前回の復習 1860年代のスペイン
1860年代、スペイン9月革命が発生。スペイン=ブルボン家が2回めの停止。
今回は、スペイン九月革命の原因となった50年代のスペイン王室の失政を見ていきます。
1850年代の国際情勢
1850年代、日本は開国。隣国の清王朝は英仏連合軍にアロー戦争で敗北。インドでは、インド大反乱が起こる。
ヨーロッパは、ナポレオン3世の時代。英仏連合軍がクリミア戦争でロシアに勝利。
反イザベル2世派
カルリスタ戦争
スペインは、19世紀にわたって内線が続いていた。これがカルリスタ戦争である。カルリスタ戦争は、保守派の反乱である。
保守派の中心は、聖職者と農民である。また、バスクやカタルーニャの反中央政府派も保守を支持した。
3度に渡る戦争
カルリスタ戦争は、1833年から1876年にかけて3度にわたって行われた。
1回目は、33年に始まる。きっかけは、フィルディナント7世の後継者問題である。一時は、国土の3分の1を勢力下においたが、39年に降伏した。
2回目は、40年代後半のバルセロナでの反乱である。イザベル2世の結婚問題に発展した。
3回目は、70年代である。きっかけは、スペイン九月革命で成立した自由主義政権がイタリアから国王を迎えたことである。結果、国王はイタリアへ帰国。第一共和政が成立。
イザベル2世を支持したのは?
都市富裕者の台頭
イザベル2世は、保守派と戦うために味方を必要とした。そこで味方になったのが都市の富裕層(ブルジョワ)であった。
コロコロ変わる政治
都市富裕層は、次第に2つの派閥に分かれた。穏健派と進歩派である。穏健派は、現行憲法(37年憲法)の存続を容認。一方で進歩派は12年憲法の復活をを目指した。
50年代に入ると、イザベル2世は、政権をコロコロ変えた。弾圧された保守派は、政権を外された方と連携。最終的に、進歩派、穏健派、保守派の連立政権(自由主義連合)が成立した。
このような政治の混乱より、イザベル2世は国民の信頼を失い、スペイン9月革命につながる。
- 56年-63年 自由主義連合政府
(進歩派、穏健派、保守派の連立政権) - 54年-56年 進歩派政権
- 44年-54年 穏健派政権
保守派の弾圧による近代化
一方で、イザベル2世は、敵対勢力である保守派の弾圧を行った。
聖職者に対しては、十分の一税を廃止。教会財産の没収を行った。
封建領主に対しては、封建的領主制度の廃止を行った。
一方で、都市富裕層(ブルジョワ)のために、営業の自由を確立していった。
このようにして、保守派と王室の対立から、スペインは近代化した。
外交の失敗
イザベル2世の外交政策
イザベル2世の支持者は、都市富裕層(ブルジョワ)である。彼らの意向により、市場を求めて積極的な外交を展開した。
イギリスと対立
当時、ヨーロッパの中心はイギリスであった。しかし、スペインはイギリスとの関係は良くなかった。それは、40年代のイザベル2世の結婚にある。イザベル女王はフランス王室と関係の深い人と結婚。これにより、イギリスの反感を買った。
また、ラテンアメリカの紛争に介入することで、アメリカの反感を買った。アメリカは、その後60年代に南北戦争が勃発。国際政治から撤退。しかし、98年の米西戦争の遠因になる。
モロッコの開国
59年、セウタ(モロッコ内にあるスペイン領)で国境紛争が発生。スペインはモロッコへ出兵した。
61年、スペインが勝利。モロッコを開国不平等条約を締結した。
当時のモロッコは、17世紀後半に成立したアラウィー朝の時代である。アラウィー朝は、日本と同様に鎖国政策を取っていた。しかし、56年にイギリスと不平等条約を締結。開国した。61年にスペイン、63年にフランスともの不平等条約を締結した。
メキシコ出兵の失敗
60年代に入ると、ナポレオン3世のメキシコ出兵に参加。この失敗が、スペイン九月革命につながる。
ポルトガルで大改革
51年、軍人サルダーニャ公がクーデターで政権を掌握する。52年に憲法を改正。下院で直接選挙を導入。保守派の刷新党と急進派の歴史党の2大政党制が成立。これにより、ポルトガル政治は安定した。
一方、経済では、ブラジルの独立で植民地からの収入が激減。主要産業は、本国の農業になった。これらの農産物はイギリスに輸出されていた。その影響で内陸部の鉄道網が整備。内陸部の耕作地が大きく拡大した。