14世紀の日本(南北朝時代) 鎌倉幕府の滅亡と太平記の世界

14世紀は、鎌倉末期と南北朝の時代である。太平記(ちなみに書かれたのは15世紀初頭)の舞台もこの時代である。

武士の困窮が鎌倉幕府を滅ぼす


 当時の武士は、困窮していた。モンゴル撃退に伴う戦費の負担と分割相続による収入の減少である。
 武士の不平をみて、京都の後醍醐天皇は、再び鎌倉幕府の追討令を出した。そして、新田義貞足利尊氏ら鎌倉武士が参加し、鎌倉幕府は滅亡した。

公家優遇策で南北朝に分裂

 後醍醐天皇は、公家(京都の貴族)向けの政治を行い、武士を軽視した。京都側についた武士は反発した。そのリーダー格になったのが足利尊氏である。足利尊氏は、後醍醐天皇を京都から追放し、新しい天皇を建て、室町幕府を樹立した。(北朝)。一方で、後醍醐天皇は、奈良の吉野に逃れて南朝を建てた。これが南北朝の動乱である。南北朝の動乱はそれぞれの武家の相続争いが絡んだため、長期化した。室町幕府は、有力武士を味方につけるため守護の権限を強化した。

東シナ海では海賊活動(倭寇)

 一方で、困窮した武士の中には海賊になるものもいた。彼らは、東シナ海を中心に活動し、倭寇(わこう)とよばれた。当時の東アジアはモンゴルの衰退期で、中国では明が成立し、朝鮮では李氏朝鮮が成立した。

足利義満が南北朝を統一

 14世紀末、三代将軍足利義満は、南朝と平和的に合一した。李氏朝鮮が成立した年と同じである。

 15世紀に入ると、明王朝の永楽帝と国交を正常化。倭寇の取り締まりと朝貢を約束した。当時の明王朝は、北京の永楽帝と江南の建文帝が争っていた。靖難の役である。

 朝貢とは、皇帝に貢物を送り、代わりに貢物の数倍程度の返礼品を受け取ることである。皇帝は長江を受けることで自らの権威を内外に示した。一方で、朝貢を行うものは、莫大の富を得るとともに国内に権威を示すことができた。足利義満はこの朝貢によって将軍の権威を高めた。

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