70年代の日本
5つの派閥 三角大福中
70年代は、派閥政治の全盛期である。その要因は72年の角福戦争である。
- 田中派 現在の第3派閥の竹下派
- 福田派 現在の第1派閥の細田派
- 大平派 現在の第5派閥の岸田派
- 三木派 大平派から離脱した麻生派と合流し
現在の第2派閥の麻生派 - 中曽根派 現在の第4派閥の二階派
自民党には、主流派と反主流派という言葉がある。主流派は総裁を支持する派閥で、反主流派は総裁をしない派閥である。この頃には自民党が野党になることは想像できない時代のため、反主流派が事実上の野党ということになった。
中ソ対立
70年代は、国際情勢が大きく変わった。中ソ対立が激化。世界は、アメリカ、ソ連と中国の3つ巴の状態になった。 この時代に、日本と中国との関係が急速に改善。日中国交正常化が実現した。
オイルショックと赤字国債
70年代、日本は高度成長期から安定成長期に入った。自民党は、不況の脱却のために赤字国債を大量に発行。財政は悪化。このころから、財政再建と消費税導入の議論が始まる。
あー、うー、大平首相
大平首相と大平派
大平首相は、日露戦争後の1910年、香川県に生まれた。経済的に苦しく大学へ進学することはできなかった。当時は、昭和恐慌の最中、就職に苦労した。33年に一橋大学に入学。36年に大蔵省(現在の財務所)に入省した。終戦後も、大蔵省で働いた。このとき、大蔵大臣の池田氏の秘書官を務めた。
52年、池田氏の支援で初当選。池田派に所属した。60年に池田内閣が発足すると官房長官に就任。その後、外相も務めた。しかし、64年に佐藤政権が成立すると、入閣もするも重要ポストに就くことはなかった。日米繊維交渉が失敗になると閣僚を終われた。72年、池田派のトップに立った。
現在の岸田派
池田派は、大蔵官僚を中心に発足した。そのため、温和な人が多いため「公家集団」と揶揄されることが多い。政策では、日米関係を重視するもハト派(平和主義者)が多い。
80年代に入ると、宮澤喜一氏と田中六助氏の後継者争いが起きた。これは田中六助氏の死去と田中六助氏を裏で支えた田中角栄元首相の死去で宮澤派が成立した。
90年代に入ると、当時の総裁である河野総裁とYKKの加藤氏が対立。河野氏は池田派と離脱。これがのちの麻生派になる。
00年代初頭には、加藤の乱がおこる。加藤についた谷垣派と加藤と対立した堀内派に分裂した。この2つの派閥は08年、反麻生で再び合流。現在の岸田派につながる。
世論を味方に密約を破る福田首相
福田首相は、高い支持率を確保した。そのため、福田首相は大福密約を無視。78年総裁選への出馬を表明した。しかし、田中派が大平首相支持に回り、大平氏が福田首相を破り首相になった。
新冷戦
この時代は、世界情勢の転換期であった。イラン革命で第二次石油危機が発生。また、ソ連のアフガニスタン侵攻で新冷戦が勃発した。
大平首相は、同盟国と初めて表現。福田前首相の全方位外交から外交方針を転換。日米関係重視の外交政策を進めた。また、モスクワオリンピックのボイコットを決めたのも大平首相である。
元号法の制定
大平首相は、元号法を制定。日本国憲法施行で法的根拠を失った昭和という元号に法的根拠を与えた。平成や令和の元号はこの法律に基づいて使用されている。
消費税と財政再建
75年から赤字国債の発行が常態化した。大蔵省出身の大平首相はこれを問題視した。そのため、財政再建のために消費税の導入を発表した。
当時は、ロッキード事件の真っただ中。国民は反発した。79年衆院選で自民党は過半数割れの大敗となった。
四十日抗争
79年衆院選の敗北。福田前首相らの反主流派は大平首相の退陣を要求。大平首相はこれを拒否した。主流派は両院総会を行おうとしたが、反主流派がバリケードを作りこれを阻止した。ハマコーこと浜田幸一が叫びながらバリケードを壊している映像はこの時のものである。
