ウィーン体制(19世紀前半)

(前史)ナポレオン

 18世紀末のフランス革命で、ブルボン朝が終焉。フランスは共和制へ移行。19世紀初頭に、ナポレオン皇帝が登場。ナポレオン戦争が始まった。

 今回の話は、ナポレオン終結後のウィーン会議から始まる。この時代の特徴は、フランス革命以前の絶対王政の時代を守りたいグループとフランス革命を経て誕生した立憲君主制や共和政へ移行したいグループとの戦いの時代である。

ウィーン会議

正統主義

 ナポレオン戦争が終結すると講和会議が開催された。議長は、オーストリアのメッテルニヒ首相である。

 この講和の前提条件は、ナポレオン戦争前の状況への復帰である。これは正統主義と呼ばれた。これを提唱したのがフランスのタレーラン首相である。

19世紀前半の勢力図

 イギリスは、オランダから海外植民地(南アフリカとスリランカ)を獲得した。

 ロシアのアレキサンドル1世は、復活したポーランドの国王を兼任した。

 神聖ローマ帝国が崩壊したドイツは、ライン同盟からドイツ連邦に変わった。オーストリアが盟主になり、プロイセンも参加した。なお、プロイセンも領土を拡大した。

 オーストリアは、北イタリアを再獲得した。

 オランダは、海外植民地をイギリスに引き渡した見返りにフランスからベルギーを獲得した。

 フランスとスペインではブルボン朝が復活。イタリアではローマ教皇領が復活した。

ナショナリズム

 フランス革命とナポレオン戦争で、自由主義とナショナリズム(国民主義)が形成された。しかし、ウィーン体制ではこれを否定した。19世紀前半は、自由主義とナショナリズムを求める市民革命の時代であった。

四国同盟と神聖同盟

 ナポレオン戦争によって、イギリスロシアの二大強国が誕生した。ロシア皇帝アレキサンドル1世は、神聖同盟を提唱。ヨーロッパのほとんどの国が参加した。現在でいう国際連合のようなものであった。これとは別に、四大国であるイギリス、ロシア、オーストリアとプロイセンで四国同盟が成立した。その後、フランスが参加し、五国同盟になった。

七月革命 in フランス

20年代の市民革命

 ウィーン体制が成立すると、各地で立憲君主制を求める蜂起がおこった。

ドイツ学生組合
(ブルシェンシャフト)
スペイン立憲革命ウィーン会議で復活したスペイン=ブルボン家が立憲君主制を認める。
イタリアカルボナリ
ロシアデカブリストの乱25年12月、ニコライ1世の即位時に起きた青年将校の反乱

イギリス vs オーストリア

 20年代、ヨーロッパ各地で市民革命(反ウィーン体制)が勃発した。さらに海外でも、市民革命が勃発していた。

 ラテンアメリカ(中南米)では、ハイチの独立やスペイン立憲革命をうけて、多くの国で独立運動が展開された。

 市民革命の裏側では、ウィーン体制を維持したい勢力と市民革命を促進したい勢力が争っていた。ウィーン体制を維持したい勢力の中心は、オーストリアの宰相メッテルニヒ首相であった。一方、市民革命を促進したい勢力の中心は、イギリスカニング首相であった。

七月革命

 フランスは、ウィーン体制でブルボン朝が復活した(復古王政)。20年代のフランスは、多くの戦争が行われていた。スペイン立憲革命、ギリシャ独立戦争である。

 内政では、シャルル10世が反動政治を行った。フランス革命で没落した貴族や聖職者を重視した政治が行われた。

 30年、シャルル10世は、国民の不満をそらすためにアルジェリアへ侵攻した。アルジェリアを統治していたオスマン帝国は、ギリシャ戦争の敗北で衰退していた。制限選挙で反政府側が勝利。シャルル10世はこれに反発し議会を解散した。

