前回の復習 1830年代の中国
1830年代、インド産アヘンの輸入が急増。アヘン中毒者が急増するとともに、銀が大量に流出した。
1820年代の国際情勢
日本は、江戸時代後期。浮世絵などに代表される化政文化の全盛期である。
ヨーロッパでは、ウィーン体制の時代。スペイン立憲革命でイギリスとフランスが対立。四国同盟が崩壊した。また、スペイン立憲革命の影響でラテンアメリカの独立運動が展開される。
なぜ、アジア三角貿易
イギリスの貿易赤字
イギリスは、なぜ三角貿易を展開していたのであろうか。それは、清王朝に対して大幅な貿易赤字である。
イギリスでは、産業革命によって水質汚染が問題になった。そのため、水をそのまま飲むことができず、紅茶が流行した。(19世紀初頭にミネラルウォーターはまだ販売されていない)。そのため、中国産茶葉の需要が大幅に高まっていた。
一方で、清王朝では、イギリスの主力輸出品である綿織物はそれほど需要がなかった。そのため、輸入が増加する一方で、輸出が伸び悩んだ。そのため、
18世紀〜19世紀の国際経済学の主流は、重商主義(貿易差額主義)である。この考え方は、貿易黒字を増やして、資本を蓄積すべきという考え方である。
一方で、イギリスの主力輸出品である綿織物については、清王朝ではそれほどニーズはなかった。そこでは作られたのがアジア三角貿易である。
イギリスは、インドにイギリス産綿製品(衣服)を販売。この売上金で、インド産アヘンを購入。清王朝で、インド産アヘンを販売。この売上金で清王朝産お茶を購入。
清王朝の海禁政策
清王朝は、当時海禁政策を取っていた。この海禁政策は18世紀半ばに乾隆帝が定めたものである。
- 朝貢貿易以外の貿易(互市貿易)は、広州のみとする。
- 貿易は公行(こほん)という商人に限定する。
銀の流出
銀の流出
では、清王朝はアヘンの流入が問題になったであろうか。理由は2つある。
1つ目は、アヘン中毒者の急増である。これにより、広州周辺の治安は大幅に悪化した。
2つ目は、銀の流出である。20年代から清王朝は輸入超過になっていた。これにより、銀が清王朝からイギリスへ流れた。これにより、清王朝の銀価格が高騰した。
デフレによる事実上の増税
清王朝では、16世紀からはじまった一条鞭法で、税金は銀で納付していた。
主要な税金は、土地の面積に応じてかけられる地丁銀が採用されていた。地丁銀は17世紀なかばに導入された。
銀価格の高騰(デフレ)によって、農民は事実上の増税になった。
道光帝即位
20年、嘉慶帝(17世紀末に即位)が崩御。道光帝が即位する。
アヘン戦争に敗北し、50年に崩御した。