前回の復習 8世紀のドイツ
8世紀、フランク王国は、メロヴィング朝からカロリング朝に変わった。イスラム教徒の撃退、ピピンの寄進、アヴァール人の撃退によって、カロリング朝はローマ教皇の支持を獲得。800年にカール大帝の戴冠が行われた。
さて、今回は、メロヴィング朝時代のフランク王国とその周辺国の状況を見ていきます。
フランク王国
カロリング家の台頭
まず、7世紀のフランク王国の状況を見ていきましょう。ここでは、8世紀にカロリング家がなぜ台頭していくのかを見ていきます。
7世紀のフランク王国はメロヴィング朝の時代である。メロヴィング朝は分割相続の結果、いくつかの王家に分裂。これにより王様の権威は低下し、豪族たちの反乱も頻繁に起こっていた。
各国の王は、王の権威を復活させるために新たな地位を作った。これが宮宰(マヨル=ドムス)である。宮宰とは、日本でいう摂政・関白に当たる役職で、王様の政治を補佐するNo2の存在である。
カロリング家は、フランク王国の有力豪族の一つであった。カール=マルテルの父であるピピン2世は、当初、1つの国の宮宰についた。その後、ほかの国の宮宰の地位も兼任し、各国の国王以上の権威を持つようになった。
メロヴィング朝の衰退
7世紀のフランク王国はおおむね、3つの地域に分裂していた。フランク王国北東部のアウストラシア、フランク王国南東部のブルグント、そしてフランク王国の西部のネウストリアである。この分裂は、9世紀のフランク王国分裂もこの3つの地域をベースに分割された。
クロタール2世の死後、それぞれの地域に国王が置かれた。しかし、いずれも幼少の皇帝で、実際の政治は宮宰を中心に各地の有力豪族が行うようになっていた。
クロタール2世の再興
6世紀のフランク王国は、4つの地域に分かれていた。北西部のネウストリア、南西部のアキテーヌ、北東部のアウストラシア、そして南東部のブルグントである。
7世紀初頭、ネウストリア(北西部)の国王であったクロタールは、アウストラシア(北東部)の有力豪族であったカロリング家のピピンと結んで、フランク王国の再統一を果たした。
クロタール2世は、ブルグンド(南東部)とアウストラシア(北東部)に関しては、宮宰を置いて自治を認めた。アウストラシア(北東部)の宮宰になったのが、カロリング家のピピンであった。
イスラム教の成立
イスラム教とウマイヤ朝
7世紀初頭に預言者ムハンマドによってイスラム教が成立した。イスラム教徒は独自の国を作り、領土を拡大していった。
ムハンマドの死後は、選挙によってトップ(カリフ)を選んだ。これが正統カリフ時代である。正統カリフ時代に、イランのササン朝を滅ぼし、ビザンツ帝国からシリアとエジプトを奪った。
7世紀半ば、4代目カリフが亡くなるとシリア提督であったウマイヤ家がカリフを世襲するようになる。ウマイヤ朝の成立である。ウマイヤ朝は。北アフリカなどの地中海地域へ進出していった。
ビザンツ帝国
ビザンツ帝国は、コンスタンチノーブル(現在のイスタンブール)を都とした東欧の大国である。6世紀のユスティアヌス帝の時代には、イタリアや北アフリカなど地中海の大部分を支配していた。
7世紀初頭になると、ビザンツ帝国は衰退期に入っていく。西からはイランのササン朝が侵攻。北からは、アジア系騎馬民族(ブルガール人やアヴァール人)やスラブ人がバルカン半島へ侵入していった。
7世紀半ばにイスラム勢力が台頭すると、穀倉地帯であったエジプトやシリアを奪われた。これにより財政逼迫した。また、首都コンスタンチノーブルは何度もウマイヤ朝によって包囲された。
7世紀のヨーロッパ
イタリアとランゴバルド王国
ここから、フランク王国以外のヨーロッパの状況を見ていきましょう。まずは、西欧の中心イタリアである。6世紀のユスティアヌス帝の時代にイタリアは、ビザンツ帝国の支配下にあった。イタリア半島東岸のラヴェンナに総督を置いた。
6世紀後半に、ゲルマン民族のランゴバルド族がビザンツ帝国から独立。ビザンツ帝国とランゴバルド王国の戦いが始まった。ランゴバルド族は、もともとキリスト教アリウス派を侵攻していたが、ローマ教会の支援を仰ぐため、ローマ教会と同じアタナシウス派への改宗を進めていった。
ビザンツ帝国とバルカン半島
次に東欧のビザンツ帝国を見ていきましょう。6世紀前半のユスティアヌス帝の時代にローマ帝国時代の領土をほぼ回復した。しかし、ユスティアヌス帝が亡くなるとその領土は急速にしゅくしょうした。
イタリアでは、ランゴバルド王国と領土争いが展開されていた。
一方、東では、イランのササン朝との戦いが激化した。
北方のバルカン半島では、東部ではセルビア人などの南スラブ人が侵入。西部ではアジア系騎馬民族のブルガリアやラテン系のルーマニアが建国していった。
そして、7世紀半ばになると、穀倉地帯のシリアやエジプトがイスラム勢力に奪われた。
サクソン人(ドイツ東部)
7世紀時点では、ドイツ東部はフランク王国ではなかった。この地域ではサクソン人が生活していた。国家を作ることはなかった。しかし、6世紀後半からフランク王国の侵攻を受けるようになると、共同して対抗するようになった。
サクソン人は、キリスト教を侵攻せず、森の精霊などの伝統的な神々を侵攻していた。
西ゴート王国(スペイン)
ラヴェンナは、イタリア西部の都市である。
5世紀初頭にミラノを捨てた西ローマ帝国が遷都したのがラヴェンナである。この地は、東ローマ帝国の都コンスタンチノーブルに近い。ローマ帝国滅亡後もイタリアの中心都市であり続けた。6世紀にユスティアヌス帝が地中海再統一した際も、イタリア総督はローマではなくラヴェンナに置かれた。
宮宰であったピピンは、メロヴィング朝の国王を追放。自らフランク国王についた。51年のことである。54年に、ローマ教皇がピピンの国王就任を承認。これに応じる形で、56年にピピンの寄進が行われた。