後の時代) 16世紀前半の日本 戦国時代とは?
16世紀前半は、戦国時代。室町幕府は存在したが、その権威はなくなっていた。代わりに、戦国大名が領国の統治と防衛を行っていた。
前の時代)14世紀の日本 南北朝時代
14世紀初頭に鎌倉幕府が滅亡。後醍醐天皇が建武の新政を実施。ただ、訴訟の混乱により、多くの武士の反感を買う。その中で、足利尊氏が室町幕府を成立。足利尊氏を中心とした北朝と後醍醐天皇を中心とした南朝に分裂。南北朝の戦乱が転換した。この南北朝が
15世紀の国際情勢
15世紀、ここから中世の歴史を見ることになる。中世の特徴は、封建社会と宗教の問題が表面化した時期である。
中国は、明王朝の時代。15世紀初頭の永楽帝の時代に全盛期を迎える。しかし、永楽帝が亡くなると明王朝は衰退期に入る。15世紀なかばの土木の変では、皇帝が北方騎馬民族の捕虜になった。
ヨーロッパでは、多くの戦争が行われた。百年戦争とイタリア戦争である。多くの戦争により、貴族は没落。国王への権限強化が始まった。
また、宗教戦争の前身であるフス戦争が起きた。
流れ(室町時代)
流れ
15世紀は、室町時代です。将軍と三管領などの有力守護の覇権争いが展開されていた。
- 義満の政治 南北朝の合一を実施し、将軍の権限を高めた。
- 義教の政治 恐怖政治によって、将軍の権限を高めようとした。
- 嘉吉の乱 有力守護が将軍を暗殺。幼少の将軍が続く。
- 義政の政治と応仁の乱 応仁の乱で、京都は荒廃。幕府の権威がほぼ無くなる。
- 明応の政変 有力守護が将軍をリストラ。
足利義満(南北朝の合一)
14世紀末、足利義満が南北朝の合一をはたし、南北朝の動乱は集結した。足利義満の功績は、以下の通りである。
- 南北朝の合一
- 有力守護大名の勢力をおとす
討伐、家督争いに介入など - 明王朝(中国・永楽帝)と勘合貿易を始める
- 金閣寺を建立(北山文化)
足利義教
28年 正長の土一揆(in 関西)
29年、くじ引きで第6代将軍に足利義教が決まる。
前28年、正長の土一揆が起こる。
28年は、西日本で大凶作が発生。また、「三日病(みっかやみ)」という病が流行した。これにより、多くのものがなくなった。
借金帳消しを求める一揆が始まった。滋賀(近江)ではじまった正長の土一揆は、近畿地方全域に広まった。足利義教が新将軍に決まると、この正長の土一揆は加速した。
興福寺など多くの者が、この一揆に応じた。そのため、15世紀から16世紀にかけて、一揆は急増した。
38年 永享の乱 in 関東
38年、鎌倉で永享の乱が起こる。鎌倉公方は、堀越公方と古河公方に分裂した。
室町幕府は、関東に鎌倉公方を置いた。鎌倉公方には、足利尊氏の子(2代将軍義詮の弟)が就き、世襲した。また、鎌倉公方の監視役として、関東管領を設置。関東の守護大名である上杉家が世襲した。
鎌倉公方(足利家分家)と関東管領(上杉家)が対立。上杉家は、将軍家(足利家宗家)に支援を求めた。将軍義教は、これをうけて自分の息子を鎌倉公方に指名した。
41年 将軍暗殺
41年6月、嘉吉の乱で、将軍足利義教が暗殺される。これにより、将軍の権威が低下した。実行犯は、四職の赤松家の赤松満祐である。赤松氏は、姫路・岡山を周辺に広がる大大名であった。この赤松氏討伐で活躍したのが、同じ四職の山名家の山名持豊である。山名家は、岡山の北である鳥取に拠点をおいていた。赤松討伐で勝利した山名持豊は旧赤松領を獲得。赤松家と山名家の因縁が生まれるとともに、戦国時代に入ると小大名が乱立する。また、山内持豊氏が三管領家との細川家との関係が深まっていく。これらの関係が応仁の乱の伏線になっていく。
将軍の権威の低下は、民衆に大きな影響を与えた。京都周辺で大規模な嘉吉の徳政一揆が起こる。始まりは、南近江である。41年8月、馬借が蜂起。南近江の守護の六角氏が徳政令を発布。しかし、貸主の寺社らは拒否。この蜂起が拡大。幕府関係者の一部もこの蜂起に参加していたことから、更に混乱。ついに、幕府が徳政令を発布することになった。これにより、六角氏と周辺寺社との関係は悪化した。
嘉吉の乱が亡くなると、幼い足利義勝(7代)が就任。ただ、2年後の43年7月に病死。弟の義政が将軍に就任した。(正式就任は、6年後の49年)。それを支える三管領も混乱していた。斯波家と畠山家では家督争いが勃発。細川家は、幼い勝元が当主になったばかりである。
43年、幼い足利義政が将軍に就任。三魔(さんま)とよばれる周辺人物が幕政に介入した。幕府の最大の役割は相続争いの仲介である。幕府の力が弱まることで、多くの家督争いが発生した。三管領の斯波家と畠山家である。
足利義政 応仁の乱
登場人物
将軍足利義政の野望
応仁の乱の流れを見る前に人物相関を見ていきましょう。室町幕府まずは。第8代将軍・足利義政です。彼が直面した困難は、現代のリーダーが学ぶべき「組織運営の反面教師」とも言えます。
彼の父である第6代将軍・義教が「嘉吉の乱」で急逝すると、幼少の将軍が続きました。これにより、将軍への意思決定ルートは完全に側近に握られることとなります。この側近グループは当時「三魔(さんま)」と揶揄され、情報のボトルネックとなっていました。
成年した義政は、失われた将軍主導の政治体制を取り戻そうと尽力します。しかし、細川勝元や山名宗全といった実力派の守護大名たちが台頭しており、彼らとのパワーゲームは裏目に出ました。畠山家や斯波家といった有力家臣の家督争いに介入するも、収拾できず組織の統制を失っていきます。
