16世紀前半の国際情勢
中国は、明王朝の時代である。日本では、室町幕府の権威が薄れ、戦国の世に代わった。勘合貿易も中国地方の主力大名である大内氏が行うようになった。室町幕府の衰退や明王朝の過度な鎖国政策(海禁政策)によって、福建省などで密貿易や海賊行為が横行するようになった。これを後期倭寇という。
一方、東南アジアでは、スペインやポルトガルが進出してきた。大航海時代である。
士林派と勲旧派
この時期の朝鮮王朝は、2つの政治グループの対立で構成された。士林派と勲旧派である。
士林派は、科挙で合格した新興の官僚。中小の地方の貴族(両班)が多い。科挙の影響で、儒学(朱子学)にかなり精通している。
一方、勲旧派は、朝鮮の建国などで功績のあった貴族(両班)たちである。中央の有力貴族が中心である。
中宗から宣祖へ
中宗は、士林派を利用して腐敗した宮中の改革を断行しようとした。44年、高齢を理由に息子の仁宗に禅譲した。中宗は禅譲後まもなく亡くなった。
仁宗は、父である中宗の意思を引き継ぎ宮中改革を行おうとした。しかし、病弱であり1年もたたずに亡くなった。
仁宗が亡くなると、仁宗の弟である明宗が即位した。明宗は幼かったため、母方の一族(外戚)が実権を握った。
67年、仁祖の甥である宣祖が朝鮮国王に即位した。宣祖は士林派政権が樹立した。
中宗の時代
中宗とは
中宗は、06年の勲旧派のクーデターで即位した。中宗は燕山君時代に冷遇された士林派を次々登用し、宮中の改革を次々進めた。
士林派の弾圧(士禍)
しかし、士林派の台頭を快く思わないものもいた。ライバル勢力の勲旧派である。勲旧派は、士林派の粛清を繰り返しおこなった。これを士禍(しか)という。
三浦の乱
中宗の時代は、異民族の侵入に苦しんだ。10年には朝鮮南部に日本人が侵攻。これを三浦(さんぽ)の乱という。
一方、北方では何度も女真族が侵攻した。
燕山君の贅沢
では、前国王の燕山君はどのような方であったのだろうか。
94年、第10代国王である燕山君が即位した。前国王の成宗の長男である。即位時は、女真族の侵入に備えて城を築くなどの善政を行った。
しかし、しばらくすると燕山君は贅沢を行うようになった。これをいさめるものは次々と粛清された。ただ、この贅沢は、良い面もあった。宮中音楽がこの時期に大きく発展した。
しかし、この贅沢は長くは続かなかった。06年、勲旧派のクーデターで燕山君は廃位。弟の中宗が即位した。