
翌10月、憲法に即して立法議会が始まった。革命のこれ以上の侵攻を望まない立憲君主派と、大商人(平民)の利害を代表し、王政を停止して共和制へ移行しようとするジロンド派が対立した。
92年春、ジロンド派が政権を握る。オーストリアに宣戦布告。しかし、軍隊の幹部は王党派が多く戦意が低くなった。そのため、当初は敗戦が多かった。
この敗戦を受けて、フランス各地から義勇軍が集まった。マルセイユから来た義勇軍が歌っていたのが、現在のフランス国歌「ラ=マルセイエーズ」である。
ルイ16世の処刑
92年8月10日、義勇兵とパリの下層市民がパリのテュイルリー宮殿を襲った。原因は、フランスの劣勢にあった。これにより、立法議会から立憲君主派を追放。男子普通選挙による国民公会の創設を決定し、立法議会は解散した。
9月、男子普通選挙を実施。共和派が圧勝した。一方で、オーストリア・プロイセン連合軍がパリに迫っていた。9月20日、ヴァルミーの戦いでフランス軍が初勝利。パリ陥落は免れた。翌21日、国民公会は王権を停止し、共和政を宣言した。
国民公会では、穏健共和派のジロンド派のほかに、急進共和派のジャコバン派が台頭した。ジャコバン派は、普通選挙導入に選挙権を新たに獲得した下層市民を中心に票を集めた。その中心人物がロベスピエールである。
年が明けて93年1月、国民公会でルイ16世の裁判が始まった。死刑反対のジロンド派と死刑賛成のジャコバン派が対立。わずかの票差で、国王処刑が決定。すぐに死刑は執行された。
3月、反革命の動きが始まった。イングランドのピット首相は、第1回対仏大同盟の結成を発表。同じ頃、フランス国内でも王党派が農民反乱を引き起こした。パリでは野党のジロンド派がジャコバン派を激しく追及した。
ジャコバン派の恐怖政治
93年6月、サンキュロット(小規模工場経営者など)がパリで蜂起。ジロンド派は国民公会から追放された。93年憲法(ジャコバン憲法)が制定された。
ジャコバン派の政策は、基本的には社会主義の政策に近い。下層市民や農奴にやさしい政治が行われた。主な政策は以下のとおりである。
- 封建地代の無償廃止
貴族から土地を没収して、農奴に分け与える政策。これにより、農奴は自作農になり地代の支払いが必要なくなった。 - 亡命貴族から没収した土地を競売
- 最高価格令 買い占めの禁止
- 徴兵制の実施
- メートル法の制定
- キリスト教の否定
- 革命歴の導入
- 理性の崇拝
ジャコバン派の政策は、貴族などの金持ちを処刑してその財産を分配する政策であった。また、当時のキリスト教は、富の象徴的な存在であった。そのため、ジャコバン派はキリスト教を否定した。そのため、ローマ教皇との関係は悪化した。クリミア戦争のきっかけになる聖地管理権もこの時に放棄している。
94年6月、ノートルダム寺院で最高存在の祭典が行われる。ジャコバン派の独裁から1年後の出来事である。
翌7月、テルミドールのクーデターが発生。ロベスピエールは処刑。1年1か月でジャコバン派の恐怖政治は終結した。
革命の終結
総裁政府
95年憲法を制定。財産による制限選挙。二院制の立法府と5人からなる総裁政府から構成された。
この時代は、ジャコバン派の残党や王党派の反乱が相次いだ。
ナポレオン
この時代活躍したのが軍人ナポレオンである。96年に、イタリア遠征。オーストリア軍を破る。97年にオーストリアと講和。南ネーデルラント(ベルギー)とロンバルディア(ヴェネツィアなどのイタリア北東部)を獲得した。
98年、ナポレオンはエジプトへ侵攻。イギリスとインドの航路を遮断しようとした。99年、イギリスはこれに対抗。第二次対仏大同盟を結成。