当時の状況は混迷を極めていました。関東では「享徳の乱」が勃発し、関西でも飢饉と家督争いが重なります。そこで義政がとった戦略は、足利義満に倣った「大御所政治」でした。自ら隠居し、後継者(出家していた弟)を還俗させて将軍の座に据え、背後からフィクサーとして影響力を行使しようと試みたのです。
しかし、この戦略は最悪の結果を招きました。1467年に「応仁の乱」が勃発。京都を舞台に11年にも及ぶ戦乱が幕を開けます。
特筆すべきは、国全体が飢饉に苦しむ中で、義政が将軍邸(花の御所)や銀閣(慈照寺)の造営に没頭した点です。当時の民衆からは強い批判を浴びましたが、一方で彼が追求した美学は、後世の日本文化に多大な影響を残しました。
「芸術家としては超一流、しかし組織のリーダーとしては苦難の連続だった」――それが足利義政という人物の複雑な実像です。
足利義政の弟たち と 将軍後継者問題
応仁の乱と聞くと、学生時代に「将軍家の跡継ぎ問題が原因」と暗記した記憶がある方も多いはず。でも、その実態は単なる親族の揉め事ではありません。現代のビジネスシーンで例えるなら、「ステークホルダーたちの思惑が複雑に絡み合い、収拾がつかなくなった巨大プロジェクトの崩壊」といったほうが、腑に落ちるかもしれません。
近年の歴史研究では、この乱の引き金についての解釈もアップデートされています。当時のトップである将軍・足利義政の周囲で、どんな人間ドラマが動いていたのか、少し覗いてみましょう。
まず興味深いのが、義政の兄弟たちの処遇です。父・義教は、後継者争いの火種を消すために、世継ぎ以外の息子を全員出家させるという徹底したリスク管理をしていました。しかし義政は、一度「組織(出家)」から外れた兄弟たちを、再び現場に呼び戻します。一人は弟の義視。彼は当初、義政の右腕として幕府を支える後継者候補に抜擢されました。
一方で、もう一人の兄弟・足利政知は、地方拠点の立て直しのために、関東へ「堀越公方」として派遣されます。この人事からわかるのは、将軍家の内情が単なる身内の事情に留まらず、遠く離れた関東の情勢にまで大きな波紋を広げていたという事実です。本社の体制変更が、地方支社の存亡に直結するような、今のグローバル企業の混乱に近いものがありますね。
そして、この物語で欠かせないのが義政の妻、日野富子です。よく「わが子を将軍にするために山名宗全と組んで乱を煽った悪女」として語られますが、最近は違う横顔も見えてきました。実は、義視の妻は富子の妹。つまり、二人は義理の兄弟であると同時に、親戚関係でもあったのです。乱が泥沼化する前までは、むしろ互いに近い距離感で、協力して体制を支えようとしていた節すらあります。
そんな中で、義視は細川勝元という有力者とタッグを組み、一時期は政治の主導権を握ります。しかし、その急激な勢力拡大は周囲の反感を買い、政変によって一度は失脚を余儀なくされます。まさに、出世街道のど真ん中で突然の左遷や逆風にさらされる、サラリーマンのような浮き沈みを経験していたわけです。
そこへ、義政の待望の実子・足利義尚が誕生したことで、事態はさらに複雑化します。成長した義尚が台頭してくると、義政は最終的に実子への禅譲を決断。自らは「大御所」として院政を敷こうと試みますが、こうした二重構造のリーダーシップが、現場の混乱に拍車をかけてしまいました。
結局、応仁の乱とは「誰がトップになるか」というシンプルな問いへの答えが、感情や人間関係、そして地方への影響といった複数のレイヤーで絡まり合った結果だったと言えます。当時の人々も、現代の私たちと同じように、正解のない問いの中で必死に駆け引きをし、生き残ろうとしていたのかもしれません。そう考えると、少し歴史が身近に感じられませんか?
細川勝元 vs 山名宗全
応仁の乱の中心人物は、東軍の総大将・細川勝元と、西軍の総大将・山名宗全である。
細川勝元は、三管領の1つである細川家の出身。細川家は清和源氏の血を引く名門で、南北朝時代には四国平定で活躍し、四国の守護を歴任した。勝元は二代将軍・足利義詮の信頼が厚く、三代将軍・義満の時代には管領として幕政を支えた。
山名宗全は、四職の1つである山名家の出身で、山陰地方の有力守護であった。しかし、1391年の「明徳の乱」により勢力が削がれ、大幅な減封を受けた経緯がある。
山名宗全と細川勝元は、応仁の乱の直前まで良好な関係を築いていた。嘉吉の乱の際、山名宗全は赤松討伐で活躍し、播磨などの旧赤松家領を併合した。
当時の有力者であった畠山持国の家督争いにおいて、勝元と宗全はともに反持国派を支援し、接近した。この時期、勝元は山名家から妻と養子を迎え、友好関係にあった。
しかし、赤松家の家督再興を巡り、両者の関係に亀裂が入る。赤松家の復興を認めた勝元に対し、宗全は猛反発。勝元が山名宗全の養子を廃嫡したことも重なり、二人の対立は決定的となり、応仁の乱へとつながることとなった
三管領の家督争い
応仁の乱といえば「将軍家の跡継ぎ問題」が有名ですが、実は乱の勃発を決定づけたもう一つの巨大な火種がありました。それが、当時の幕府トップエリートであった「畠山(はたけやま)家」と「斯波(しば)家」のダブルお家騒動です。ちなみに、応仁の乱の始まりそのものが、畠山家の家督争いによるものでした。
現代の組織で言えば、大企業を支える「主要グループ会社」の社長交代を巡り、親会社の取締役たちが介入した結果、会社全体を巻き込んだ大派閥戦争に発展してしまったような状態です。今回は、この2つの名門による家督争いと、その裏でちゃっかりのし上がった家臣たちの「下剋上」ストーリーをご紹介します。
