前回の復習 紀元前3世紀のイタリア
古代ローマは、共和政ローマとローマ帝国の時代である。ローマ帝国の歴史は次のような流れになる。
- 4世紀 専制君主制の時代
- 3世紀 軍人皇帝の混乱期
- 2世紀 五賢帝の全盛期
- 1世紀 初期の帝政とネロ帝
- 紀元前1世紀 カエサルと三頭政治の時代
- 紀元前2世紀 領土拡大と格差問題
- 紀元前3世紀 半島統一戦争とポエニ戦争
紀元前3世紀、軍事面では、イタリア半島を統一。ポエニ戦争が始まった時代である。イタリアの諸都市を支配することで都市の分割統治が始まる。また、ポエニ戦争では、属州が成立。ラティフンディアが始まった。
内政面では、ホルテンシウス法の成立で平民と貴族の対立が集結した。
紀元前4世紀のオリエント
半島統一戦争
サムニウム戦争
半島統一戦争は、紀元前4世紀半ばから紀元前3世紀半ばにかけて共和政ローマがイタリア半島を統一してくせいんそうである。この戦争により、共和政ローマは都市国家からイタリア半島を治める領域国家になった。
サムニウム戦争は、半島統一戦争の1つである。紀元前4世紀半ばから紀元前3世紀初頭にかけて行われたラテン同盟とサムニウム人の戦争である。共和政ローマはイタリア中部を統一した。
ラテン同盟は、都市国家をローマを盟主としたイタリア半島を中西部のラテン人都市国家の集まりである。
サムニウム人はイタリア中部の山岳地帯に住む民族である。牧畜で生計をたて、勇猛な戦士が多い。そのため、イタリア中西部のラテン人はサムニウム人を恐れていた。
サムニウム戦争は、3回行われている。
1回目は、43年から41年に行われた。このとき、サムニウム人が分裂したために、ローマの勝利に終わった。共和政ローマはこれにより、ラテン同盟の盟主的存在になった。
2回目は、26年から04年まで続いた。共和政ローマは苦戦が続いたが、辛くも勝利。これにより、共和政ローマはアドリア海沿岸(イタリア東部)まで領土が拡大した。
3回目は、紀元前3世紀初頭に実施。サムニウム人は、周辺民族を味方につけて反ラテン同盟を結成。共和政ローマはこの戦争に勝利。中部イタリアを統一した。
アッピア街道
アッピア街道は、ローマと南イタリアのタレンティウムを結ぶ石畳の道路である。すべての道はローマに通ずの語源はこのアッピア街道である。
タレンティウムは、南イタリア最大の都市で、ギリシャの植民市であった。
この建設が始まったのは、第2次サムニウム戦争の最中の12年である。共和政ローマは、この石畳の道に馬が引く戦車を走らせ機動力を高めた。これが第2次サムニウム戦争の勝利に繋がった。
ラテン同盟戦争
第1次サムニウム戦争が集結すると、共和政ローマはラテン同盟の盟主的存在になった。しかし、これを快く思わない都市国家もあった。それらのラテン同盟の都市がローマに挑んだ戦争がラテン同盟戦争である。
第1次サムニウム戦争が講和した翌年の40年に始まる。38年に共和政ローマの勝利で終結した。
共和政ローマはラテン同盟を解散。各都市と個別に同盟関係を締結した。その際に、都市国家を3つのランクに分けて同盟を締結した。これを分割統治という。
貴族vs平民
身分闘争
身分闘争とは、紀元前5世紀から3世紀にかけて、共和政ローマの平民が参政権を獲得していく一連の流れをいう。
ローマの人々は、市民と奴隷で構成された。市民は、貴族(パトリキ)と平民(プレブス)に分けれられた。
貴族と平民は、家柄で決まっていた。政治は貴族のみで行われていた。
平民が大統領(執政官)に
67年、リキニウス・セクスティウス法が成立した。その内容は以下の3つである。
- コンスル(執政官)の1人を平民から選出する。
- 農地に保有制限を与える。
- 借金の減免
コンスル(執政官)とは
コンスルとは、現代で言うと大統領に当たる役職である。共和政ローマは、国王のいない国である。国王に代わる役職として設置されたのがコンスル(執政官)である。
執政官は、議会に当たる民会の議決で決定される。任期を1年にし、2名置くことで独裁を防止した。
原因)異民族の侵入
紀元前4世紀初頭、共和政ローマに多くの異民族が侵入。エルトリア人やケルト人などである。ケルト人の侵入の際には多額の賠償金を支払った。
貴族たちは、これに危機感を感じ、平民の参政権を拡大した。さらに、借金の減免や土地所有制限で貴族と平民の経済格差の是正に努めた。
影響)第1次サムニウム戦争に勝利
リキニウス・セクスティウス法の効果は、すぐ現れた。第1次サムニウム戦争の勝利である。この戦争に勝利。ラテン同盟の盟主的存在になった。その後、共和政ローマは地中海沿岸に広がる大国へ成長していく。
影響)新貴族の誕生
コンスルに選ばれる平民は、当然戦場で活躍した人になる。そのため、自前に軍備を整えられる富裕層に限られるようになった。結果、コンスルは少数の富裕層が持ち回りするようになった。彼らは新貴族(ノビレス)と呼ばれれるようになった。
シチリア島と哲学者プラトン
その頃、南イタリアはギリシャの植民市が多数存在した。シチリア島のシラクサもその1つであった。シラクサでは、政治顧問として哲学者のプラトンが度々訪れた。
プラトンは、紀元前4世紀前半のギリシャの哲学者である。師は、紀元前5世紀後半に活躍したソクラテスである。弟子には、4世紀後半に活躍したアリストテレスがいる。アリストテレスは、アレキサンダー大王の可提供であったことでも有名である。