6世紀のエジプト
6世紀のエジプトは、東ローマ帝国(ビザンツ帝国)の属州であった。6世紀前半のユスティアヌス帝の時代に全盛期を迎えた。
今回は、前半で東ローマ帝国について、後半ではこの時代のエジプトの宗教について見ていきます。
カルケドン公会議
カルケドン公会議
カルケドン公会議は、51年秋に開催された第5回目のキリスト教の公会議である。この会議で単性説が異端とされた。
公会議のテーマとは
4世紀から5世紀にかけての公会議のテーマは、イエス=キリストの本性とは何かがテーマであった。
現在、正統とされる三位一体説(アタナシウス派)では、イエス=キリストは3つの位格(ペルソナ)を持つとされている。人格と神格と精霊である。
4世紀初頭のニケーア公会議では、イエス=キリストは神か人かが争われた。この会議で、イエス=キリストを人とするアリウス派が異端になった。ちなみにアリウスはアレキサンドリア教会の長老であった。その後、アリウス派は、ゲルマン民族に対して布教を行った。
4世紀後半のコンスタンチノーブル公会議では、三位一体説の協議が確立した。
31年のエフィソス会議では、ネストリウス派が異端とされた。ネストリウスは、コンスタンチノーブル教会の大司教である。神格と人格をしっかり区別すべきとする考えである。異端とされた後は、サーサーン朝で布教を行った。その後、ネストリウス派は、唐王朝に伝わり景教と呼ばれた。
単性説
単性説は、アレキサンドリア教会の大司教が唱えた説で、イエス=キリストは神であり、人ではないとする説である。
この説は、カルケドン公会議で異端とされても、エジプトやエチオピアなどで信仰が続けられた。6世紀には、ユスティアヌス帝の弾圧があり、7世紀にはイスラム教の弾圧もあった。しかし、現在でもエジプトの一部やエチオピアでは単性説が信仰されている。
ローマ教会が招集を依頼
このカルケドン公会議は、ローマ教会の大司教レオ1世がビザンツ皇帝の依頼して開催したものである。
当時のレオ1世は命の危機にさらされていた。アジア系騎馬民族であるフン族のアッティラ大王が信仰していたのである。この年の夏、ゲルマン民族と西ローマ帝国連合軍がフン族に勝利して一息ついた頃であった。
レオ1世は、カルケドン会議を成功させ自信を持った。翌年、フン族がローマへ侵攻するもこれを撃退した。レオ1世は、ローマ教皇と呼ばれるようになった。
エジプトのキリスト教
コプト教会
当時、エジプトの人々はコプトと呼ばれていた。そのため、アレキサンドリア教会はコプト教会と呼ぶことになる。
カルケドン公会議で、大司教の単性説が異端とされた。それでも、エジプトの人々は大司教の単性説を信仰した。
現在、エジプトの約10%の人々はコプト教を信仰している。また、エチオピアもコプト教を信仰している。
五本山
4世紀末にキリスト教が国教化されると、ローマ帝国はキリスト教の組織を利用して統治を行うようになった。このキリスト教の行政区分が五本山制度である。
五本山は、ローマ教会、コンスタンチノーブル教会(東欧、小アジア)、アンティオキア教会(シリア)、イェルサレム教会(パレスチナ)とアレキサンドリア教会(エジプト)である。この5つの教会のトップは、大司教と呼ばれた。
7世紀にイスラム教が成立すると、アンティオキア教会、イェルサレム教会、アレキサンドリア教会は衰退。8世紀の偶像崇拝論争で、ローマ教会とコンスタンチノーブル教会の関係はあった。ローマ教会を中心としたローマ=カトリックとコンスタンを中心とした東方正教会に分裂する。
(前史)4世紀末のキリスト教
ローマ帝国では、キリスト教は禁止されていた。しかし、4世紀初頭のミラノ勅令でキリスト教の信仰が容認された。そして、4世紀末にキリスト教は国教化され、それ以外の宗教は禁止された。
東ローマ帝国
概要
ローマは、紀元前1世紀に共和政から帝政へ移行した。ここから、ローマ帝国と呼ばれるようになる。ローマ帝国は、ヨーロッパの大部分だけでなく、バルカン半島、オリエントの東半分、北アフリカまで支配した。
エジプトは、紀元前1世紀に共和政ローマの属州になっていた。