この騒動は、単なる跡継ぎ問題にとどまらず、幕府の重鎮である畠山・斯波両家の権力争いが引き金となっています。現代のビジネスに例えるなら、大企業を巻き込んだ深刻な派閥争いといえるでしょう。将軍・義政の優柔不断な裁定によって混迷を極めた対立は、細川・山名両派の権力闘争と連動し、やがて11年に及ぶ大乱へと発展します。それは、現場の家臣たちが実権を握る「下剋上」の時代を切り開く、歴史の大きな転換点となりました。
まず、この2つの名門の格をご紹介しましょう。室町幕府には「三管領(さんかんれい)」と呼ばれる、将軍を補佐するナンバー2のポストがあり、細川家・畠山家・斯波家の3ファミリーが持ち回りで担当していました。
畠山家は、河内・紀伊(現在の大阪~和歌山)や、越中・能登(富山~石川)など、関西圏の重要拠点と日本海側の豊かな領国を複数治める巨大勢力。一方の斯波家は、越前(福井)、尾張(愛知)、遠江(静岡)といった交通・経済の要衝を治める名門中の名門です。つまり、どちらも広大な「優良支社」をいくつも抱える、幕府内の超パワーホルダーでした。
事の発端は、畠山家のトップであった畠山持国(もちくに)の「実子に継がせたい」という方針転換でした。当初は子供がいなかったため弟を後継者にしていましたが、実子・義就(よしなり)が生まれると、弟を差し置いて息子を次期社長に指名します。これに反発した家臣たちは、幕府の超大物である細川勝元と山名宗全(そうぜん)に介入を依頼。やがて義就が山名宗全と強力なパイプを築くと、面白くない細川勝元は、対立候補である畠山政長(持国の弟の息子)を猛烈にプッシュし始めます。
ここで事態をさらに泥沼化させたのが、親会社トップである将軍・足利義政の優柔不断な態度です。義政は自身の影響力を誇示するためか、その時々の有力者の顔色をうかがい、「義就が当主」「いや、やはり政長だ」と、トップの承認をコロコロと変えました。この社長の朝令暮改によって、現場の混乱は極みに達します。
細川勝元・山名宗全が介入すると、一度は畠山政久(持国の甥で政長の兄)が当主となりますが、将軍義政が待ったをかけます。義就を当主にし、介入した山名宗全に対して追討令を出したかと思えば、義就が幕府に無断で国衆のトラブルに武力介入したことに足利義政が激怒。義就を追放し、畠山政長を当主に据えます。その後、細川勝元は管領職を畠山政長に移しました。しかし、細川勝元と山名宗全の関係が悪化すると、今度は山名宗全が畠山義就を支援し始めます。
この「お家騒動と将軍の介入」は、もう一つの名門・斯波家でも巻き起こります。きっかけは、関東で起きた大規模な反乱「享徳の乱」でした。幕府(将軍・義政)は、斯波家の当主・斯波義敏(よしとし)に出兵を命じますが、義敏は自社のナンバー2である甲斐氏と領国支配を巡って激しく対立しており、関東へ行くどころか身内で内戦(長禄合戦)を始めてしまいます。
これに激怒した義政は「業務命令違反だ!」と義敏を更迭。空席になった社長の座に、親戚の渋川家から急遽養子として送り込まれたのが斯波義廉(よしかど)でした。実はこの義廉、山名宗全の縁戚にあたる人物。これにより、斯波家も山名派の強い影響下に入ります。しかし、クビになった義敏も黙っておらず、細川勝元を頼って社長復帰を画策し始めました。
こうして応仁の乱の前夜、京都の政治闘争は「細川派」と「山名派」、そして両軍を支える「有力家臣たち」によって、完全に2つの派閥に色分けされます。開戦時の構図は以下の通りです。
【細川派(のちの東軍)】
・バックアップ:細川勝元
・畠山家:畠山政長(主力家臣:遊佐長直など)
持国の甥で、反持国派
・斯波家:斯波義敏
本家の家系、享徳の乱で義政の反感を買う
【山名派(のちの西軍)】
・バックアップ:山名宗全
・畠山家:畠山義就(主力家臣:遊佐就家など)
畠山持国の実子、親持国派、武闘派
・斯波家:斯波義廉(主力家臣:甲斐氏、朝倉孝景、織田氏など)
分家の家系
局地的な「お家騒動」が、トップの権力争いと完全にリンクしてしまったのです。そして1467年、両派閥が激突し、11年に及ぶ応仁の乱が幕を開けます。
管領職の推移を追うと、幕府の権力バランスが見えてきます。1442年以降、管領職は畠山持国と細川勝元が交互に務めてきましたが、1452年に細川勝元が就任すると、1454年から畠山家で家督争いが始まったため、細川勝元が12年にわたり管領を続けました。1464年、畠山義就が赦免されると、家督争いに終止符を打つべく畠山政長が管領に就任。しかし1467年、応仁の乱の前哨戦である「上御霊合戦」で畠山政長が敗走すると、西軍総大将の山名宗全は斯波義廉を管領に据えます。応仁の乱が始まると、東軍では細川勝元が管領職を代行しました。
1468年には享徳の乱の和睦問題で斯波義廉と足利義政が対立し、管領職には東軍総大将の細川勝元が就任しますが、西軍はこれを認めません。その後も1473年に細川勝元が病弱で退くと、再び斯波義廉が管領となるなど、目まぐるしく変わる人事に幕府の混乱が表れています。
しかし、親会社とグループ会社のトップが京都で不毛な争いを続ける間、現場を支える「中間管理職(家臣)」たちは、決して黙って見ているわけではありませんでした。大混乱に乗じて、家臣たちは地方の領国で実力を蓄え、大暴れします。
