1890年代のアメリカ 米西戦争とマッキンリー大統領

1890年代、清王朝(中国)が日清戦争に敗北。ここから中国分割が始まった。

アメリカは、この時期に帝国主義へ進出した。そのきっかけはフロンティアの消滅がある。帝国主義に向かう第一戦が米西戦争であった。

中国分割の出遅れ

 95年、清王朝が日清戦争に敗北。ここから中国分割が始まった。列強各国は、資金提供(借款)の見返りに一定地域の経済的優先権を手に入れた。これを勢力圏という。具体的には鉄道敷設権や鉱山採掘権がこれに当たる。この時期、アメリカは米西戦争を行っていたため、これに参加することはできなかった。

 98年、アメリカが米西戦争に勝利すると、ジョン=ヘイは門戸開放宣言を出した。門戸開放宣言は3つの原則から構成されていた。門戸開放(清王朝との自由貿易)と機会均等(関税等の交易条件を平等にする。)、領土保全(租借地の清王朝への返還)である。しかし、他の国々はこの宣言を黙殺した。

 しかし、第一次世界大戦後の20年代のワシントン会議で、これをみとめさせ九か国条約が締結された。 

米西戦争

 キューバはカリブ海に浮かぶ島国である。16世紀の大航海時代にスペインの植民地となった。黒人奴隷による大規模農園(プランテーション)が主な産業である。主に砂糖やタバコが作られた。19世紀末、キューバ産農産物の主な輸出先はヨーロッパからアメリカに代わっていた。その取引相手はアメリカの財閥である。

 中米、キューバでスペインからの独立運動が始まった。共和党マッキンリー大統領はこれを支援した。米西戦争の始まりである。

 アメリカは、スペインに勝利した。中米キューバはスペインから独立した。アメリカはこれを保護国とした。アメリカはスペインからグアム(太平洋)とフィリピン(東南アジア)を獲得した。

 この時期、アメリカはハワイ王国を併合した。

 米西戦争によって、アメリカは中国分割に参加することはできなかった。

なぜ帝国主義政策へ向ったのか

 工業製品の生産高でイギリスを抜く。ロックフェラー、カーネギー、モルガンなどの独占資本が形成された。

 1890年代の国勢調査で、「フロンティアの消滅」が宣言された。フロンティアとは、未開と文明の境といわれている。フロンティアの消滅によって、開拓可能な土地は亡くなったといわれている。また、この時期、インディアンによる組織的な帝国も亡くなった。

 彼らは、新たな市場を求めた。それは、ラテン=アメリカと東アジア(清王朝)であった。

 一方で、独占資本の解消の動きも出た。シャーマン反トラスト法である。シャーマン反トラスト法とは、独占や取引の制限に景況を与える結合や共謀(契約)に制裁を与えるものである。

黒人差別問題

 60年代の南北戦争で黒人奴隷が解放された。解放された奴隷は投票権を獲得。政治面での平等を得た。

 90年代、南部から連邦軍が撤退が進むと、州法で黒人の投票権の制限をつけたり、公共施設を人種でわけるなどの黒人差別が行われるようになった。

 この問題は、1950年代から1960年代の公民権運動につながる。

 

共和党マッキンリー大統領

 マッキンリー大統領は、96年の大統領選挙に勝利した。00年の大統領選挙で再選を果たしたものの翌01年に暗殺。Th=ローズヴェルト大統領に引き継がれた。

 マッキンリー大統領は、帝国主義政策を進めるとともに、金本位制を導入するなどのデフレ政策を進めた。

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