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トルコ・ギリシャ史

13世紀のビザンツ帝国 十字軍とモンゴル

 13世紀は、モンゴルの世紀である。この影響は、ヨーロッパや中東にも影響を与えた。一方ヨーロッパと中東間では十字軍戦争が続いていた。

14世紀 オスマン帝国の成立

 14世紀、小アジアのルームセルジューク朝からオスマン帝国が成立した。オスマン帝国は、バルカン半島へ侵攻した。今回から、オスマン帝国成立前のバルカン半島(ギリシャ)と小アジア(トルコ)の歴史を見ていきます。当時、この地にあったのはビザンツ帝国であった。

十字軍とイル=ハン国

イルハン国

 モンゴル帝国の強さは41年の東欧でのワールシュタットの戦いでヨーロッパ中に伝わった。46年、ローマ教皇がプラノカルピニをモンゴル帝国へ派遣。モンゴル帝国は後継者争いで混乱していた。そのため、中東遠征は実現しなかった。

 54年、アイユーブ朝から解放されたフランス国王ルイ9世(第6回十字軍で捕虜になる)は、復讐に燃えていた。すぐさま、モンゴル帝国に使者(ルブルック)を派遣した。ルブルックはすでにモンゴル帝国の中東遠征が始まったことを知る。これに合わせて、フランスは70年、チュニジア遠征(第7回十字軍)を行った。

 モンゴルが進軍した13世紀半ばの中東は小国分裂状態であった。(後述のルームセルジュークを参照)。そのため、容易にバグダードまで進軍することができた。この軍を指揮したのはフラグである。カリフを処刑しアッバース朝の歴史に幕を閉じた。

 ハイドゥの乱でモンゴル帝国が分裂すると、フラグが独立しイルハン国を建国した。

アイユーブ朝エジプトと十字軍

 13世紀初頭、エジプトを統治していたのは、アイユーブ朝である。アイユーブ朝は、12世紀半ば、サラディンが建国した国である。アイユーブ朝は、聖地イェルサレムを含むエジプト・シリア地域を統治した。ファティーマ朝はシーア派であったが、アイユーブ朝に代わりスンニ派国家となった。

 12世紀後半、サラディンは、イェルサレム王国(第1回十字軍によって建国)から聖地イェルサレムを奪還。ローマカトリックはこれに基づき、第3回十字軍を編成。サラディンはこれを撃退した。

 イングランド国王リチャード1世と講和条約を締結した。その翌年、国王サラディンは亡くなった。サラディンが亡くなるとアイユーブ朝はエジプトとシリアに分裂した。

 13世紀初頭、ローマ教皇インノケンティウス3世は、アイユーブ朝の分裂を好機ととらえた。すぐさまフランス諸侯を集めて第4回十字軍が編成した。なぜかビザンツ帝国へ向った。

 ローマ教皇グレゴリウス4世はフランス国王の頼りなさから神聖ローマ皇帝(ドイツ皇帝)フリードリヒ2世に十字軍の要請をした。サラディンと親交の深い神聖ローマ皇帝(ドイツ皇帝)フリードリヒ2世はこの要請をのらりくらりとかわした。アイユーブ朝が内紛で混乱すると、フリードリヒ2世は第5回十字軍を派遣した。大きな戦闘は特に行われず、外交交渉でイェルサルムを奪還した。

 12世紀半ば、フランス国王ルイ9世は第6回十字軍を編成した。この時、フランスはある国と同盟を結ぼうとしていた。41年東欧でワールシュタットの戦いに勝利したモンゴル帝国である。しかしこれは実現しなかった。当時モンゴルは後継者争いで混乱していて遠征どころではなかった。

 第6回十字軍が始まるとフランスは苦戦した。当時中東では赤痢(チフス)が流行。多くの兵士が病死した。フランス国王ルイ9世は捕虜となり、アイユーブ朝エジプトの勝利に終わった。

 第6回十字軍が終わると、論功行賞でもめた。これにより軍事クーデターが発生。アイユーブ朝が倒れマムルーク朝が成立した。マムルーク朝は、身代金と引き替えにルイ9世を解放した。