最も有名なのが、斯波家の家臣であり、当初は西軍の主力として戦っていた朝倉孝景です。彼は細川勝元から「越前の守護にしてやるから寝返らないか?」とヘッドハンティングされると、あっさり東軍へ寝返りました。そしてそのまま主君である斯波氏を追い出し、越前の「戦国大名」としての地位を確立。完全な下剋上です。
また、同じく斯波家の家臣であった織田氏も尾張(愛知)で力をつけ、のちに織田信長を輩出することになります。一方の畠山家でも、有力家臣であった神保(じんぼ)氏らが主君の争いを利用しながら越中(富山)などで自立し、戦国大名化していきました。
応仁の乱は、トップ層の権力闘争による「名門企業の崩壊」と、現場の実力者による「ベンチャー企業の台頭」が交差する、まさに日本史におけるビジネスモデルの転換点だったと言えるでしょう。
有力武将も参戦
応仁の乱は、多くの大名が参加した。
まずは、有力守護大名の四職と土岐氏の家系を見ていきましょう。
山名家と赤松家は前述のとおりです。山名宗全率いる山名家は西軍に、赤松政則率いる赤松家は東軍(細川勝元陣営)についた。
一色家は、丹後(京都府北部)と東海の三河(愛知県東部)と伊勢(三重県)の守護をつとめていた。細川家が三河の守護職を狙っていたため、西軍で参戦。三河で戦う細川家と戦った。さらに、若狭を巡り、若狭武田家と戦った。三河では、一色家と三河家の対立の中、国衆の松平家が台頭した。この松平家が徳川家康の祖先に当たる。戦国時代に入ると、伊勢を失い丹後の戦国大名になる。16世紀後半、織田家の家臣になった細川藤孝によって滅ぼされる。
京極家は、バサラ大名こと佐々木道誉の子孫で分家筋。近江(滋賀県)、出雲などの守護職を努めた。近江では、本家の六角氏と対立していた。六角氏が西軍についたため、京極家は東軍で参戦。西軍を苦しめていましたが、一族が東軍と西軍に分裂。弱体化した。近江では浅井氏が、出雲では尼子氏が台頭した。京極家は、浅井家の保護のもと文化人として存続。浅井三姉妹の次女を迎えた。
土岐氏は、美濃の守護大名である。山名宗全の娘婿なので、西軍で参戦。斎藤妙椿などが活躍。京極氏など東部の東軍勢力を牽制していた。応仁の乱が終結すると、都落ちした西軍の総大将であった足利義視を保護した。戦国時代に入ると、美濃のマムシこと斎藤道三によって乗っ取られ、美濃から追放された。
応仁の乱には、主要な三管領・四職家以外にも多くの有力大名が参戦しました。
西軍には、近江を拠点とする六角氏が加わりました。六角氏は、かつて幕府内で勢力を二分した京極氏(東軍)とのライバル関係にあり、その対立構造が乱においても引き継がれています。また、西軍の最大勢力として周防(山口)の大内正弘が参戦しました。日明貿易で強固な経済基盤を持つ大内氏は、かねてより伊予(愛媛)や瀬戸内海での制海権を巡り細川氏と対立していたことが、西軍側への参加の主な要因となりました。
一方の東軍には、若狭(福井南部)を拠点とし甲斐武田氏と親族関係にある若狭武田氏や、足利家の親戚筋で駿河(静岡)を拠点とする今川氏が参戦しました。特に今川氏は、細川勝元からの要請と、遠江(静岡県東部)の支配権確保という条件を背景に東軍側として上洛を果たしています。
背景
嘉吉の乱(1441年)が幕を閉じると、義勝・義政という幼少の将軍が相次いで即位した。この幼主を補佐する名目で実権を握ったのが、「三魔(さんま)」と称された将軍の側近たちである。当時の家督争いなどの調停は、管領を介さず三魔を経由して処理される事態となっていた。一方、本来の幕政を担う管領職には、百戦錬磨の畠山持国と若き細川勝元が交互に就任し、激しい主導権争いを繰り広げていた。
1440年代後半、勝元は持国に対抗すべく、嘉吉の乱で功を挙げた「四職」の一角、山名宗全(持豊)に接近する。宗全の娘を妻に迎えた勝元は、実子に恵まれなかったこともあり、宗全の養子(豊久)を後継に迎えて蜜月関係を築いた。
ほどなくして勝元に好機が訪れる。畠山家で激しい家督争いが勃発したのだ。持国は後継者候補だった弟を追放し、実子の畠山義就を後継に指名した。これに対し、細川勝元と山名宗全のラインは「反持国派」と連携し、牽制を強めていく。
1449年、成人した足利義政が第8代将軍に就任。「三代義満の再来」を目指し、将軍親政による権力集中を図った。
しかし、前途は多難を極めた。関東では1450年、のちの「享徳の乱」の前哨戦となる江ノ島合戦が発生。京都でも大規模な徳政一揆が頻発し、幕府は度重なる徳政令の布告を余儀なくされた。
1454年8月、畠山家の家督争いがついに武力衝突へと発展する。勝元・宗全の後押しを受けた反持国派が、畠山持国・義就父子を京都から追放したのだ。ところが、ここで将軍義政が待ったをかけた。11月に宗全に対する追討令を出し、12月には追放された畠山義就を京都へ呼び戻して復権させたのである。
同年末、関東では東国を揺るがす大乱「享徳の乱」が勃発する。鎌倉公方の足利成氏が、関東管領の上杉憲忠を誅殺。東国は一気に平時体制から戦時体制へと突入した。
1455年3月、義政は成氏追討軍の関東派遣を決定する。この過程で、義政と勝元は和解へと動いた。義政は宗全の罪を許し、勝元も義政の意を汲んで畠山義就の家督相続を承認。この政治的手打ちに伴い、幕政を混乱させていた「三魔」と呼ばれた側近たちも前線から退いた。
東国への遠征体制も着々と整えられた。義政は還俗させた異母兄・足利政知を新たな公方(堀越公方)として下向させ、関東管領候補には渋川家を抜擢。さらに東海・中部および東北からの挟み撃ち作戦を展開した。東海・中部からは駿河の今川家と越後の上杉家が侵攻し、東北からは陸奥の大崎家が南下を図った。この大崎家こそ、南東北における戦国時代初期の主役となっていく存在である。
