前回の復習 紀元前4世紀のイタリア
古代ローマは、共和政ローマとローマ帝国の時代である。紀元前4世紀初頭のローマは、1つの都市国家に過ぎなかった。この時代から半島統一戦争が始まる。
内政面では、平民が参政権を拡大していく時代であった。
紀元前5世紀のオリエント
平民vs貴族
身分闘争
身分闘争は、貴族(パトリキ)に独占されていた参政権を平民(プレブス)に拡大していく一連の闘争を指す。紀元前5世紀から紀元前3世紀まで続いた。
平民が貴族になれる方法
45年、カヌレイウス法が成立。貴族と平民の結婚が認められた。これにより、平民の上層部は、貴族の娘と結婚し貴族になることができるようになった。これにより、平民の有力者は貴族になり、政治家になった。
なお、十二表法では平民と貴族の結婚は認めないと記載されていたカヌレイウス方でこの条文が削除された。
十二表法
50年、十二表法が成立。それ以降、十二表法に基づいて裁判が行われるようになった。
では、それ以前の裁判はどのように行われていたのであろうか。貴族である神官が神のお告げを聴くことで裁判が行われた。
平民は、事実上の貴族(神官)の裁量で決まる裁判の改革を求めていた。元老院(貴族で構成される議会)はこれを受けて十二表法の制定を決定した。
この策定にあたり、元老院は、ギリシャで法律の研究をさせた。こうしてローマの慣習を明文化した。これが十二表法である。
聖山事件
身分闘争の始まりは、94年の聖山事件である。
当時、平民は度重なる戦争で困窮していた。当時の戦争は、市民(貴族と平民)が自前で武具を揃えて行った。その結果、兵役や武具の調達で困窮した。中には借金で奴隷(債務奴隷)に転落するものも少なくなかった。
平民は、ストライキを実施。ローマ近郊の丘に立てこもった。貴族(元老院)は根負け。平民の要求を飲んだ。その内容は以下の通りである。
- 借金の棒引き
- 債務奴隷の解放
- 護民官の設置である。
護民官とは、平民の選挙で選出される役職である。貴族のあらゆる政治に拒否権が与えられた。
貴族民主政
第1次サムニウム戦争が講和した翌年の40年に始まる。38年に共和政ローマの勝利で終結した。
共和政ローマはラテン同盟を解散。各都市と個別に同盟関係を締結した。その際に、都市国家を3つのランクに分けて同盟を締結した。これを分割統治という。
ギリシャの植民市 シラクサ
イタリアにあった植民市
カルタゴとフェニキア人
ペルシャ戦争へ
サミラスの海戦
身分闘争とは、紀元前5世紀から3世紀にかけて、共和政ローマの平民が参政権を獲得していく一連の流れをいう。
ローマの人々は、市民と奴隷で構成された。市民は、貴族(パトリキ)と平民(プレブス)に分けれられた。
貴族と平民は、家柄で決まっていた。政治は貴族のみで行われていた。
平民が大統領(執政官)に
67年、リキニウス・セクスティウス法が成立した。その内容は以下の3つである。
- コンスル(執政官)の1人を平民から選出する。
- 農地に保有制限を与える。
- 借金の減免
コンスル(執政官)とは
コンスルとは、現代で言うと大統領に当たる役職である。共和政ローマは、国王のいない国である。国王に代わる役職として設置されたのがコンスル(執政官)である。
執政官は、議会に当たる民会の議決で決定される。任期を1年にし、2名置くことで独裁を防止した。
原因)異民族の侵入
紀元前4世紀初頭、共和政ローマに多くの異民族が侵入。エルトリア人やケルト人などである。ケルト人の侵入の際には多額の賠償金を支払った。
貴族たちは、これに危機感を感じ、平民の参政権を拡大した。さらに、借金の減免や土地所有制限で貴族と平民の経済格差の是正に努めた。
影響)第1次サムニウム戦争に勝利
リキニウス・セクスティウス法の効果は、すぐ現れた。第1次サムニウム戦争の勝利である。この戦争に勝利。ラテン同盟の盟主的存在になった。その後、共和政ローマは地中海沿岸に広がる大国へ成長していく。
影響)新貴族の誕生
コンスルに選ばれる平民は、当然戦場で活躍した人になる。そのため、自前に軍備を整えられる富裕層に限られるようになった。結果、コンスルは少数の富裕層が持ち回りするようになった。彼らは新貴族(ノビレス)と呼ばれれるようになった。
シチリア島と哲学者プラトン
その頃、南イタリアはギリシャの植民市が多数存在した。シチリア島のシラクサもその1つであった。シラクサでは、政治顧問として哲学者のプラトンが度々訪れた。
プラトンは、紀元前4世紀前半のギリシャの哲学者である。師は、紀元前5世紀後半に活躍したソクラテスである。弟子には、4世紀後半に活躍したアリストテレスがいる。アリストテレスは、アレキサンダー大王の可提供であったことでも有名である。