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トルコ・ギリシャ史

1930年代のトルコ・ギリシャ 西洋化政策を進めるケマル大統領

1930年代は戦間期に当たる。戦間期は、世界恐慌を境に栄光の20年代と戦争へ向かう30年代に分けられる。今回は戦間期後半の30年代のギリシャとトルコを見ていく。

 第一次世界大戦で、バルカン半島と中東はガラッと状況が変わった。オスマン帝国の崩壊で多くの国が誕生した。トルコではトルコ共和国が成立。西洋化政策を進めている。一方、ギリシャでは王政が復興した。

トルコ革命後のギリシャとトルコ

トルコの西洋化政策

 1920年代、トルコ革命トルコ共和国が成立した。大統領はムスタファ=ケマルである。首都もイスタンブールから現在のトルコ共和国の首都アンカラに遷った。アンカラトルコ東部の内陸部の都である。

 ムスタファ=ケマルは、日露戦争に勝利した日本を見習って西洋化政策を進めた。トルコ語を制定。アラビア文字をやめ、アルファベットの使用を開始した。女性の地位向上に努め、キリスト教圏と同じ一夫一妻制を導入した。暦も、イスラム暦を廃止。日本やヨーロッパ圏と同じ太陽暦を採用した。(日本で採用されたのは1870年代)

 また、トルコ共和国では大きな内乱を抱えていた。クルド人問題である。クルド人第一次世界大戦後にオスマン帝国から独立する予定であった。しかし、トルコ革命によって、クルド人地域がトルコ共和国に含まれてしまった。そのため、このころ頻繁にクルド人独立運動が行われた。

ギリシャで王政が復活

 1920年代、ギリシャは共和制へ移行した。しかし、1930年代に入り王政が復活した。ギリシャ国王は、共和制を支持する人を公職から次々追放した。これを指揮したのはギリシャ陸軍であった。これにより、ギリシャ陸軍の独裁体制が構築された。

 一方政治の政界では2大政党の力が均衡。第三党の共産党の発言力が高まっていた。

ユーゴスラビアを狙うムッソリーニ(イタリア)

 この時代のバルカン半島の状況は、西側にユーゴスラヴィア、東側にルーマニアブルガリアがあった。ユーゴスラヴィアは、クロアチア人、スロバキア人、セルビア人を中心とした連合王国である。ユーゴスラヴィアは、中欧チェコスロヴァキアルーマニアで軍事同盟を締結した。イタリアのムッソリーニは、独立運動を行うクロアチア人を支援。ユーゴスラヴィアはこれを警戒してフランスに支援を求めた。フランスとユーゴスラヴィアの連携は強化された。しかし、ユーゴスラヴィア国王は親イタリアのテロによってなくなった。

中東で多くの国が独立

サウド家サウジアラビア VS ハシーム家 イラク

 中東は、第一次世界大戦まで、オスマン帝国支配下にあった。第一次世界大戦終結すると、中東は、戦勝国のイギリスとフランスに分割された。まずはイギリスの支配地域を見ていきましょう。

 中東では、2つの国が独立した。ハシーム家のイラクサウード家サウジアラビアである。ハシーム家は、アラブ独立運動の中心的存在であった。拠点も聖地メッカ、メディナのあるアラビア半島にあった。第一次世界大戦ではイギリス側(三国協商)で参戦。フセイン・マクマホン協定によって第一次世界大戦後の独立が保証されていた。しかし、第一次世界大戦終結するとサウード家によってアラビア半島から追放。イギリス領のイラクへ亡命した。

 一方、サウード家は、ワッハーブ王国の再興を願っていた。アラビア半島からハーシム家を追放アラビア半島を統一した。

フランス支配下のシリア

 フランスは、第一次世界大戦で地中海沿岸部のシリアを獲得した。シリア国王のハーシム家のファイサル国王は、フランスと独立に向けて交渉。独立に関する条約を締結した。しかし、フランスはこの条約を批准(議会の承認)が得られず、独立は無効になった。

 そのまま、第二次世界大戦に突入。フランスは、ナチスドイツの支配下に入った。シリアが正式に独立できたのは第二次世界大戦後になった。

第二次世界大戦下のトルコ、ギリシャ

太平洋戦争前、ギリシャなどバルカン半島の国々は主としてフランスの支援で独立を維持していた。しかし、第二次世界大戦で独ソのポーランド分割が完了すると、ナチスドイツはバルカン半島へ侵攻した。

 一方、トルコ共和国は、中立を維持した。

作成者: sekaishiotaku

初めまして、sekaishiotakuです。世界史好きの一般会社員です。よろしくお願いいたします。

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