カテゴリー
トルコ・ギリシャ史

16世紀前半のオスマン帝国 スレイマン1世とヨーロッパ

16世紀前半、日本は戦国時代にあった。鉄砲やキリスト教(カトリック)が伝わったのがこの時代である。

スレイマン1世

スレイマン1世の政治

 オスマン帝国は、新たな軍事組織を作った。バルカン半島の元キリスト教徒を使って皇帝直属の歩兵隊を作った。彼らはイエニチェリと呼ばれた。意味は、新しい兵士である。イエニチェリは16世紀の最新兵器である鉄砲を装備していた。

 オスマン帝国の元々の軍隊は、シパーヒーと呼ばれた。シパーヒーはトルコ人騎兵隊で、スルタンから給料の代わりに土地が与えられていた。16世紀、戦力の中心が騎兵から鉄砲に代わる連れて発言力が低下していった。

 スレイマン1世は、軍事面だけでなく内政面でも高い成果を出した。検地の実施や租税制度の整備を行った。

 また、57年にはイスタンブルにスレイマンモスクを建設した。

バグダード併合(イラン)

 スレイマン1世は、29年のウィーン包囲が失敗に終わると軍隊を東へ向けた。

 サファヴィー朝イランからは、イラク(バグダード)とカフカス地方(アゼルバイジャン)を奪った。

 イエメンを占領。紅海とペルシャ湾の制海権をポルトガルから奪った。

VSカール5世(ドイツ)

ハンガリー併合

 スレイマン1世は、バルカン半島西部のセルビア(ベオルラード)とハンガリーを支配下に置いた。ハンガリーを勢力下におくことで、神聖ローマ帝国(ドイツ)に接するようになった。

カール5世と神聖ローマ帝国

 神聖ローマ帝国は、現在のオーストリアとスイス、ドイツ、チェコにまたがる中欧の大国である。16世紀前半は、カール5世の時代であった。カール5世はスペイン国王を兼任していた。

ウィーン包囲

 29年、スレイマンは、神聖ローマ帝国の首都ウィーンを包囲した。当時カール5世はイタリアへ出兵していた。代わりにウィーンを守っていたのが弟のフィルディナンドが守っていた。スレイマン1世は補給がうまくいかず、ウィーンを陥落させることはできなかった。

 その後も、オーストリアとオスマン帝国は争い。47年に和睦。ハンガリーを2か国で分割統治することとなった。

 スレイマン1世のウィーン包囲は、カール5世の外交にも影響を与えた。とくに、ルター派にはかなり宥和政策をとらざるを得なかった。 

プレヴェザの海戦

 スレイマン1世は、バルカン半島の侵攻と並行して、地中海の制海権をめぐり、ヨーロッパ諸国と戦った。これはムスリム商人の商業圏の獲得のためである。

 スレイマン1世に最初に戦ったのは、ヨハネ騎士団であった。12世紀の十字軍の一派で、エルサレムを守っていた。13世紀末、十字軍最後の拠点アッコンが陥落すると、地中海に浮かぶロードス島に拠点を移した。
 スレイマン1世は、23年にロードス島へ侵攻。ヨハネ騎士団から、ロードス島を奪った。ロードス島を追われたヨハネ騎士団は、マルタ島へ拠点を移した。現在のマルタ騎士団である。

 同じ頃、元マムルーク朝のエジプトで反乱。スレイマン1世はこれを鎮圧した。

 ここで、再びカール5世が登場する。29年のウィーン包囲のあと、33年、スペインが南米のインカ帝国を征服。カール5世は、新大陸から大量の銀が届くようになった。翌34年、スペイン(カール5世)はオスマン帝国から北アフリカのチェニスを奪った。

 スレイマン1世は当然、これに報復した。38年のプレヴェザの海戦である。カール5世は、ヴェネツィアとローマ教皇を味方につけてこれに対抗した。スレイマン1世は、カール5世の連合軍を破り、地中海の制海権を獲得した。北アフリカではフランスの南アルジェリアまで勢力下に置いた。

フランソワ1世との同盟

イタリア戦争

 スレイマン1世は、プレヴェザの海戦の前にフランスと同盟を結んだ。フランス国王フランソワ1世は、カール5世とのイタリア戦争の真っ只中にあった。

カピチュレーション

 このあと、スレイマン1世はフランス商人を優遇した。スレイマン1世の後をついだセリム2世は、領事裁判権などをフランス商人に与えた。これがカピチュレーションである。(スレイマン1世がカピチュレーションを行ったかは疑問が残る)

セリム1世

マムルーク朝エジプト征服

 スレイマン1世の前の皇帝は、セリム1世である。セリム1世の最大の功績はマムルーク朝エジプトの征服である。これにより、オスマン帝国は2つの聖地メッカとメディナを得た。

トルコ版長篠の戦い

 エジプトを征服する前、セリム1世は、サファヴィー朝イランからアナトリア半島東部を奪還した。チャルディランの戦いである。

 当時のサファヴィー朝は建国したばかりで、建国者イスマイール1世が率いていた。その強さの秘訣は、キジルバシュという騎馬軍団にあった。

 オスマン帝国のセリム1世は、これを鉄砲隊(イエニチェリ)で対抗した。この戦いで、セリム1世はサファヴィー朝を撃退した。

(軍事・財政)イエニチェリ

 サファビー朝との戦いなどの征服活動で活躍したのは、皇帝の常備軍であるイエニチェリであった。

 イエニチェリは、新兵の意味である。彼らは、キリスト教徒のなどの異教徒が少年時代にイスラム教に改宗。皇帝の常備軍として働いた。

 では、それまでの主力部隊は何であろうか。それがシパーヒーである。シパーヒーはオスマン帝国を昔から支えた騎士階級である。

 シパーヒーとイエニチェリの大きな違いは、給与制度である。シパーヒーはティマール制という給与制度である。ティマール制とは、ティマールという知行地の徴税権が与えられ、そこでの税収が給料となった。一方、イエニチェリは皇帝から給料を直接受け取った。

作成者: sekaishiotaku

初めまして、sekaishiotakuです。世界史好きの一般会社員です。よろしくお願いいたします。

「16世紀前半のオスマン帝国 スレイマン1世とヨーロッパ」への2件の返信

I was suggested this website through my cousin. I’m not certain whether or not this submit is
written via him as no one else recognise such specified about
my problem. You are wonderful! Thanks!

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です