紀元前3世紀のイタリア 半島統一戦争とポエニ戦争

前回の復習 紀元前2世紀のイタリア

 古代ローマは、共和政ローマとローマ帝国の時代である。ローマ帝国の歴史は次のような流れになる。

  • 4世紀 専制君主制の時代
  • 3世紀 軍人皇帝の混乱期
  • 2世紀 五賢帝の全盛期
  • 1世紀 初期の帝政とネロ帝
  • 紀元前1世紀 カエサルと三頭政治の時代
  • 紀元前2世紀 領土拡大と格差問題

 紀元前2世紀、共和政ローマは地中海沿岸に領土を拡大。北アフリカやギリシャが属州になった時代である。

 一方で、領土の拡大に伴って、格差も拡大した。グラッスス兄弟やマリウスなどが格差是正に努めた時代でもあった。

第二次ポエニ戦争 vsハンニバル

第二次ポエニ戦争

 ポエニ戦争は、紀元前3世紀半ばから紀元前2世紀半ばにかけて、共和政ローマと北アフリカのカルタゴの戦争である。第2回は、18年〜01年まで続いた。スペイン(ヒスパニア)をめぐる戦争である。

 この戦いでは、ハンニバル将軍やスキピオ将軍が登場している。

カルタゴとハンニバル

 カルタゴは、現在のチュニジアを中心に北アフリカを治めた国である。もともとはフェニキア人の植民市から始まった。

 フェニキア人は、もともとシリア(東地中海)に拠点おいたセム語系の民族である。地中海交易で栄え、ギリシャ人と争った。

 41年、第1次ポエニ戦争に敗北。共和政ローマにシチリアを奪われる。その後、将軍になったのがハンニバルである。

 ハンニバル、第1次ポエニ戦争中の41年に生まれた。父は、第1次ポエニ戦争で活躍した将軍であった。ハンニバルは、首都のカルタゴではなく、スペインで生まれている。

アルプス越え

 カルタゴは、18年シチリア奪還のために共和政ローマへ侵攻した。その司令官がハンニバルである。ハンニバルは、奇襲作戦を立てた。通常であれば、カルタゴから、南イタリアのシチリアを進行するのが簡単である。

 しかし、ハンニバルは、過酷なアルプスを越えて北イタリアを侵攻。北イタリアとカルタゴ(北アフリカ)から挟み撃ちにした。

 ハンニバルの奇襲作戦は成功。北イタリアを征服した。

外交戦

 ハンニバルは、戦争に勝つだけでなく外交戦も展開していた。紀州お成功を生かして、ローマ以外の諸都市がカルタゴ側につくことをきたした。しかし、これはうまく行かなかった。

 居和製ローマのファビウス将軍は、持久戦でカルタゴ軍の疲弊をまとうとした。しかし、元老院がこれに反発。ファビウス将軍は解任。新しい司令官を立ててハンニバルを侵攻した。これがカンネーの戦いである。共和政ローマはカンネーの戦いに敗北。

 余談だが、ファビウス将軍は、その後グズの象徴として使われることが多くなった。ゆっくりと社会主義を目指すとして、19世紀後半に設立されたイギリスの社会主義団体は、ファビウス将軍の名を取ってフェビアン協会と名付けられた。

マケドニア

 16年、カンネーの戦いにハンニバル将軍(カルタゴ)が勝利。カルタゴが優勢との情報が近隣諸国に伝わった。これにより、2つの国がカルタゴ側についた。マケドニアとシラクサである。

 マケドニアは、バルカン半島にある国である。アレキサンダー大王の後継国であるヘレニズム3国の1つアンディコノス朝の時代である。

 シラクサは、シチリア島にあるギリシャの植民市である。

 一方共和政ローマは、新司令官スキピオを任命した。スキピオは雑魚キャラから戦争を開始した。

 最初は、シラクサである。シチリア島を征服。ちなみにこの戦いで数学者アルキメデスが戦死している。

 次にマケドニアへ侵攻。第1次マケドニア戦争である。カンネーの戦い直後は劣勢であったが、ギリシャ(アカイア同盟)が反乱。マケドニアは戦争を継続できなくなり、和平を結んだ。

