前回の復習 1840年代のスペイン
1840年代から1860年代のスペインは、イザベル2世の時代である。政権の中枢には都市の富裕層が努めた。これにより、スペインの近代化が急速に進んだ。
今回は、イザベル2世が即位することが決定した(第1次)カルリスタ戦争を見ていきます。
1830年代の国際情勢
19世紀前半のヨーロッパは、革命の時代である。その中心はフランスであった。30年にフランスでは七月革命が発生。貴族(荘園領主)中心の政権から都市富裕層による政権へ移行した。
カルリスタ戦争
概要
カルリスタ戦争とは、19世紀における3回のスペインの保守派による反乱である。
1回目は、33年に始まる。原因は、フィルディナント7世崩御による王位継承戦争である。
2回目は、46年に始まった。原因は、イザベル2世の結婚問題である。
3回目は、72年に始まった。原因は、スペイン九月革命で成立した新政府が外国人国王を擁立したからである。
ここでは、1回目のカルリスタ戦争を見る。
都市富裕層による政権が成立
カルリスタ戦争の原因は、王后の発言から始まる。フィルディナント7世の后は、王位継承ルールを無視して、娘のイザベル2世を女王に即位させ、自らが摂政となることにした。
摂政とは、幼いなどの理由で国王が政治を自ら実施することが難しい場合に変わりに国王の業務を行う役職である。
貴族や聖職者を敵に回すことになった。そのため、スペイン王室は、都市部の自由主義者の支援を仰いだ。
39年、第1次カルリスタ戦争が終結。イザベル2世陣営が勝利。自由主義派政権が政権がスペインにも成立した。
保守派の反乱
イザベル2世が即位すると、保守派は反発。ポルトガルに追放されていたカルロス5世を即位させる。国王が2人いる状態になった。
保守派には、貴族(荘園領主)や聖職者などが参加した。そのため、40年代に入ると、保守派の弾圧行うとともに、教会財産の没収(国有化)が行われた。
王位継承のルール
ヨーロッパの王位継承のルールとして、フランク王国のサリカ法典がある。
この法律では、女性国王や女系国王は認められない。
このサリカ法典は、フランク王国の継承国であるフランスやドイツの王位継承ルールに引き継がれた。
スペインでは、18世紀初頭のスペイン継承戦争でスペイン王位継承法が制定。女性国王や女系国王を否定した。
この法律は、18世紀後半、カルロス7世が破棄した。しかし、布告されることなく、ナポレオン戦争に突入した。
30年、国王フィルディナント7世は、イザベル2世が誕生すると、スペイン王位継承法を改正。布告するとともに、それまでの王位継承者である弟のカルロス5世をポルトガルへ追放した。
33年、国王フィルディナント7世が崩御。わずか3歳の娘であるイザベル2世が即位することになった。
地方の独立運動も激化
首都マドリードで反乱が激化すると、地方にも波及した。特に、独立志向の強いバスク地方やカタルーニャ地方(バルセロナ)は、保守派勢力と結びつき、独立運動を激化させた。
フィルディナント7世の崩御
フィルディナント7世
フィルディナント7世は、スペイン=ブルボン朝の国王で、ウィーン会議でスペイン=ブルボン朝が復活した際に国王になった。
ナポレオン戦争期に、制定された憲法を停止。絶対王政を行った。この結果、20年に立憲革命が発生する。
ポルトガルとカルロス5世
30年、王位継承ルールを変更すると、弟のカルロス5世を内戦中のポルトガルへ追放した。
31年、元ブラジル皇帝ペデロ4世がイギリスで挙兵するとイギリスとともにペデロ4正側で参戦した。
王位継承ルールの変更
スペイン国王フィルディナント7世は、子どもがなく弟のカルロス5世が次期国王になる予定であった。
20年代末になると病弱になり、政治は側近に任せるようになっていた。そのような中、29年に再婚した。相手は、両シチリア王国(南イタリア)の王女である。
翌30年、待望の子どもが生まれる。イザベル2世である。女性のため、王位継承権はなかった。しかし、王位継承法を改正。次期国王をイザベル2世とし、王位継承者であった弟のカルロス5世を内戦中のポルトガルへ追放した。
ポルトガル内戦に介入
フィルディナント7世の介入
32年、ポルトガル内戦が勃発。スペインは、イギリスとともに自由主義陣営で内戦に介入した。
ポルトガル内戦で自由主義派が勝利
20年、保守派はミゲル国王を擁立。保守派政権を成立させた。憲法(26年憲法)を停止し、絶対王政を復活させた。
ブラジル皇帝ペデロ4世は激怒。31年、息子ペデロ5世にブラジル皇帝を譲位。自らはイギリスへ向かった。
32年、ペデロ4世は、イギリスとスペインの支援を受けてポルトガルへ侵攻した。これがポルトガル内戦である。
33年、ペデロ4世ら自由主義は勢力が勝利。女王マリア2世が国王に復帰。ペデロ4世は摂政になった。自由主義派政権は26年憲法を復活。保守派を弾圧。保守派であった聖職者から教会財産を没収。これにより、ローマ教皇との関係は悪化した。