1970年代のシリア・パレスチナ 第四次中東戦争とレバノン内戦

1980年代前半シリア・パレスチナ

 1980年代前半、シリアとパレスチナはレバノン内戦の真っ只中にあります。

1970年代の国際情勢

 70年代の日本は、高度成長期から低成長期へ移行した時代である。大阪万博が終わると低成長期に向かった。田中角栄首相の日本列島改造論はこの時代に書かれた。

 この時代、世界も低迷期にあった。その要因は泥沼のベトナム戦争と第4次中東戦争をきっかけとしたオイルショックである。

激動の79年

エジプト=イスラエル和平

 79年、中東では2つの事件が起きていた。エジプト=イスラエル和平とイラン革命である。2つの動きは78年から同時並行で動き始めた。

 78年1月、イランで暴動が発生した。これにより、アメリカは中東の親米国家を1つ失った。カーター首相は、エジプトのサダト大統領とイスラエルのペギン首相をアメリカに呼んだ。9月のキャンプデイヴィット合意である。

 中東戦争は、アラブ諸国が優勢の状態であった。しかし、エジプトは戦争を継続できる資金が残っていなかった。77年、エジプトのサダト大統領は、極秘にイスラエルを訪問。和平への交渉に入った。

 キャンプデイビット合意では、イスラエルはシナイ半島を割譲することで停戦することができた。

 翌79年3月、キャンプデイヴィット合意にもとづいて、エジプト=イスラエル和平条約が締結された。

 イスラエルは、エジプトの脅威がなくなったことで、本格的にレバノン内戦に介入した。

 一方で、エジプトはアラブ連盟を離脱。アラブ諸国やPLOとの国交が断絶した。一方で、アメリカ資本が流入。ムバラク大統領の長期開発独裁政権の時代へ入る。

イラン革命

 中東戦争とは、イスラエルとアラブ諸国の間で行われた4つの戦争である。きっかけは、アラブ人国家パレスチナとユダヤ人国家イスラエルの分割案である。

 78年のエジプト=イスラエル和平で中東戦争は終結した。

レバノン内戦

 アラブ諸国が和平に向かったのは、冷戦の終結である。これにより、アメリカ一強の時代が始まった。その象徴が湾岸戦争である。アメリカは、湾岸戦争でイラクに勝利すると、アメリカ手動の和平交渉が始まった。

 オスロ合意が成立すると、93年、イスラエルはヨルダンとも講和した。

PLOがレバノン南部へ

 オスロ合意が成立すると、PLOはヨルダン川西岸地域とガザ地区で自治を開始した。

 これに伴い、チュニジアに亡命中のアラファト議長らPLOは帰国。アラファト議長の独裁が始まった。

 これに反発したのが、過激派のがハマス氏である。ハマスはイスラエルに残り、抵抗運動を続けた。ハマス氏は、イスラム同胞団の流れをくみ、イスラム色の強い政策が取られた。

 以後、パレスチナ自治区は、穏健派のアラファト議長派と過激派のハマス派の対立が続く。

ヨルダン内戦

 一方、イスラエルのラビン首相は、95年に暗殺される。これにより、イスラエルは強硬派政権が成立。パレスチナ和平は遠のいた。これが、00年の第2時インティファーダにつながる。

第四次中東戦争

 現在のアサド政権は、2代目である。初代アサド政権は、70年に成立した軍事政権である。70年代の2つの戦争で国民の支持を集めた。第四次中東戦争とレバノン内戦である。

 レバノン内戦で国際的に孤立する。

アサド政権の成立

 80年代、イスラエル軍がレバノン南部に駐屯。レバノンはしばしばイスラエルの空爆を受けた。

 90年、シリアのアサド政権は、レバノンに派兵。これにより、レバノンは平和になった。

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