 次に攻めたのは、植民地のヒスパニアではなく、カルタゴである。カルタゴは敗北。

属州スペイン(ヒスパニア)

 第2次ポエニ戦争に勝利した共和政ローマは。カルタゴからスペイン(ヒスパニア)を獲得した。スペインは、共和政ローマの属州になった。

 スペインは、紀元前1000年頃からフェニキア人との交易が行われていたとされている。紀元前900年頃からケルト人が侵入した。スペインでは銀などの鉱物資源を輸出していた。

 第1次ポエニ戦争では傭兵としてカルタゴ軍で参戦した。カルタゴは、第1次ポエニ戦争に敗北するとスペインの経営に力を入れるようになる。ハンニバルが生まれたのもこの地である。

 ローマの属州になったあとも、原住民のイベリア人の抵抗は続いたが、紀元前1世紀の反乱をポンペイウスが鎮圧すると大きな反乱はなくなった。そして、ローマ化が進んだ。2世紀の五賢帝時代になると、トラヤヌスやハドリアヌスなどの皇帝を輩出した。

ハンニバルのその後

 敗戦したハンニバルは、ファニキア人の拠点シリアへ亡命した。当時のシリアは、ヘレニズム3国のセレウコス朝の時代。当時のシリアは、隣国エジプト(プトレマイオス朝)と領土争いを行っていた。ハンニバルは、シリア(セレウコス朝)とマケドニア(アンディコノス朝)を同盟。第2次マケドニア戦争を起こした。

第1次ポエニ戦争

第1次ポエニ戦争

 第1次ポエニ戦争とは、64年に始まった共和政ローマとカルタゴ(北アフリカ)の戦争である。その戦争の目的は、シチリア島を巡る領土争いであった。

 41年、共和政ローマは、カルタゴ(北アフリカ)に勝利。シチリア島を獲得した。

シチリア島

 シチリア島は、イタリア半島の南にある島である。

 紀元前10世紀ごろから、イタリア半島から移住が始まった。この民族はシリク人と呼ばれた。

 紀元前8世紀になると地中海交易が活発化。ギリシャ人やフェニキア人の植民市が形成された。その最大の植民市がギリシャ人植民市のシラクサであった。

きっかけ

 きっかけは、カルタゴ(北アフリカ)のシラクサ(シチリア島)侵攻であった。フェニキア人のカルタゴとギリシャ人のシラクサは西地中海の覇権をめぐり常に争っていた。

 シラクサは、南イタリアを征服した共和政ローマに援軍を要請した。共和政ローマはこの援軍要請に受け、カルタゴに侵攻した。これが第1次ポエニ戦争の始まりである。

その後のシチリア島

 第1次シチリア戦争に勝利すると、シチリア島はシラクサと共和政ローマが分割統治をした。紀元前3世紀末の第2次ポエニ戦争でシラクサはカルタゴ陣営で参戦。シラクサは敗北。共和政ローマはシチリア島全土を属州にした。

その後のカルタゴ

 一方、第1次シチリア戦争に敗北したカルタゴはスペイン(ヒスパニア)の経営を重視するようになった。

北イタリア

 共和政ローマがカルタゴに勝利すると、北イタリアも共和政ローマの支配下に入った。

属州

 シチリア島は、ローマの属州となった。属州は、「十分の一」税が課された。その徴収のため、元老院から総督(今で言う知事)が派遣された。総督の下には地方官僚とも言える徴税請負人が追随した。彼らは、税金を水増しし、一部を着服。私腹を肥やした。