結局、自民党は候補者を一本化できないまま、首班指名選挙に突入。反主流派は福田前首相に投票。かろうじで大平首相の再選が決まった。
この時の勢力図は次のとおりである。
- 主流派 大平派、田中派、新自由クラブ
- 非主流派 福田派、三木派、中川グループ
中曽根派は、当初、非主流派であった。しかし、一部の議員が渡辺氏などが主流派に回った。
ハプニング解散
翌80年、予算成立後の5月、日本社会党は内閣不信任案を提出。非主流派の議員が欠席したため、内閣不信任案が可決した。
この時、中曽根派は主流派に回った。これが82年の中曽根政権につながる。
大平首相は、6月に衆参同日選挙を行うことを決めた。
急死と衆院選に勝利
大平首相は、この選挙中に急死。同情票が集まり、自民党は大勝した。
非主流派は、この選挙結果から総裁を出すことはできなかった。田中派も、ロッキード事件の関係から首相を出すことができない。そのため、大平派の鈴木が総裁になった。
福田首相
群馬出身の大蔵官僚
福田首相は、日露戦争時の1905年に群馬県で生まれた。東京帝国大学(現在の東京大学)を卒業し、大蔵省に入省した。
52年、大蔵官僚でありながら無所属で出馬。初当選を果たす。翌53年に自由党に入党。岸派に所属。59年の岸内閣で幹事長に就任する。
現在の細田派へ
福田派の政策は、再軍備を進めるタカ派。外交面では親米で、反共主義である。
84年、同じタカ派の石原慎太郎らの中川グループを吸収。
85年に、田中元首相が脳梗塞で倒れると、主流派に返り咲く。
91年総裁選。三塚氏が出馬。亀井氏らが竹下派の推す宮沢派に就いた。
98年総裁選。小泉氏が出馬。亀井氏らは梶山氏を支持。亀井氏らは福田派を離脱。その後、現在の二階派(旧中曽根派)に合流した。
01年小泉政権が成立。最大派閥になり、現在の細田派につながる。
大福密約
76年衆院選の敗北で、三木首相は退陣。ロッキード事件で田中派も出馬ができない状況にあった。福田氏は、大平氏と2年後に首相の座を渡すと密約を結んだといわれている。これが大福密約である。
国会は衆院選で大敗しているので保革伯仲の状況であった。首班指名選挙もわずか1票差で勝利した。
低支持率でスタート
三木おろしの流れから低支持率でスタート。しかし、77年の参院選に勝利。これをきっかけに大福密約破りを検討するようになる。
また、巨人の王選手が世界記録を達成。福田首相は国民栄誉賞を創設し、王選手に授与した。
また、保守派として、元号法の成立に尽力した。
景気回復
年換算7%の経済成長を達成。福田首相はますます自信を得た。
外交
日航機ハイジャック事件が発生。超法規的措置で囚人らを釈放。テロリストに屈したとして国際的に批判を浴びた。
アジア各国にODAを実施。この資金はNIEsにつながった。
中国の鄧小平副総理が訪日。日中平和友好条約を締結した。鄧小平氏は経済重視の親日派といわれた。
三木首相
クリーンな三木派
日露戦争直後の07年に徳島県に生まれる。明治大学卒業。戦前の昭和12年に初当選。
麻生派に吸収される
三木派は、中道政党の国民共同党を基盤とした。そのため、自民党の中では、左派的性格が強い派閥であった。
三木派は、自民党結成後の56年に成立。少数派閥でありながら、キャスティングボードを握ることで発言力を高めた。
64年総裁選。河野一郎氏(現在の二階派)を支持する松村派と佐藤栄作氏(現在の竹下派)を支持する三木派に分裂した。
78年総裁選には河本氏が出馬。79年の四十日抗争では福田氏とともに反主流派として参加した。89年総裁選で自派の海部氏が首相に。93年衆院選(小沢グループが自民党を離党した選挙)で、一部の議員が離党し、新党さきがけを結成した。翌94年、海部氏らが自社政権に反対して離党。17年5月、宏池会から離脱した麻生派に合流。三木派の歴史は終わった。
バルカン政治家
74年10月、文春砲が炸裂。週刊文春が田中首相の金脈スキャンダルと報じた。
