10世紀のイタリア オットー1世のイタリア遠征

前回の復習 11世紀のイタリア

 11世紀は、ローマ教皇と神聖ローマ皇帝の関係が悪化した時代であった。その象徴がカノッサの屈辱である。この原因は叙任権闘争にあった。

 今回は、叙任権闘争の原因になった。帝国教会政策を見ていきます。

オットー1世のイタリア遠征

神聖ローマ皇帝 オットー1世

 オットー1世は、36年にドイツ国王に即位。55年にマジャール人を撃退。62年にローマ教皇の戴冠を受ける。

帝国教会政策

 10世紀のザクセン朝のドイツ国王は大きな権力はまだない。バイエルンなどの有力諸侯を従わせるのは一苦労であった。

 皇帝オットー1世は、皇帝の権威を高めるために使ったのがローマ=カトリックである。皇帝オットー1世は、教会へ寄進する代わりに、帝国内の教会人事権(叙任権)を獲得していった。寄進によって、教会は豊かになる一方で、腐敗が進んだ。

 これがフランス(西フランク王国)で始まる修道院運動のきっかけになった。

イタリアの分裂

 オットー1世の戴冠により、神聖ローマ帝国が成立。イタリア王を兼務するようになった。しかし、神聖ローマ帝国の範囲はイタリア北東部(ロンバルディア地方)に限られていた。

 ロンバルディア地方は、旧ランゴバルド王国の支配地域である。

 中部イタリアは、教皇領として独立を維持。南部は、ナポリ王国などが存続した。

 12世紀にロンバルディア同盟が結成されると、神聖ローマ帝国の影響は北イタリアにも及ばなくなり、イタリア王の地位は名ばかりのものになった。

戴冠式

 8世紀末、カール大帝の戴冠によって西ローマ帝国は復活するはずであった。しかし、フランク王国は9世紀に分裂。西ローマ皇帝の地位は空位になった。

 60年、イタリアの有力諸侯がローマへ侵攻。ローマ教皇ヨハネス12世は国王オットー1世に救援を要請。61年、オットー1世が有力諸侯を撃退。ローマに平和が訪れた。

 62年、教皇ヨハネス12世は、オットー1世の戴冠式を実施。オットー1世はローマ皇帝になった。

イタリア遠征

 50年、イタリアで王家が、有力諸侯の攻撃を受けた。ドイツ国王オットー1世はこの争いに介入。イタリア王室を救援した。この時、オットー1世はローマ教皇に皇帝地位を望んだ。ローマ教皇はこれを拒否した。

ローマ教皇 ヨハネス12世

 教皇ヨハネス12世は色欲におぼれた教皇であった。しかし、ローマ教皇の地位は維持された。問題は、北イタリアの荘園領主たちがローマ教皇従わないことにあった。教皇ヨハネス12世は、東フランク国王のオットー1世に支援を求めた。

 国王オットー1世は、北イタリアの秩序を回復。教皇ヨハネス12世は、戴冠式を実施。ローマ皇帝と認めた。

 戴冠式の後、教皇ヨハネス12世は、皇帝オットー1世を裏切る。これにより、教皇の地位を奪われることになった。

ザクセン朝

 ドイツは、東フランク王国の時代である。10世期初頭にカロリング朝が断絶。フランケン朝を挟んで、ザクセン朝が成立する。

 36年、オットー1世が国王に即位。55年にマジャール人を撃退する。

ファーティマ朝の侵攻

 02年、アッバース朝のアグラブ朝は、シチリア全土を占領した。

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