前回の復習 1950年代のスペイン
1950年代、冷戦が激化。孤立するスペインに、アメリカが接近。アメリカ=スペイン相互防衛協定が締結される。
1940年代後半の国際情勢
45年8月、日本のポツダム宣言受諾で第二次世界大戦が集結。アメリカなどの戦勝国を中心に国際連合が結成された。
戦後は、社会主義政党が躍進した。イギリスではアトリー労働党政権が成立。フランス・イタリアでは共産党が躍進した。47年2月にチェコスロバキアのクーデターで社会主義政権が成立。これを機に
ポルトガルがNATOに加盟
NATO
NATO(北大西洋条約機構)とは、アメリカとヨーロッパの西側諸国で構成される軍事同盟である。ウクライナ問題やフィンランド・スウェーデンの加盟で話題になっている。NATOは49年に創設された。
そのきっかけは、48年のチェコスロバキアのクーデターである。このクーデターを受けてイギリス・フランスなど西ヨーロッパ5カ国で西ヨーロッパ条約機構が結成された。その後、ベルリン封鎖をきっかけにアメリカなどが参加。NATOになった。
ポルトガル、NATOに加盟
ポルトガルは、49年のNATO発足時に加盟している。
その背景には、アゾレス諸島がある。アゾレス諸島は、大西洋に浮かぶ諸島で、ポルトガル領である。この諸島は第二次世界大戦時にアメリカ・イギリス連合軍がアフリカに上陸する際に大いに役に立った拠点である。そのため、戦後もこの地を利用したく、ポルトガルを仲間に引き入れた。
これ以後も、イギリスとの関係は良好であった。59年にイギリスと中心としたEFTAに加盟している。
スペインはNATOに加盟せず
一方、スペインがNATOに加盟したのは、民主化後の82年である。表向きの理由は、フランコ独裁政権が国民投票で成立したためとされている。
ここからは個人的見解だが、本当の理由は別のところにあると考えている。それが19世紀末の米西戦争である。フランコ将軍が旧スペイン植民地(キューバやフィリピンなど)の奪還に動くのを警戒していたのではないでしょうか。
フランコ総統、国民投票で国家元首に
王位継承法
第二次世界大戦が集結。フランコ将軍も新体制の構築へ動き出した。
47年、国民投票で「王位継承法」を制定した。これにより、フランコ総統は以下の2つの権限を得た。
- 国王の代わりに国家元首を務めること
- 次期国王の指名権
なぜ、ブルボン家は復活しなかったのか?
スペインは戦前、ブルボン朝が続いていた。本来であればブルボン家を復活させればスペインは安定するはずであった。しかし、フランコ総統はそれをしなかった。それは何故であろうか。
前国王の息子が、社会主義政党に寛容であったからである。
フランコ総統は、社会主義政権をスペイン内戦で倒して、総統の地位についた。フランコ総統が一番嫌うことは、社会主義政権の復活である。そのため、フランコ総統は前国王の息子を国王に迎えることができなかった。
また、47年のヨーロッパの状況も問題であった。イギリスではアトリー労働党政権が成立。フランス・イタリアでは共産党が躍進した。社会主義政党が躍進する土壌が整っていた。
では、スペインで社会主義政権が成立しなかったのか。
ここで新たな疑問が登場した。なぜ、ヨーロッパ各地で共産党が躍進する中、スペインは社会主義政権がしなかったのであろうか。
フランスは、ナチスドイツに占領され、イタリアは、枢軸国側で参戦した。これらの地域では、共産党員を中心としたナチスドイツへの抵抗(レジスタンス)が展開されていた。しかし、スペインは、第2次世界対戦では中立の立場を取っていたのでレジスタンスが起きていない。そのため、共産党が躍進することはなかった。
王位継承法がなぜ必要になったのか。
では、フランコ総統はなぜ国民投票で王位継承法を成立させたのだろうか。
46年12月の国際連合の総会でスペインのフランコ政権に対する非難決議が行われたためである。フランコ総統は、第二次世界大戦では中立な立場を取っていたものの、親ナチスドイツの立場を取っていたからである。
ただ、参戦していたわけではないので、ドイツのように戦争責任を取ることができなかった。そのため、フランコ総統が独裁的であることで非難決議を通した。
フランコ総統は、国際連合の決議に基づいて国民投票を実施することで、国民の支持に基づく政権であることを証明。国際連合の非難決議は無効化された。