だが、関東対応の裏で、細川勝元と山名宗全の蜜月関係に亀裂が入り始める。1458年、勝元が山名家と敵対関係にあった赤松家の再興を容認したためだ。
翌1459年、畠山義就が幕府の許可なく大和へ軍事介入を断行。業を煮やした義政は1460年、義就から家督を剥奪し、反義就派の畠山政長に家督を譲らせた。
同じ1459年、「三管領」の一角である斯波家でも家督争いが勃発する。当主の斯波義敏は関東遠征を命じられていたにもかかわらず、家臣である越前守護代の甲斐家と私闘を起こして敗北。義政の激怒を買い、家督を剥奪されて幼少の実子に家督を譲る羽目となった。
この時期、さらなる試練が幕府を襲う。全国的な大飢饉が発生し、京都の街には餓死者があふれた。
にもかかわらず1460年8月、義政は義就を京都から追放(義就は11月に河内で挙兵)。さらに翌1461年には、飢饉で困窮する民衆の惨状をよそに、豪奢な将軍邸の大改修を強行して激しい批判を浴びた。
同年、義政は混乱する関東遠征問題を打破するため、斯波家の家督に堀越公方の側近であった渋川家からの養子(斯波義廉)を据える。これが、のちに幕府を二分する斯波家の泥沼の家督争いへと繋がっていく。
対立の芽は着々と育ちつつあった。細川勝元は山名宗全の次男(山名勝豊)に接近し、彼に守護職を歴任させるなど、山名家内部の分断を図っていく。
1463年、政所執事を務める将軍側近の伊勢貞親が進言し、大赦が実施された。これにより、かつて追放された畠山義就と斯波義廉が赦免され、京都へ呼び戻される。
翌1464年、勝元は自らの政治的パートナーである反義就派の畠山政長に管領職を譲った。さらに同年12月、将軍足利義政は義満にならった「大御所政治」の布告を見据え、出家していた弟を還俗させて「足利義視」と名乗らせ、次期将軍候補に据えた。ここに「足利義視・細川勝元・畠山政長」による強力な主導体制が確立される。
1465年11月、義政に待望の実子(のちの足利義尚)が誕生する。ただし、この時点では義視の後継者としての立場は盤石であり、即座に将軍家後継争いへと直結したわけではなかった。
しかし1466年1月、大きな転機が訪れる。細川勝元に待望の実子(細川政元)が誕生したのだ。これにより勝元は、かつて山名宗全から迎えていた養子を廃嫡する。この冷酷な決断により、勝元と宗全の対立は修復不可能なレベルへと決定化した。
一方、幕府内部にも「足利義視・細川勝元」の強力ラインを面白く思わない人物がいた。将軍側近として権勢を振るう伊勢貞親である。貞親は権力を挽回すべく、斯波家の当主・斯波義廉(養子派)を追放。さらに「足利義視に謀反の企てあり」との流言を流し、義視の失脚を画策した。
だが1466年8月、この陰謀を察知した義視と勝元が先手を打つ。彼らは伊勢貞親らを幕府から追放することに成功した(文正の政変)。
貞親らを排除し、勝元は幕政の頂点に立ったかに見えた。しかし、この勝元の独走を苦々しく見つめる2人の実力者が存在した。
1人目は、もちろん山名宗全である。赤松家の復興問題に加え、我が子同然の養子を捨てられた怨恨は凄まじかった。 もう1人は、将軍専制(大御所政治)を目指す将軍・足利義政その人であった。義政にとって、あまりに強大化しすぎた勝元の存在は、自らの権力を脅かす最大の障害となっていたのである。
勝元の専横を阻むべく、宗全と義政が打った一手――それこそが、野に下っていた鬼神・畠山義就の擁立であった。
流れ
すべての始まりは、1467年正月の宴であった。8代将軍・足利義政は、畠山家当主の畠山政長が主催する宴に出席する予定であったが、これを土壇場でキャンセルし、対立する畠山義就の宴へと足を運んだ。この決裂をきっかけに、畠山政長・細川勝元派と、畠山義就・山名宗全派の対立が一気に表面化する。細川勝元は義政に畠山義就の追討令を求めたが、義政はこれを拒否した。
1月17日夜、ついに両陣営が激突する(上御霊合戦)。将軍・義政は静観を決め込み、細川勝元らにも中立を命じた。勝元はこの命に従ったものの、山名宗全は応じず義就を支援。結果、畠山政長は敗走し、勝元のもとへ身を寄せた。政長が失脚したことで、管領(将軍に次ぐ最高職)の座には斯波義廉が就任した。
ここから細川勝元と山名宗全は、全国の諸武将へと動員をかけていく。勝元率いる「東軍」には、畠山政長をはじめ、四職家の京極氏、若狭武田氏が参加。さらに「文正の政変」で失脚していた赤松政則や斯波義敏(旧本家)も加わった。一方、宗全率いる「西軍」には、新管領の斯波義廉、畠山義就、一色氏、土岐氏らが集結した。
合戦の火蓋は畿内周辺から切られた。播磨(現在の兵庫県南西部)では赤松氏と山名氏が、若狭(福井県南部)では若狭武田氏と一色氏が激突する。
経済面でも攻防が繰り広げられた。細川勝元は交通路を遮断し、西軍領国からの年貢米が京都に入らないよう兵糧攻めを仕掛けた。対する山名宗全は5月20日、現在の西陣周辺に陣を構える。そして5月26日、東軍が京都の一色邸を襲撃したことで、本格的な京都市街戦が始まった。
6月3日、東軍は将軍邸(花の御所)を占領して将軍旗を獲得。これにより、東軍が「官軍(正規軍)」、西軍が「賊軍(非正規軍)」という大義名分を得ることとなった。