 パリ市民はこれに抗議して、革命が勃発した。これが七月革命である。シャルル10世は亡命した。

七月王政

 七月王政のあと、ルイ=フィリップを国王に迎え七月王政が始まった。政治の中心は制限選挙で選挙権を持っていた少数の大商人であった。主に銀行関係者が多かった。

七月革命後のヨーロッパ

 ベルギーがオランダから独立した。ベルギーはウィーン体制でフランス領からオランダ領に移っていた。

 このほかに、ポーランド・ドイツイタリアでも独立運動が起こったがいずれもロシアやオーストリアによって鎮圧された。

イギリスの選挙法改正

トーリ党

 フランス革命時以降、トーリ党(旧王党派)政権が続いた。

労働者問題

 イギリスでは、フランス革命の惨劇を見て労働者保護の考えが出てきた。

 24年に労働組合の結成が認められた。

アイルランドとカトリック

 イギリスでは、イギリス国教会を信仰していた。そのため、カトリック教徒は差別されていた。アイルランドはカトリック教徒が多いため、差別意識が強い。

 28年、審査法を廃止。カトリック教徒の官僚になれるようになった。翌29年、オコンネルらアイルランド人の活動によってカトリック教徒解放法が成立した。

チャーチスト運動

 19世紀初頭のイギリス議会は、地主層が中心であった。これは都市と農村で一票の格差があったためである。

 32年、トーリ党の分裂でホイッグ党政権が成立。一票の格差を是正するとともに、産業資本家(工場経営者)に選挙権を与えた。これにより、ホイッグ党は産業資本家の支持を集めた。

 30年代後半、都市労働者を中心に男子普通選挙を求める運動が起こった。これがチャーチスト運動である。彼らは人民憲章を掲げて戦った。しかし、この運動は直ちに成果を上げることはなかった。

自由貿易政策

 ナポレオン戦争期、大陸封鎖令で農産物価格が高くなった。これにより、都市の人々はインフレに苦しんだが、地主層は大きな利益を上げた。

 しかし、ナポレオンが失脚すると、安い大陸の農産物が流入。農産物価格が暴落した。地主中心の議会は、国内の農業を守るため、穀物法を制定した。

 30年代の第1回選挙法改正で多くの産業資本家が参政権を獲得すると自由貿易をする政策へ転換された。

 40年代、自由貿易を阻害する穀物法や航海法は廃止された。

瀕死の病人 オスマン帝国

ギリシャ独立戦争

 21年、ギリシャで独立運動が起こる。オーストリアはオスマン帝国の救援を行おうとしたがほとんどの国がギリシャ支援に回った。ロシアは、ギリシャ独立をきっかけに地中海への進出(南下政策)を展開しようとしていた。そのため、積極的にギリシャを支援した。

 29年、オスマン帝国はギリシャの独立を承認した。

 フランスは、オスマン帝国が衰退するや否や、北アフリカのアルジェリア出兵を行った。 

エジプト=トルコ戦争

 30年代に入ると、ギリシャ独立戦争の報酬でオスマン帝国本国とオスマン帝国領エジプトで戦争が始まった。

 七月王政のフランスは、アルジェリア保護の観点からエジプトを支援した。

 オスマン帝国は、ロシアに援軍を求めた。その見返りに、黒海と地中海を結ぶダーダネルス=ボスフォラス海峡の自由航行権を与えた。

 この戦争はエジプトが勝利。40年のロンドン条約でエジプトの事実上の独立が認められた。さらに、ロシアが持っていたダーダネルス=ボスフォラス海峡の自由航行権は放棄させられた。

東方問題

 オスマン帝国の2連敗で、オスマン帝国内の諸民族が独立運動を展開した。その中心はバルカン半島であった。この19世紀から始まったバルカン半島をめぐる国際対立を東方問題という。

