1830年代の中国 清王朝 三角貿易と林則徐

前回の復習 1840年代の中国

 1840年、アヘン戦争が勃発。43年にアヘン戦争に敗北。南京条約を締結する。

 今回は、アヘン戦争のきっかけとなったアジア三角貿易を見ていきます。

1830年代の国際情勢

 日本は、江戸時代。天保の大飢饉で大御所時代が終わる。これが41年の天保の改革につながる。

 ヨーロッパでは、フランス七月革命が起こる。イギリスは、産業革命が勃発。

アジア三角貿易

アジア三角貿易

 ここでは、アヘン戦争の要因となったアジア三角貿易を見ていきます。

 当時、イギリスでは産業革命の影響で、紅茶ブームが起きていた。ここに必要なのは、新大陸(中米)産の砂糖と中国産のお茶である。

 一方で、イギリスの主力輸出品である綿織物については、清王朝ではそれほどニーズはなかった。そこでは作られたのがアジア三角貿易である。

 イギリスは、インドにイギリス産綿製品(衣服)を販売。この売上金で、インド産アヘンを購入。清王朝で、インド産アヘンを販売。この売上金で清王朝産お茶を購入。

イギリス、貿易自由化

 32年、イングランド議会で、選挙法改正。中小企業の経営者にも選挙権が与えたれた。これにより、都市の人々に選挙権が与えたれた。これにより、イギリスの経済自由化が進んだ。これは、清王朝にも影響を与えた。

 33年、イギリス議会は、東インド会社に独占されている中国貿易の独占権を廃止。これにより、民間企業も中国でのアヘンの販売に参加。

 これにより、アヘンの流入が更に加速した。

林則徐

林則徐を広州へ派遣

 林則徐は、清王朝の官僚である。37年に南部の地方長官に就任。アヘンの取締で実績を上げる。そして、道光帝にアヘンの取締を進言。38年、欽差大臣(特命の大臣)に就任。39年3月、林則徐が広州に到着。イギリス商人から、アヘンを没収し、処分した。

アヘン戦争へ

 林則徐は、アヘンを販売しないという誓約書を結べば、引き続き取引を行うとした。しかし、イギリスの領事は、これを拒否。イギリス商人は、広州からマカオへ拠点を移した。

 ただ、清王朝はとくに、イギリスと貿易する必要性もなく、アメリカとも交易を行っていたのでダメージはなかった。

 39年10月、インドから海軍が到着。これにより、アヘン戦争が始まった。