1850年代のカジャール朝イラン クリミア戦争の裏側で

1850年代、日本はペリー来航で江戸幕府が大きく揺らいだ。しかし、世界全体の関心事は、これではない。クリミア戦争である。当時の2大帝国、イギリスVSロシアが最高潮に達した瞬間である。

ロシア、クリミア戦争に敗北

原因、フランス皇帝ナポレオン3世がイェルサルムの管理権を要求

 オスマン帝国内にあるイェルサレムの管理権はフランス革命以後、ロシアが行っていた。しかし、ナポレオン3世がフランス皇帝に就任するとオスマン帝国イェルサレムの管理権の返還を求めた。オスマン帝国はこれを許可した。これにロシア帝国は怒り、クリミア戦争が勃発した。

 当時、ロシアは、オスマン帝国犬猿の仲であった。その要因は黒海と地中海を結ぶダーダネルス=ボスフォラス海峡の航行権であった。

展開、イギリスはフランス・オスマン帝国側で参戦

53年、クリミア戦争勃発

54年、イギリス、フランス・オスマン帝国側で参戦。

54年、統一に向けて動いていたイタリア(サルディーニャ)、フランス・オスマン帝国側で参戦

しかし、フランス側が優勢であったが補給路の確保に苦戦。戦争は長期化した。

余談だが、ナイチンゲールが活躍したのがこの戦争であり、ロシアの文豪トルストイもこの戦争に参加している。

56年、パリ条約で終結

55年、ロシアの劣勢を見ると、オーストリア・ドイツ(プロイセン)がフランス側で参戦。ロシアは敗北した。

56年、パリ条約を締結。41年のロンドン条約(ダーダネルス=ボスフォラス海峡の閉鎖と黒海の中立化)。これにより、ロシアは、黒海・地中海ルートをあきらめ、日本海ルート、中央アジア進出を積極的に進めることになる。

アフガンをめぐり イギリス=ペルシア戦争へ

 50年代はナーセロッディーン皇帝の時代である。ハーブ教徒の反乱を鎮圧したナーセロッディーン皇帝は、アフガンへの侵攻を模索していた。これに対しアフガン王国は、55年イギリス(インド)と軍事同盟を締結した。

56年、カジャール朝ペルシアは、アフガンへ侵攻。イギリスとの戦争が始まった。

57年、フランス皇帝ナポレオン3世の仲介で終戦カジャール朝ペルシアはアフガンから撤兵した。

イギリス インド大反乱で直接統治へ

 57年のイギリスは、クリミア戦争、イギリス=ペルシア戦争の勝利に沸いていた。当時のインドは、ムガル帝国であったが、このころになると一地方政権と化していた。そのような中で力を持っていたのがイギリス東インド会社であった。もともと商社であったが、中国・インドの貿易独占権を失い、インドからの税収が主要な財源となっていた。

 そのような中、イギリス東インド会社の傭兵が反乱。この反乱はインド全体に広まった。ムガル帝国皇帝もこの反乱を支持した。

ロシアの国内情勢クリミア戦争の最中アレクサンドル2世が即位

  ロシアは、ニコライ1世の治世であった。48年の革命期にオーストリアポーランドの革命を鎮圧。国際的発言力は高まっていた。このパワーを利用して53年クリミア戦争に踏み切った。
 クリミア戦争の敗戦が濃厚になる55年にニコライ1世が死去。アレクサンドル2世が即位。クリミア戦争で敗戦すると、アロー戦争で弱った清王朝と交渉。60年の北京条約でウラジオストークを獲得。日本海への進出を果たした。

イギリスの国内情勢ヴィクトリア女王の全盛期

  イギリスは、ヴィクトリア女王の全盛期である。その象徴は51年のロンドン万国博覧会である。
 55年パーマストン自由党内閣が成立すると、大英帝国の建国にいそしんだ。56年クリミア戦争(対ロシア)、56年アロー戦争(対中国)、56年、イギリス=ペルシア戦争、57年インド大反乱、58年日英通商修好条約、60年英仏通商条約などの実績がある。

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