しかし7月、西軍に強力な援軍が到着する。山口を拠点に西中国・北九州を治める屈指の大名・大内政弘の大軍が上洛したのである。政弘はかつて伊予(愛媛県)問題をめぐり勝元から追討軍を向けられた経緯があり、東軍への抗戦を選んだ。強力な助っ人の登場で東軍は一転して劣勢に立たされ、8月には後土御門天皇を保護して権威の確保を図った。10月には乱最大の大激戦となった相国寺の戦いが勃発。凄惨な流血戦となったものの、決着はつかなかった。
年が明けた1468年2月、西軍の管領・斯波義廉は、関東の享徳の乱で幕府と対立していた古河公方・足利成氏と独断で和睦。相模問題をめぐり対立していた扇谷上杉氏を牽制しようとした。だが、この独断専行に将軍・義政が激怒。7月、義政は斯波義廉から管領職と斯波家当主の地位を剥奪した。管領には細川勝元が再任され、斯波家の家督は義敏の子・松王丸へと移された。
ところが11月、東軍を揺るがす大事件が起きる。将軍・義政の弟である足利義視が、突如として西軍へ寝返ったのである。義視は、東軍内で復権した「文正の政変」の旧敵たちとの関係に不安を募らせていた。義視を担ぎ上げた西軍は独自に「西幕府」を設立し、斯波義廉も管領に復帰。ここに、将軍と管領がそれぞれ2人存在するという、前代未聞の異常事態が完成したのである。
相国寺の激戦から約3年半が過ぎた1471年5月、ついに膠着状態が動きます。西軍の主力メンバーだった斯波家家臣の朝倉孝景が、「越前守護職」という好条件を提示されて東軍に寝返ったのです。見事なヘッドハンティングですね。一方、彼が去って大混乱に陥った越前では、一向宗(本願寺派)の蓮如が吉崎御坊を建立。これが、のちの巨大勢力「加賀の一向一揆」へと繋がっていくことになります。
長引く戦乱の収拾を図ろうと、細川勝元と山名宗全の両トップは翌1472年に講和交渉をスタートさせます。ところが「今さら引き下がれるか!」と現場の強硬派が猛反発し、交渉はあえなく難航。そんな中、東幕府の将軍・足利義政は1473年、さっさと息子の義尚に将軍職を譲って隠居し、念願だった悠々自適な「大御所政治」を始めてしまいます。ただ、西幕府では相変わらず足利義視が「俺が将軍だ」と名乗り続けている状態でした。
翌1474年、細川家と山名家はついに和睦します。しかし、畠山家の家督争いなどの火種は残ったままで、戦乱はダラダラと続きました。 ここで規格外の動きを見せたのが、義政の妻・日野富子です。なんと彼女、両軍の和平仲介に動きつつ、裏では東西の武将たちに軍資金を高利で貸し付け、ちゃっかり巨額の利益を稼ぎ出していたのです。乱世のしたたかなビジネスウーマンですね。
そして1477年、長かった戦いもついに終局を迎えます。9月に西軍の畠山義就が自国の河内へ帰ると、西軍の「ラスボス」とも言える最大勢力の大内政弘も動きます。日野富子らの裏工作もあり、領土の保証や官位のゲットという好条件をしっかり引き出して、11月に京都から撤退しました。
最強の後ろ盾を失った足利義視は、ついに義尚の将軍就任を認めざるを得なくなり、京都を去って美濃の土岐氏のもとへ下っていきました。こうして、11年間も京都を焼け野原にした応仁の乱は、誰も明確な勝利宣言をしないまま、なんとなくヌルッと終わりを迎えたのです。
影響
1467年から11年続いた「応仁の乱」は、日本の中世を終わらせ、近世へと向かう大きなパラダイムシフトとなりました。この事象は、現代のビジネス環境においても示唆に富む「破壊と再生」のプロセスと言えます。
1. 組織とガバナンス:中央集権から実力主義へのシフト
室町幕府の支配力は、乱をきっかけに徐々に低下しました。
- 権威の形骸化と再編: 幕府の全国的な統治機能は、京都周辺の維持さえ困難なほどに減退。中央によるトップダウン型の管理体制が限界を迎えました。朝廷は、戦乱により、即位の礼ができないほど財政が困窮。織田家のような経済力を持つ戦国大名の支援を受けるようになる。
- 下剋上の加速(実力主義の台頭): 従来の家柄や肩書き以上に、現場での「実力」が評価される社会環境へと変化しました。家臣が主君をしのぐケースも増え、日本社会は「身分制」から「成果重視」の戦国時代へと大きく舵を切ることとなりました。
社会経済)京都一極集中から地方分散へ
経済活動は、中央から地方へと拠点を移しました。
- 城下町の形成: 守護大名が領国統治に注力したことで、各地で城下町が発達。富の流通拠点が京都から地方へ分散し、地域経済が活性化しました。
- 自立する「町衆」: 京都では、既存の権力(幕府・貴族)に頼らず、自治組織である「町衆」が都市の再建や防衛を主導。自分たちの街を自分たちで守り、稼ぐという新しい都市モデルを構築しました。
- 伝統的土地所有システムの崩壊:応仁の乱は、農村にも大きな影響を与えた。室町時代まで続いていた荘園公領制は崩壊した。荘園領主(貴族・寺社)の支配力が弱回ったことで、土地の管理権は、現地の実力者に移行。複雑な権利関係が整理され、生産効率の向上と戦国大名の新たな税収基盤の確立へとつながりました。荘園公領制の崩壊は、資源や労働力の流動性を高め、後の近世社会の経済発展の礎になった。
外交・貿易)ビジネスパートナーシップの再編
外交および貿易面でも、プレイヤーの交代が起こりました。
- 貿易主導権の移譲: 従来、幕府が独占していた対明貿易(勘合貿易)の主導権が、実質的な利益を上げる有力守護大名や寺社へと移転。
- 競合との対立: 貿易の利権をめぐり、細川氏や大内氏といった有力大名が対立。ビジネス(貿易)の利益を確保するためのパワーゲームが激化しました。
文化) 危機下のイノベーション:東山文化の成熟