クリミア戦争へ

 ロシアは、ダーダネルス=ボスフォラス海峡の自由航行権の奪回を模索していた。これが50年代のクリミア戦争につながる。

社会主義

(前史)産業革命

 18世紀の産業革命によって、多くの都市労働者が登場した。当初の都市労働者は劣悪な労働環境で働いていた。19世紀に入るとこの労働問題を解決しようという動きが起こり始めた。

イギリス 工場法

 産業資本家のオーウェンは、労働者の待遇改善を唱え、労働組合結成に努力した。しかし、失敗した。

 30年代に入ると、工場法が制定。労働条件は次第に改善された。

フランス

 サン=シモンやフーリエが労働者階級を保護する社会秩序のじゅりつをめざした。彼らは、産業資本家から生産手段(工場など)を没収(国有化)し、平等な社会の実現を模索した。

 これは、ルイ=ブランに引き継がれた。48年革命後には、ルイ=ブランは新政府に参加した。

 また、プルードンは、無政府主義を唱えた。

ドイツ

 マルクスとエンゲルスは、48年革命の差最中に『共産党宣言』を発表。マルクス主義を展開した。

48年革命

背景

 40年代後半、ヨーロッパは凶作に見舞われた。イギリスのジャガイモ飢饉はその一つである。これにより、多くの人々は苦しい生活を余儀なくされた。これが48年革命の原動力になった。

二月革命 in フランス

二月革命

 パリでは、農産物価格の高騰で産業資本家や都市労働者の生活が困窮した。その怒りは、政治の中心にいた大商人に向かった。

 48年、パリで二月革命が勃発。ルイ=フィリップは亡命した。

社会主義者 vs 産業資本家

 二月革命が終わると、臨時政府が樹立された。ここには、社会主義者のルイ=ブランも参加した。

 4月の総選挙では、穏健共和派が勝利した。その中心は産業資本家であった。パリ市内は、都市労働者が多かった。しかし、農村部では、フランス革命で土地を獲得した自営農民が多かった。彼らは、土地を国有化されるの恐れ穏健共和派を支持した。

 パリの労働者は、蜂起した。(6月蜂起)。しかし、この蜂起は鎮圧された。

ナポレオン3世

 パリ市内で、労働者と資本家争っていた。そのような中、48年12月大統領選挙が行われた。これに勝利したのが、ナポレオン3世である。

 彼は、農村部で多くの支持を集めた。そのため、ナポレオンは安価なフランス産農産物を販売するため、自由貿易政策を進めた。そのため、イギリスとの関係は非常に良好であった。

 ナポレオン3世は、51年にクーデターで独裁権を握り、52年には皇帝になった。(第二帝政)

プロイセンとオーストリア

 話を、48年に戻す。フランスで二月革命が起こると、ウィーン(オーストリア)とベルリン(プロイセン)で三月革命が勃発した。ウィーンでは、メッテルニヒが亡命。ベルリンでは、国王が譲歩し、自由主義内閣が成立した。

 オーストリアが三月革命で混乱すると、各地で独立運動が置かった。北イタリア、ハンガリー、チェコ(ベーメン)などである。これらは、ロシアの支援を受けて鎮圧された。これら一連の独立運動を『諸国民の春』という。

 一方、48年、ドイツ統一のためにフランクフルト国民議会が招集された。49年、諸国民の春で混乱するオーストリアを排除して、プロイセンを中心とした連邦国家を建国することを得継した。

 ただ、プロイセンでは反動政治が始まった。自由主義内閣が退陣。フランクフルト国民議会の提案も拒否した。50年には欽定憲法を制定した。この憲法が大日本帝国憲法の見本になる憲法である。

 ドイツやイタリアは、三月革命や諸国民の春で19世紀半ばに混乱。19世紀後半から始まる帝国主義時代への参入が遅れを取ることになった。

意義

 48年革命は、西欧(イギリス、フランス)では自由を求める政治改革であった。しかし、東欧(イタリア、ドイツ)では、民族自立が目標になっていた。

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