 ルイ9世は、その後チュニジア遠征を行う(第7回十字軍)。ルイ9世は、チュニジアで赤痢(チフス)にかかり病死した。

 ローマ教皇ボニファティウス8世は、フランス国王フィリップ4世に第8回十字軍を要請した。その後の結末は、14世紀のフランス編をご覧ください。

ルーム=セルジューク(トルコ)

 この時期、トルコはルーム=セルジュークが統治していた。のちにオスマン帝国を築くオスマン族もルーム=セルジュークの有力諸侯の一人であった。

 ルーム=セルジュークは、セルジューク朝から分裂した国である。セルジューク朝は、中央アジアで成立したトルコ系騎馬民族国家である。11世紀半ばにバグダードへ入城した。11世紀末に十字軍の遠征を受ける。12世紀に入ると、一族の分裂によりセルジューク朝は分裂した。これにより、中東は十字軍国家群とセルジューク朝国家群など小国分裂状態になった。その一つがルームセルジュークである。

ビザンツ帝国(バルカン半島)

ビザンツ帝国の復活

 コンスタンチノーブルに成立したラテン帝国も長くは続かなかった。ラテン帝国はローマ=カトリックの国である。一方でバルカン半島は東方正教会の国であり、民衆の反発は大きかった。北方のブルガリア王国との戦いで疲弊。13世紀半ばビザンツ帝国の反撃にあい、滅亡した。

 ビザンツ帝国も、バルカン半島を支配する力はすでに失っていた。コンスタンチノーブル周辺とギリシャの一部を統治するのが精いっぱいであった。

第二次ブルガリア王国

 ラテン帝国は、コンスタンチノーブルを支配すると、北方(バルカン半島)へ向った。バルカン島の北方には、アジア系騎馬民族のブルガリアがあった。ラテン帝国とブルガリアは、ギリシャの入り口アドリアノーブルで戦った。アドリアノーブルの戦いである。この戦いはブルガリアの勝利に終わった。余談だが、アドリアノープルは、14世紀にオスマン帝国の都となり、コンスタンチノーブルの前線基地となった。

 ブルガリアは、カスピ海北部にいたトルコ系の騎馬民族である。4世紀のフン族の侵入で、バルカン半島東部(黒海沿岸)に移動した。7世紀にブルガリア王国を建国した。9世紀ごろにキリスト教(東方正教会)に改宗した。

 ブルガリア帝国は、アドリアノープルの戦いに勝利しバルカン半島の盟主となった。しかし、まもなくモンゴル人のヨーロッパ遠征が始まる。ブルガリア帝国はモンゴル(キプチャクハン国)へ朝貢する国となった。

第4回十字軍でラテン帝国成立

 13世紀初頭、ローマ教皇の権力は絶頂期にあった。時のローマ教皇はインノケンティウス3世である。12世紀末には、第3回十字軍を編成。イギリス国王、フランス国王、神聖ローマ皇帝を中東へ向かわせた。

 13世紀に入り、インノケンティウス3世は第4回十字軍をフランス国王へ指示した。今回は、陸路ではなく海路で向かうこととした。最初、イタリア西部のジェノヴァに支援を求めた。ジェノヴァは、アイユーブ朝エジプトと友好関係にあったためこれを拒否した。フランスはその足で、イタリア東部のヴェネツィアへ向った。ヴェネツィアは、協力の見返りに商売敵のビザンツ帝国への侵攻を求めた。

 これにより、第4回十字軍(フランス・ヴェネツィア連合軍)はエルサレムではなく、コンスタンチノーブルへ向った。十字軍は、ビザンツ帝国を追い出し、コンスタンチノーブルにラテン王国を建国した。一方で、ビザンツ帝国はコンスタンチノーブル郊外のニケーアへ逃れ、ニケーア帝国となった。

 この第4回十字軍によって。東方正教会とローマ=カトリックは完全に分裂した。

作成者: sekaishiotaku

初めまして、sekaishiotakuです。世界史好きの一般会社員です。よろしくお願いいたします。

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