政治的な混乱期であっても、文化・クリエイティブ領域では独自の価値創造が進みました。
- ニッチ市場での価値向上: 8代将軍・足利義政は、政治の一線から退き、銀閣(慈照寺)を中心とした「東山文化」を構築。「わび・さび」といった精神性の高い独自の価値観は、後の日本文化のプロトタイプとなりました。
- 知見の地方伝播: 戦火を避けて地方へ流出した文化人や僧侶が、各地域の有力大名と融合。京都のノウハウが地方で定着し、全国的な文化レベルの底上げが図られました。
明応の政変 戦国時代の始まり
ここでは、応仁の乱の後、どのようにして、戦国時代へとつながっていったかを見ていきます。応仁の乱(1477年終結)から15世紀末にかけての日本は、室町幕府の権威が失墜し、下克上(げこくじょう)の波が列島を飲み込んでいく「戦国時代への本格的な移行期」です。
まずは、この怒涛の時代の流れを年表で確認しましょう。
1477年、応仁の乱終結
約11年続いた大乱が終結するも、幕府の権威は地に落ち、京都は焼け野原となりました。
1485年、山城の国一揆
南山城の国人や農民が団結し、争いを続ける守護大名(畠山氏)を国外へ追放。
1488年、加賀一向一揆
加賀国の本願寺門徒らが守護・富樫政親を自刃に追い込み、事実上の自治を開始。
1493年、明応の政変
管領・細川政元がクーデターを起こし、10代将軍・足利義材(義稙)を追放。将軍のすげ替えが行われます。
1493年、北条早雲の伊豆討ち入り
明応の政変の混乱に乗じ、北条早雲が伊豆の堀越公方を滅ぼして伊豆を平定。戦国大名の先駆けとなります。
1. 室町将軍の流れ:失墜する権威
応仁の乱以降、将軍家は実権を失い、有力守護大名の傀儡(あやつり人形)となっていきます。
- 9代 足利義尚(よしひさ): 義政の子。応仁の乱が始まった当初は幼かったが、応仁の乱末期には、成人になっていた。そこで、義政は、義尚に将軍職を譲り、東山に隠居。大御所政治を展開した。地に落ちた幕府権力を取り戻そうと、近江(滋賀県)の六角氏(西軍)討伐に自ら出陣しますが、陣中で病没してしまいます(1489年)。
- 10代 足利義材(よしき): 義尚の死後、将軍に就任。美濃に身を寄せていた足利義視(西幕府将軍)の子である。実力者である管領・細川政元(東軍総大将の細川勝元の子)と対立を深めることになります。
2. 民衆と国人の台頭:幕府に頼らない自衛
幕府や守護大名が頼りにならないと悟った民衆や地元の武士(国人)たちは、自ら団結して国を治める「自治」を始めます。
- 山城の国一揆(1485年): 応仁の乱後も京都の南(南山城)で畠山氏が身内争いを続けていました。これにブチギレた地元の国人や農民が集会を開き、畠山両軍を撤退させ、以後約8年間にわたり自治を行いました。
ちなみに、大和(奈良)や河内(大阪)では、畠山家の身内争いは続いていた。特に大和では、越智家と筒井家の戦いが続いていた。 - 加賀一向一揆(1488年): 加賀国(石川県)で、浄土真宗(一向宗)の門徒たちが国人らと結びつき、守護の富樫政親を攻め滅ぼしました。「百姓の持ちたる国」と呼ばれ、以後約100年近く門徒による自治が続きます。
3. 明応の政変と北条早雲:戦国時代の幕開け
15世紀末の日本を決定的に変えたのが、「明応の政変(1493年)」です。
細川政元がクーデターを起こし、遠征中だった10代将軍・足利義材を廃して、11代将軍・足利義澄を擁立しました。家臣が将軍のクビを勝手にすげ替えるというこの大事件により、室町幕府の権威は完全に崩壊。歴史学的には、この年を「戦国時代の始まり」とするのが現在の主流です。
そして、この中央の政治的混乱(明応の政変)を千載一遇のチャンスと捉え、行動を起こしたのが北条早雲(伊勢宗瑞)です。 早雲は駿河(静岡県)の今川氏に身を寄せていましたが、1493年、幕府の出先機関である伊豆の堀越公方・足利茶々丸を襲撃し、伊豆を奪い取りました。単なる一介の素浪人ではなく、実は室町幕府の高級官僚の出身だったとも言われていますが、旧勢力を実力で打ち破り、領民を大切にする新しい統治を行ったことで、彼が「初の戦国大名」と呼ばれることになります。
このように、15世紀末は「幕府の権威が消滅」し、下層の者たちが実力で上を倒す「下克上」が全国に波及していった、まさに時代の大転換期でした。
義稙vs堀越公方
明応の政変。管領細川が、将軍を失脚させる。
伊勢宗瑞(北条早雲)が小田原城を乗っ取る
政治 室町幕府
中央
室町幕府
14世紀は、室町幕府の時代である。
幕府とは、軍事組織である。軍事組織には、仮想敵が存在する。それぞれの仮想敵は南だったのであろうか。
| 鎌倉幕府 | 室町幕府 | 江戸幕府 | |
| 仮想敵 | 平家の残党 源義経 奥州藤原氏 | 南朝 | 戦国大名 |
| 成立前の 戦乱 | 源平合戦 | 南北朝の動乱 | 戦国時代 |
| 所在地 | 鎌倉(関東・神奈川) | 京都(関西) | 東京(江戸) |
室町幕府は、南朝から京都を守るために成立した軍事組織である。そのため、南朝の吉野(関西・奈良)に近く、北朝のある京都に置かれた。
将軍足利家
室町幕府のトップは、足利将軍家である。室町幕府の政治は、将軍と有力守護の主導権争いである。将軍の役割は、主に3つあった。
1つ目は、有力大名間のバランサーの役割である。室町幕府は、有力守護の連合政権という側面が強い。将軍は彼らの利害関係を調整し、統制する役割を担いました。
