1970年代のシリア・パレスチナ
1970年代、アラブ諸国は石油戦略で第4次中東戦争に勝利。そのような中、レバノン内戦が始まる。
1960年代の国際情勢
1960年代、日本は高度成長期。東京オリンピックが行われた。アメリカはケネディ大統領の時代。キューバ危機が起きたのもこの時代。その後、ベトナム戦争が本格化。
第3次中東戦争とPLOの成立
アラブの6日間戦争
中東戦争は、冷戦期10年周期で行われていた。第3次中東戦争は、67年6月に行われた戦争で、イスラエルが奇襲攻撃を実施。わずか6日間で国土を拡大。国連が仲介に入って終結した。
この戦争で、パレスチナ居住区は大幅に削減。多くのパレスチアな難民が誕生した。シリアはゴラン高原を失い、エジプトはシナイ半島を失った。
ヨルダン内戦へ
第3次中東戦争で、イスラエルはパレスチナ人居住区を大幅に縮小。多くのパレスチナ難民が誕生。周辺のアラブ諸国には多くのパレスチナ難民が流入した。PLOも拠点をパレスチナから東隣のヨルダンに拠点を移した。
ヨルダンは、中東の中央部にある国である。西には、ヨルダン川を挟んでイスラエルがある。北には、シリアとイラク、南にはサウジアラビアがある。
PLOは、ヨルダン国内でテロ活動を展開した。70年9月、ヨルダン国王は、テロ活動に怒り、PLOに戦闘を仕掛けた。これがヨルダン内戦である。
PLOは、ヨルダンを撤退。レバノン内部に拠点を移す。これがレバノン内戦につながる。
アサド(父)政権成立
第3次中東戦争の敗北で、エジプトのナセル大統領の地位は落ちた。70年、ナセル大統領が失意に中で死去。サダト大統領が誕生した。
シリアも、第3次中東戦争でゴラン高原を失う大敗をした。バアス党トップのアフラクは同じバアス党政権のイラクへ亡命した。当時のバアス党は、過激派と穏健派で対立していた。配線により、穏健派の発言力が高まり、穏健派のアサド(父)政権が成立した。
一方、アフラクを受け入れたイラクとアサド政権のシリアが対立。アラブ各国にあるバアス党は、イラク(バグダード)派とシリア(ダマスカス)派で対立するようになる。
PLOの設立
第3次中東戦争のきっかけは、PLO(パレスチナ解放機構)設立である。
64年5月、PLO(パレスチナ解放機構)が設立された。
PLO 設立を支援したのは、第2次中東戦争の英雄ナセル大統領を中心としたアラブ連盟であった。
シリア、バアス党政権へ
63年、シリア革命
63年3月、シリアでバアス党による軍事クーデターが発生。これにより、アフラクを中心としたバアス党政権が成立。憲法を改正し、バアス党が指導的な立場になった。
バアス党
バアス党は、シリアなどアラブ諸国の政党の1つである。アラブ国家の統一、自由と社会主義を目指した政党である。
外交面では、旧宗主国であるフランスやイギリスと対立。社会主義国家であるソ連との関係を強化した。この構造は、2010年代のシリア内戦にも反映。政府軍であるアサド政権側をソ連が支援支援し、反政府軍側をアメリカが支援している。
成立は、フランス植民地時代の40年である。最初は、軍部の内の秘密結社の形であった。当時のシリアの軍隊は、多くのアラウィー派が参加していた。現在のシリア・バアス党の中心はアラウィー派が占めている。
シリアは、現在も多くの国民がスンニ派である。アラウィー派はシリアでは少数派である。アラウィー派は、エジプトなどで主流のイスマーイール派の流れをくむイスラム教の宗派である。キリスト教やシリアの土着宗教の影響を受けたものである。アラウィー派は少数派のため、貧しい生活を送っていた。フランスが志願兵を集めると多くのアラウィー派の人々が参加した。その影響で、軍部ではアラウィー派が多い。また、貧困層が多いため、社会主義を望む声も高かった。これがバアス党の政策に反映されている。
47年、シリアがフランスから独立すると、バアス党は正式な政党になった。バアス党は、周辺諸国でも成立した。
バアス党政権の成立は、シリアではなく、イラクで始まった。58年7月には連立政権に参加。63年2月に単独政権が成立した。これを受けて、翌3月にシリアでも軍事クーデターでバアス党政権が成立する。
シリア、アラブ連合から離脱
61年、反ナセル派の軍部により軍事クーデターが発生。バアス党の政治家を追放。シリアは、アラブ連合共和国から離脱した。
その原因は、エジプト主導の政治体制である。官僚の大部分がエジプト人になり、エジプト風の農地改革が行われた。これが保守層の反発を受けた。
アラブ連合とは
アラブ連合共和国は、エジプトとシリアが58年に連合した国である。初代大統領は、第2次中東戦争の英雄ナセル大統領である。首都はカイロに置かれた。