1860年代のシリア・パレスチナ レバノンの成立

前回の復習 1870年代のシリア・パレスチナ

 19世紀、シリア・パレスチナを含む中東は、オスマン帝国の支配していた。19世紀後半に入ると、オスマン帝国は弱体化。ヨーロッパ各国は、中東の植民地化に向かい始めた。

 78年には、オスマン帝国は露土戦争に敗北。中東の植民地化が進んだ。

1860年代の国際情勢

 1860年代、日本は大政奉還によって、江戸時代が終わり明治時代に変わる。

 19世紀後半のヨーロッパは、近代から現代への移行期。このとき、発言力を持っていたのは、クリミア戦争に勝利したフランス皇帝ナポレオン3世である。

 ドイツは、ビスマルク宰相によって統一。70年の普仏戦争に勝利しドイツ帝国を建国した。アメリカでは南北戦争が起こる。

 70年、フランス皇帝ナポレオン3世は、普仏戦争の敗北により失脚。ナポレオン3世の時代から、ビスマルクの時代に変わる。

レバノン、自治

オスマン帝国はレバノンの自治を認める。

 61年8月、オスマン帝国は、イギリス、ロシア、オーストリア、フランスとロシアの6カ国でレバノン統治組織法に署名した。これを主導したのは、フランス皇帝ナポレオン3世であった。

 これにより、レバノンは直轄県とし、自治を認める。

レバノンとは

 レバノンは、シリアとパレスチナの間にある地中海沿岸の地域である。山岳地帯で宗教的少数派が多数生活をしていた。主要な民族は、キリスト教マロン派とイスラム教ドゥルーズ派である。

 キリスト教マロン派とは、東方正教会の分派である。十字軍時代にカトリック教徒と連携。そのため、ローマ教皇に従った。

 イスラム教ドゥールズ派とは、シーア派のイスマイール派の分派である。

 この2つの派閥の対立がレバノンの歴史に大きな影響を与える。

ナポレオン3世が推薦する総督

 初代総督は、アルバニア・カトリック教徒が選ばれた。推薦したのは、フランス皇帝ナポレオン3世となった。レバノンは、北部がキリスト教マロン派、南部がイスラム教ドゥールズ派の勢力圏として、キリスト教マロン派が権力を握るようになった。

背景)キリスト教マロン派の大虐殺

 1850年代、レバノンで主導権を握っていたのはイスラム教ドゥールズ派であった。58年、キリスト教マロン派の反乱が発生。60年に、これに対してイスラム教ドゥールズ派がキリスト教マロン派の大虐殺が実施された。

 キリスト教マロン派は、かつてからローマ教皇の保護を受けていた。50年代、ローマ教皇が信頼していたのがフランス皇帝ナポレオン3世である。教皇はナポレオン3世に仲介を依頼した。これが、61年のレバノン統治組織法につながる。

オスマン帝国とタンジマート

タンジマート後半戦

 56年、改革勅令が出された。これにより、タンジマート後半戦が始まる。61年、アブデュルアジト1世が即位した。

オスマン帝国はヨーロッパに抵抗できないのか?

 19世紀前半のオスマン帝国は、戦争が相次いだ。多額の軍事費が財政を苦しめた。これにより、ヨーロッパ諸国からの借金に依存するようになった。60年代に入ると、資金提供先のヨーロッパに逆らうことができなかった。

 19世紀前半の主な戦争は、20年代のギリシャ独立戦争。30年代のエジプト=トルコ戦争。50年代のクリミア戦争がある。

 19世紀のオスマン帝国のキーワードはタンジマートと呼ばれる西洋化政策である。この政策は53年のクリミア戦争で更に加速した。

ナポレオン3世の失脚

 60年代、オスマン帝国に大きな影響を与えたのは、フランス皇帝ナポレオン3世である。70年、ナポレオン3世は普仏戦争に敗北。これにより、オスマン帝国は後ろ盾を失った。

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