10世紀のエジプト ファーティマ朝の成立

11世紀のエジプト

 中世のエジプト。11世紀は、シーア派のファーティマ朝の時代。セルジューク朝の登場で時代に勢力を縮小させていった。

 今回は、ファーティマ朝が成立した10世紀のエジプトを見ていきます。

カイロの建設

アズハル学院

 70年、カイロにアズハル=モスクを建設。さらに72年、アズハル=モスク付属の大学(マドラス)が建設された。これがアズハル学院である。

 ファーティマ朝は、アズハル学院でシーア派の教理の研究を行い、シーア派の宗教指導者の育成を行おうとした。しかし、エジプトのシーア派への移行は思うように進まなかった。そして、13世紀のマムルーク朝の時代には、シーア派の研究からスンニ派の研究に移行した。

 アズハル学院は、世界最古の大学といえる。11世紀、セルジューク朝はこれに対抗してニザーミヤ学院を建設。また、同じ11世紀に南イタリアでは医学の大学であるサレルノの大学が建設される。

カイロの建設

 ファーティマ朝は、エジプトを征服すると、69年に新首都の建設を始めた。

 それまで、エジプトの中心地は、紀元前4世紀にアレキサンダー大王が建設したアレキサンドリアであった。アレキサンドリアは、マケドニア、プトレマイオス朝エジプト、ローマ帝国と長きにわたりエジプトの中心地であった。また、キリスト教五本山の一つアレキサンドリア教会もあった。

 ファーティマ朝は、69年に新首都カイロを建設。70年には、アズハル=モスクを建設。72年にはアズハル学院を建設した。

エジプト征服

 46年に、バグダード(イラク)にシーア派のブワイフ朝が入る。これにより、シーア派の勢いがついた。そして、69年、ファーティマ朝は、アッバース朝からエジプトを獲得。新首都カイロへ遷都した。

ファーティマ朝の成立

シーア派の時代

 10世紀はシーア派の時代といえる。この時期2つのシーア派王朝が誕生した。1つは、ファーティマ朝。そしてもう一つがイランのブワイフ朝である。

 ブワイフ朝は、32年に建国されたシーア派イラン人による軍事政権である。46年にバグダードに入城。

 スンニ派のアッバース朝から大アミールの称号を得る。アミールとは将軍を意味する言葉で、政治と軍事のトップを意味した。そのため、各地の王はアミールの称号を用いた。一方、アッバース朝は、大アミールの成功をブワイフ朝に渡すことで、政治的権力を失い、宗教的な権威のみを保持することになった。

3カリフ時代

 イスラム朝の王は、アッバース朝のカリフの存在を否定せずアミール(将軍)という称号を使っていた。

 しかし、ファーティマ朝は、アッバース朝のカリフを否定。自らカリフを名のった。

 29年、スペインの後ウマイヤ朝もアミールではなく、カリフの称号を用いるようになる。そのため、10世紀から13世紀を3カリフ時代と呼ぶ。

過激なシーア派

 ファーティマ朝は、09年に北アフリカのチュニジアで建国した。

 その中心人物は、アブドッラーである。ファーティマ朝は、当初は新興宗教団体であった。アブドッラーは、暗殺された第4代カリフのカリフの子孫と称した。そのため、アッバース朝のカリフを否定。私こそが真のカリフであると主張した。

 イスラム教は、大きくスンナ派とシーア派に分かれる。多くのイスラム教徒が信仰するのがスンナ派で、シーア派は少数派である。スンナ派は、教団が示したカリフをスンナり認めた人々で、カリフが誰かよりも慣行を重視した。一方、シーア派は、教団の考えに否定的で、暗殺された第4代カリフであるアリーの子孫をたててスンナ派に抵抗した人々である。

 シーア派は、どこまでを正統カリフとするかでさらに派閥が合湧かれた。一番の主流派は、十二イマーム派である。これは現在のイランの国教である。ブワイフ朝も十二イマーム派である。一方で、ファーティマ朝はイスマイール派を主張した。これ以外にザイド場×がが