1890年代のスペイン 米西戦争で植民地を失う

前回の復習 1900年代のスペイン

 米西戦争の敗北で、スペイン国民は失望した。この動きは、共和政を求める動きにつながった。モロッコの独立運動やバルセロナの暴動はこの動きに拍車をかけた。

1890年代の国際情勢

 日本は、日清戦争に勝利し、大国の仲間入りをした。

 ヨーロッパは、大きな転換期を迎えていた。ドイツ帝国では宰相ビスマルクが引退。ヴィルヘルム2世の世界政策が始まる。フランスとロシアは露仏同盟を締結。

 90年代なかば、清王朝が日清戦争に敗北。中国分割が始まる。イギリスは南アフリカ戦争で苦戦。イギリス一強の時代に陰りが出た。

失った植民地

キューバ

 キューバは、カリブ海に浮かぶ島国である。フロリダ半島の南にある島である。

 19世紀後半には砂糖の一大生産地になる。世界の砂糖の25%がキューバ産であった。この砂糖は、現地生まれの白人(クリオーリョ)が経営する大規模農場で生産された。ここでは多くの黒人奴隷が使われた。そのため、奴隷制がなくなったのは遅く、86年のことになる。

 キューバは、米西戦争で独立を果たした。しかし、アメリカにプラット条項を押し付けられ、アメリカの保護国になった。

プエルトリコ

 プエルトリコも、カリブ海に浮かぶ島国である。

 プエルトリコの主要な産業は、砂糖の大規模農場経営である。

 プエルトリコは、米西戦争でアメリカ領に。現在もアメリカ領で、準州の扱いになったいる。

フィリピン

 フィリピンは東南アジアの島国である。米西戦争時、フィリピンは、スペインとの独立戦争の真っ只中であった。

 米西戦争後のパリ条約では、独立は認めず、アメリカ領となった。翌99年、アメリカ=フィリピン戦争が勃発した。アメリカはこれに勝利。フィリピンをアメリカ領にした。しかし、アメリカとフィリピンの間では独立に向けての交渉も並行して行われた。

 その背景には、アメリカ世論の問題があった。当時のアメリカは、海外植民地獲得に積極的な帝国主義派と海外植民地獲得に税金をかけるの反対する反帝国主義派で二分されていた。

グアム

 グアムは、世界有数のリゾートアイランドである。日本の真南に当たる太平洋のマリアナ諸島に含まれる。日本列島、伊豆諸島、小笠原諸島

 16世紀のマゼラン航海で発見。フィリピンと同様に植民地になる。

 米西戦争でアメリカ領になる。第二次世界大戦中に日本量になるも戦後、アメリカ領に。フィリピン独立の際にもアメリカに残留。州には昇格せず、現在もアメリカの委任と売り料である。

米西戦争

概要

 米西戦争は、98年4月に始まったスペインとアメリカの戦争である。アメリカは、この戦争に勝利し、アジア・太平洋地域へ進出。大国の仲間入りをした。一方、スペインはこの戦争でフィリピンなど多くの植民地を失った。 

アメリカは大国へ

 アメリカは、米西戦争に勝利。中南米諸国に強い影響力を持つようになった。

 フィリピンを獲得。アジアへの足がかりができた。翌99年には、中国分割を行うヨーロッパ諸国に門戸開放宣言を出している。00年の義和団事件の際には、8カ国連合軍に参加している。

スペインは衰退期へ

 スペインは、米西戦争で多くの植民地を失った。それとともに大国としてのプライドも失った。失望した知識人を中心に自己改革運動が行われた。彼らは『98年世代』と呼ばれた。

 この運動は、05年頃には下火になった。しかし、この運動は、共和政を求める動きや社会主義運動に結びついていった。

パリ条約

 98年12月、スペインとアメリカで講和条約が締結された。パリ条約である。

  • スペインはキューバの独立を承認する。
  • スペイン軍は、南北アメリカから撤兵。
  • スペインは、プエルトリコとグアムをアメリカに割譲
  • スペインは、フィリピンを2000万ドルでアメリカに売却

支援を得られなかったスペイン

 ヨーロッパは植民地の独立には否定的である。しかし、度の国もスペインに援軍を送ることはなかった。

 当時、イギリスは南アフリカでブーア戦争が展開。他国に介入する余裕はなかった。

 フランスは、ドイツ・ロシアとともに中国分割に夢中であった。

きっかけはキューバの独立運動

 キューバの主要産業は、砂糖生産である。これは、クリオーリョ(現地生まれの白人)の大規模農場で行われた。ここに資金を提供していたのがアメリカの資本家であった。

 クリオーリョたちはスペインから独立し、アメリカのように自分たちの政治を行おうとした。68年に独立戦争を行った。しかし、スペイン軍に鎮圧された。独立運動家は世界各地に亡命した。

 95年7月、共和国として独立を宣言。その中心はホセ=マルティであった。スペインは、キューバに軍隊を派遣。鎮圧へうごいた。

 ここで動いたのがアメリカのマッキンリー大統領である。アメリカはキューバにあるアメリカ資本の保全のために介入する世論が起こった。98年2月、キューバにあるアメリカの軍艦が爆破される事件が発生(メイン号事件)。98年4月、アメリカはスペインに宣戦布告。米西戦争が勃発した。

 キューバだけでなく、太平洋のグアム、東南アジアのフィリピンまで侵攻した。

背景はアメリカ帝国主義政策

 米西戦争の背景には、90年代に始まったアメリカ帝国主義制作がある。

 90年代、アメリカではフロンティアが消滅。工業生産力もアメリカを抜いて世界一になった。

 この頃、石油や鉄鋼などの重工業を中心とした第2次産業革命が勃発した。第2次産業革命は、巨大資本を必要とするため、財閥が形成された。ロックフェラーやカーネギー、モルガンがその例である。

 財閥は、アメリカの政治に大きな影響を与えた。海外市場を求め帝国主義政策を求めだした。これがアメリカの帝国主義制作である。

ポルトガルでは共和主義が台頭

共和主義が台頭

 ポルトガルでも、反王政を掲げる共和党が台頭してきた。特に都市部で支持を集めていた。

原因は弱腰外交

 なぜ、共和党の支持が拡大したのであろうか。

 この背景には、現政権の弱腰外交があった。ポルトガルは、当時、南アフリカの北のザンビア、マラウイとジンバブエに軍を駐屯。植民地化を進めようとしていた。

 これは、イギリスのアフリカ縦断政策とぶつかった。90年、イギリスはポルトガルに対して最後通牒で撤兵を要求。ポルトガルは渋々撤兵を行った。

 ポルトガル国民は、この撤兵に反発。大都市の中産階級を中心に反英暴動が起こった。これが共和党の台頭につながった。

なぜ、弱腰外交になったのか

 では、ポルトガルは撤兵の選択を行ったのであろうか。ポルトガルは、ドイツの支援を当てにしていた。当時のドイツはアフリカ南部のルワンダ、タンザニア(ともに東海岸)、ナミビア(西海岸)に進出していた。

 しかし、ドイツ宰相のビスマルクは、イギリスを敵に回すことを避け、ポルトガルを支援しなかった。