ナポレオンのクーデター
第二次対仏大同盟は、フランスへ進軍。これにより総統政府は支持を失った。99年11月、ナポレオンがエジプトから帰国。総裁政府を倒し、統領政府が誕生した。これをブリュメール18日のクーデターという。ナポレオンはこの時に第一統領になった。
皇帝ナポレオン
アミアンの和約
00年、ナポレオン軍は、アルプス越えでオーストリアに勝利。同じ年、フランス銀行設立。保護貿易で国内の工業をイギリス製品から守った。
01年、ナポレオン、ローマ教皇と和解。
02年、イギリスと講和。(アミアンの和約)。これは、イギリスでピット首相が失脚したことで実現した。これで第二次対仏大同盟は解散した。ナポレオンは終身統領になる。これによりナポレオンの独裁が始まった。
ナポレオン皇帝
04年、ナポレオン民法典をまとめる。これによりフランス革命期にさんざん変更された所有権が明文化された。この後、多くの国でこれを参考にした民法が作られる。
同04年、国民投票でナポレオン皇帝が誕生した。ローマ教皇をパリのノートルダム寺院に招待し、12月に戴冠式が行われた。
第三回対仏大同盟
翌05年、イギリスでピット首相が復帰。第3回田伏大同盟を結成した。
10月、ナポレオンは、トラファルガー海戦でイギリス海軍に敗戦。
12月、ナポレオン、アウステルリッツ三帝会戦で、オーストリア・ロシア連合軍に勝利。
ナポレオンの大陸支配
06年、ドイツでは、神聖ローマ帝国を消滅させ、新たにライン同盟を設立。イエナの戦いで、ナポレオン軍はプロイセン軍を破る。ナポレオンは、オランダには、オランダ王国を建国。弟を国王にした。
06年、ベルリンで、大陸封鎖令を発令。ヨーロッパ各国にイギリスとの交易を禁止した。これは、フランスの工業製品をヨローロッパ各国で売ることが目的である。いわゆる保護貿易政策である。
07年、ティルジット条約でプロイセン・ロシアと講和。プロイセンから領土と賠償金を獲得。ロシアには、大陸封鎖令への参加を認めさせた。このとき、分割されたポーランドがワルシャワ大公国として復活した。
08年、ブルボン朝のスペインを征服。ナポレオンの兄が国王に就任。しかし、スペインでは反乱が続いた。ゴヤの『1808年5月8日』はこの様子を描いたものである。
このころから、ナポレオンの支配からの独立を求める動きがヨーロッパ各地で起こり始めた。これがナショナリズムの始まりである。ドイツでは、シュタインらが近代化政策を始める。哲学者のフィヒテは、『ドイツ国民に告ぐ』の公演を行った。
一方、ナポレオンは全盛期を迎える。弟を国王にしていたオランダを併合。オーストリア=ハプスブルグ家から妻を迎える。
ロシア遠征失敗
ロシアはテルジット条約を無視し、イギリスと密貿易を行っていた。12年ナポレオンはその制裁のためにロシア遠征を始めた。
9月にモスクワへ入城。この時に冬将軍が到来。ナポレオン軍は大敗した。この時のロシア皇帝はアレキサンドル1世である。
12年、イギリスはフランスに対して海上封鎖令を出した。これをきっかけに米英戦争が勃発した。
ナポレオンの最期
13年、イギリスは第4回対仏大同盟を結成。ライプツィヒ戦争(諸国民戦争)でナポレオン軍は敗れる。
14年、連合軍はパリ入城。ナポレオンはエルバ島に移住させられた。フランスでは復古王政が始まる。
この年からウィーン会議が始まる。会議は踊り、進まなかった。
15年2月、ナポレオンがエルバ島を脱出。パリへ入城。ナポレオンの百日天下)。
6月、ワーテルローの戦いで、ナポレオンが敗北。大西洋の孤島セントヘレナ島へ流される。