新貴族(ノビレス)の登場

身分闘争と3つの身分

 共和政ローマの人々は3つの身分に分かれていた。貴族(パトリキ)と平民(プレプス)、奴隷である。

 貴族とは、建国時(紀元前6世紀末)の主要メンバーの子孫たちである。能力や資産に関係なく家柄で決まっていた。

 建国当初は、議会(元老院)や大統領(執政官)は貴族しかなれなかった。しかし、平民は参政権を求め続けた。これが身分闘争である。87年のホルテンシウス法の成立で、平民と貴族は政治面で平等になった。これにより身分闘争の時代は終わった。

ホルテンシウス法と議会

 では、ホルテンシウス法とは何でしょうか。法律を平民会のみでけっていできるようにしたことである。

 議会は、平民による平民会と貴族による元老院の2つがあった。法律を制定するには、平民会と元老院の2つの議会で承認されなえればならなかった。ホルテンシウス法の成立で元老院の議決が不要になった。

 では、なぜホルテンシウス法が成立したのであろうか。当時の共和政ローマは半島統一戦争の真っ只中にあった。平民たちは、兵隊としてしばしば戦場に向かった。軍備も自前のため多くの負担を強いられた。そのため、平民の生活は徐々に困窮した。

 そのような中、戦争で得た土地の分配が貴族に優位に分配された。平民はこれに反発。平民の不満を和らげるために制定されたのがホルテンシウス法であった。

新貴族(ノビレス)

 新貴族とは、平民の上層部で、貴族と同じくらいの権限を持つ平民である。身分闘争の結果、平民でも実力があれば政府の要職につくことができた。

 彼らは、戦争で戦果を上げて養殖に就いた。とくに総督(属州のトップ)は危険な任務のため新貴族がつくことが多かった。新貴族は総督になることで、属州で多くの富を獲得。更に経済力をつけた。

イタリア半島の統一

半島統一戦争とは

 半島統一戦争とは、紀元前4世紀から紀元前3世紀にかけて、共和政ローマがイタリア半島を統一する一連の戦争を言う。紀元前4世紀の共和政ローマは都市国家にすぎなかった。周辺の都市を併合。紀元前3世紀にイタリア半島全土を征服した。

 しかし、戦争は終わらなかった。半島統一戦争が終結すると、ぽエイ戦争へ突入していく。

イタリア南部への遠征 vsギリシャ

 90年、サムニウム戦争に勝利。中部イタリアを統一した。ちなみにホルテンシウス法が成立したのは84年である。

 共和政ローマは、南イタリアへの侵攻を開始した。当時の南イタリアは、ギリシャの植民市が支配していた。代表的な植民市は3つである。当時の中心都市は、タレンティウムであった。

  • ネアポリス 後のナポリ
  • タレンティウム スパルタが経営
  • シラクサ シチリア島、コリントが経営

 82年、共和政ローマは南イタリアのタレンティウムへ進軍。植民市の人々は本国のギリシャに援軍を求めた。80年、ギリシャとの戦争(ピュロス戦争)が始まる。

 共和政ローマは、カルタゴと同盟を結び応戦。75年にギリシャに勝利。72年、タレンティウムを征服した。

イタリア中部の統一 サムニウム戦争

 サムニウム戦争とは、4世紀後半から90年まで続いた。中部イタリアを巡る戦いである。ローマを中心としたラテン人とサムニウム人との戦いである。

 4世紀末、第2次サムニウム戦争に敗北したサムニウム人は、エルトリア人やガリア人などとともに反ラテン人同盟を結成。98年第3次サムニウム戦争が勃発した。

 90年、ローマはサムニウム戦争に勝利。以後、イタリア半島内に共和政ローマに逆らう民族はいなくなった。

イタリアの都市の3つの区分

 共和政ローマは、征服地を3つの区分に分類。互いにの都市が同盟を結んでローマに対して反乱を防いだ。

  • 植民市 自治権は与えなかったが、政治面も含めてすべての自由民にローマ市民権を与えた。最も待遇の良い支配。
  • 自治市 一部の市民に自治権と民法上の市民権を与えた。二番目に待遇の良い支配。
  • 同盟市 市民権も自治権も与えられない都市。