1820年代のアメリカ ミズーリ協定とモンロー大統領

 モンロー大統領は、ミズーリ州を自由州にしようとした。これに対し、南部の綿花農家の反発を受けた。これにより成立したのがミズーリ協定である。

 しかしこの事件により、東部の知識人層と南部・西部の自営のわだかまりが生じた。これがジャクソン大統領の登場につながった。

ジャクソン大統領

ジャクソン大統領とは

 28年大統領選挙は、米英戦争で活躍したジャクソン将軍(民主共和党)が勝利した。ジャクソン将軍は、初の西部(テネシー州)出身の大統領である。

上級国民

 ジャクソン大統領を支持したのは南部と西部の自営農民や工場労働者であった。彼らは、東部の知識人階層に強い不満を持っていた。とくに、奴隷制問題で東部の知識人と南部の自営農民は対立した。

上級官僚の交代

 ジャクソン大統領は、大統領に就任すると上級官僚の首をきり、自分の支持者に官職を与えた。この慣習は現在も続いており、大統領選挙で政権交代が起こると上級官僚は総入れ替えになる。

民主共和党 アダムズ大統領

アダムズ大統領とは

 モンロー大統領は、2期8年を務めたので慣例に従い引退した。24年大統領選挙では、モンローの後継者である民主共和党のアダムズ大統領が勝利した。1796年大統領選挙で大統領になったジョン=アダムズ大統領の息子である。

リブバリカン党

 建国当時、アメリカは2つの派閥に分かれていた。連邦派(フェデラリスト)と反連邦派(アンチ=フェデラリスト)である。

 リブバリカン党は、1791年にジェファソン氏ら反連邦派が結成した政党である。ジェファソン大統領(1801年~)以降政権を担い続けた。

 米英戦争や領土の拡大によって、リパブリカン党の一部の議員がある程度の連邦制の容認が必要と感じるものもあらわれた。これにより、連邦容認派と州権主義派に分裂した。連邦容認派は国民民主党(ナショナル=リパブリカン党)になり、州権主義派は民主共和党(デモクラティック=リパブリカン党)になった。

民主共和党 モンロー大統領

モンロー大統領とは

 モンロー大統領は、19世紀初頭の敏腕外交官であった。1716年の大統領選挙で処理した。

モンロー主義と中南米諸国の独立

 20年、スペインで立憲革命が発生した。フランス革命やスペイン立憲革命をうけて、ラテンアメリカへ移住した白人たちが本国に対して独立運動を展開した。

 本来であれば、圧倒的な軍事力で本国(スペイン)が簡単に鎮圧できるはずである。しかし、そうはいかなかった。イギリスのカニング外交である。イギリスは、自国の工業製品をラテンアメリカに売り込むためにラテンアメリカの独立を支援した。

 そのような中、モンロー大統領はモンロー教書を議会へ提出した。新大陸(南北アメリカ大陸)とヨーロッパで相互不干渉とする外交スタンスである。具体的には新大陸のヨーロッパ植民にアメリカは侵攻しない。しかし、新大陸の独立国へのヨーロッパへの侵攻に対しては反撃を行うというものである。

ミズーリ協定

 20年代、イギリスの産業革命によって、綿花の需要がかなり高まっていた。その供給基地はアメリカ南部であった。南部の農家は黒人奴隷を使って綿花を生産していた。

 一方で、中米ハイチの独立(1804年)で世界的に奴隷制撤廃運動が盛んになった。1807年にイギリスは奴隷貿易を禁止した。

 アメリカにも奴隷制廃止の動きはあった。アメリカ22州のうち、11州が奴隷制度を禁止した。奴隷制を禁止していない州を自由州と呼び、奴隷制を容認している州は奴隷州と呼んだ。

 20年、ミズーリ州が人口が6万人になり州へ昇格することになった。モンロー大統領はミズーリ州で奴隷制を禁止しようとした。これに南部の議員が反発。

 議会とモンロー大統領は協議の結果がミズーリ協定である。その内容は以下のとおりである。

  • ミズーリ州では奴隷制を認める。
  • かわりにメイン州を独立させ自由州と奴隷州の数を同数にする。
  • 今後、北部には奴隷州を作ることを禁止する

 この協定は、50年のカリフォルニア州の成立まで有効とされた。 

コメント

  1. […] ①メキシコがスペインから独立→1821年②ボストン茶会事件→1773年③トルコマンチャーイ条約→1828年⓸神聖同盟(ウィーン議定書)→1815年 […]

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