田中首相の後継には、三木氏のほか、大平氏(現在の岸田派)と福田氏(現在の細田派)が名乗りを上げた。田中氏は、大平氏を後継に考えていた。しかし、大平氏が首相になると、第2派閥の福田派を敵に回すことになる。そのため、折衷案として三木首相が決定した。
三木首相が幹事長に指名したのが中曽根氏(現在の二階派)である。
景気対策と赤字国債の発行
三木首相が就任した76年は、オイルショックによる狂乱物価の時代であった。三木首相は独占禁止法を改正。違法なカルテルを禁止し、物価高騰を抑えようとした。
この三木首相の経済対策を支えたのが福田氏である。
ロッキード事件と三木おろし
三木首相に最初に課せられた仕事は、自民党の信頼回復である。三木首相は、公職選挙法や政治資金規正法を改正。クリーンな政治を目指した。
河野洋平氏の新自由クラブ
76年中曽根派の河野洋平氏は、自民党を離党。新自由クラブを結成した。
衆院選で大敗
田中首相
田中角栄氏とは
田中氏は、第一次世界大戦中の1918年に新潟県に生まれた。小学校を卒業後、建築関連の仕事をしていた。40年代に建築会社を設立した。実業家として成功した。
47年に初当選。57年の岸内閣で初入閣。郵政大臣に就任。マスコミとの関係を深めた。62年に大蔵大臣(現在の財務大臣)に就任。最初はエリート官僚に馬鹿にされていたが、実業家の経験で人心を掌
握していく。65年に自民党幹事長に就任した。
現在の竹下派へ
田中氏は、74年の金脈スキャンダルで退陣。その後、ロッキード事件で首相に返り咲くことはできなかった。それでも最大派閥を利用して、キングメーカーであり続けた。
83年、ロッキード事件で有罪判決。85年に脳梗塞で倒れる。この時、竹下氏がクーデターを起こして竹下派を結成。竹下首相が誕生する。
93年、小沢氏ら若手議員が自民党を離党。直後の衆院選で自民党は野党になる。95年、与党に返り咲く。橋本首相と小渕首相が誕生する。そして、現在、現在第3派閥の竹下派になる。
田中派の結成
72年総裁選。佐藤首相は福田氏を後継に考えていた。
72年05月、佐藤派議員を大量に引き抜き、田中派を結成した。
角福戦争
72年7月の総裁選には、中曽根派を除くすべての派閥が出馬した。中曽根派は田中派と福田派の間で争奪戦になった。結果、中曽根派は田中派に回った。この結果、田中首相が誕生した。
三木氏は、一部の議員が福田派に寝返ったことで最下位になった。そのため、三木派は決選投票で田中派に回った。
田中首相は、大正生まれで初めての首相になった。
国民は、エリート官僚の福田首相を、たたき上げの田中氏が勝利したことで大いに歓迎した。
日中共同宣言
70年代、中国はソ連と対立。これにより、日本などの西側諸国との国交回復の道が見え始めた。
72年、田中首相が訪中。日中共同宣言を発表。日中国交正常化交渉が始まった。
なお、この時に石原慎太郎氏らは、日中国交正常化に反対。中川グループを発足させた。
日本列島改造論
田中氏は、総裁選直前の72年6月に日本列島改造論を発売。交通もを整備して地方を活性化する政策を掲げた。
田中首相が総裁になると、地方の不動産価格が上昇した。
オイルショック
74年参院選
74年7月、景気悪化の中で参院背が行われた。自民党は過半数をかろうじて維持。多くの議席を減らした。ここから保革伯仲国会が始まる。
田中首相は、三木派のおひざ元の徳島県に自派の後藤田氏を出馬。三木派の現職議員を非公認にした。この事件をきっかけに三木氏は、福田氏とともに内閣から離脱した。
金券スキャンダルで退陣
74年10月、週刊文春が田中首相の金脈スキャンダルを報じる。翌11月、田中首相は退陣した。
佐藤首相
四選
70年総裁選。佐藤首相は福田氏への禅譲を考えていた。しかし、反福田派が画策
74年、ノーベル平和賞を受賞。
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