2つ目は、外交と貿易の主体である。「勘合貿易」など外交のトップの役割を担った。貿易を独占することで、幕府は巨大な経済力を得た。
3つ目は、公家・朝廷の統制。義満以降、将軍は武家の棟梁であると同時に、朝廷の最高位(太政大臣など)も兼ねるようになり、公家社会や寺社勢力に対しても強力な支配権を持つようになった。
ここから15世紀の歴代将軍を見ていきましょう。
将軍と大御所
14世紀末から始まったのが、大御所政治である。大御所とは、生前に将軍職を後継者に譲って隠居した前将軍である。大御所政治では、大御所になって政治を行うシステムである。平安時代末期の院政の幕府版である。
大御所政治の目的は、後継者の指名である。自分が生きているうちに息子に将軍職を譲り、有力守護大名たちに次期トップを認めさせることにあった。これにより、死後のお家騒動を防ぐ狙いがあった。
大御所は、将軍職を譲っても実権を握り続けることが多かった。現役の将軍は形式的な儀式やなどを行い、重要な決定は裏にいる大御所にお伺いをたてる「二元政治」が行われた。これは、現代の「会長」と「社長」の関係に近い。
三管領
室町幕府は、鎌倉殿の13人のように、将軍と有力守護大名の合議で政治が進められた。
守護大名の筆頭は、管領と呼ばれた。
管領は、3つの有力守護で持ち回りされていた。鎌倉時代は、執権職を北条家が独占。鎌倉幕府は、北条家によって運営されるようになった。これを反省し、管領職は1つの家に独占されないようにした。しかし、家督争いで斯波家と畠山家が没落。応仁の乱以降は、細川家がほぼ独占した。
1つ目は、斯波家である。京都の東である名古屋(尾張)や福井(越前)などの守護であった。守護代も有名で、福井の朝倉氏や尾張の織田氏は後の有力守護大名になった。
2つ目は、畠山家である。寺社勢力の強い和歌山(紀伊)や京都(山城)、富山(越中)などの守護である。和歌山(紀伊)の統治は難しく、羽柴秀長などの有力文官が統治した。江戸時代には、御三家の一つ紀伊徳川家が治めた。
3つ目は、細川家である。四国4国や摂津(兵庫・大阪西部)の統治を行った。応仁の乱以降は、細川家が管領を世襲した。
四職
中央の組織には、管領の下に4つの部署が設置された。
- 政所 幕府の財政管理・京都の行政
- 侍所 京都の警備・刑事裁判
- 問注所 行政・司法の文書の作成保管管理
各部署の筆頭は、所司(しょし)と言われた。特に重視されたのが侍所所司である。これは、四家が持ち回りとされた。
1つ目は、京極家。出雲などの中国地方の守護を務める。
2つ目は、山名家である。但馬などの中国地方の守護を務める。
3つ目は、赤松家である。播磨など中国地方の守護を務める。
4つ目は、一色家である。三河など東海地方の守護を務める。
直轄軍、奉公衆
室町幕府は、将軍の直轄軍である奉公衆がいた。本能寺の変で織田信長を討つ明智光秀は奉公衆出身である。
守護大名を成敗するときに使ったのが奉公衆である。平時は、幕府の直轄地である御料所の管理を行った。
鎌倉公方と関東管領
鎌倉公方は、鎌倉と関東の武士(坂東武者)の管理のために置かれた。初代将軍足利尊氏の子の持氏が就任した。その後世襲された。
その監視役として、関東管領を設置。有力守護大名の上杉家が世襲した。
さらに、山梨に甲斐武田家、静岡(駿府)に今川家をおき、関東の反乱を防止した。
14世紀末、将軍家義満と鎌倉公方氏満が対立した。2人はいとこ同士の関係である。これにより、鎌倉公方は独自路線を進むようになる。この時、関東管領(上杉家)は将軍指示に回ったため、鎌倉公方と関東管領も対立するようになった。

14世紀末、3代将軍義満が息子の義持に譲位。大御所政治をはじめる。このこと、義満は、有力守護大名の力を削ぐ政治を行った。そのため、反発も大きかった。
当時の鎌倉公方は、氏満の子の満兼(みつかね)である。義満から満の文字をもらっている。将軍義持とは、はとこの関係である。鎌倉公方の満兼は、将軍に反発する有力守護大名たちを味方につけて、将軍になろうとした。しかし、関東管領(上杉家)が諌めた。鎌倉公方の満兼は、三島大社に恭順の意を示す奉納を行った。
15年、鎌倉公方に、満兼の子である持氏(義持の持の字をもらう)が就任。関東管領上杉禅秀と評定で口論。上杉禅秀は、関東管領を辞する。
翌16年、上杉禅秀は、関東管領の持氏の叔父をかついで反乱を起こす。上杉禅秀の乱である。
その後、若い関東管領が続いた。そのため、持氏は、独裁的な政治を行うようになった。関東の武士たちは、鎌倉公方に不満を持つようになっていった。
幕府は、将軍の度重なる死去と正長の土一揆の混乱。関東に軍隊を送る余裕はなかった。
38年、鎌倉公方持氏の子の元服の儀が行われた。慣例に従えば、現将軍義教の「教」の文字が使われるはずであった。しかし、発表された名前は、「義久」であった。「教」の文字が使われないばかりか、将軍家しか使わない「義」の文字が使われた。
これを受けて、関東管領の上杉憲実が挙兵。鎌倉公方に不満を持ってい関東の武士たちはこれに呼応した。また、裏で、将軍義教も支援していた。
将軍の義教は、実子の政知(まさとも)を鎌倉公方にしようとした。しかし、結城氏などの関東の武士たちは、持氏の子である成氏(なるうじ)を鎌倉公方につけようとし、対立。
守護から守護大名へ
守護大名
室町幕府の成立時は、南北朝の動乱の時代である。両勢力とも、有力武士の引き抜き合戦が行われた。その経緯で、有力武士である守護の権限が大きくなった。ここから守護は、守護大名と呼ばれるようになった。
| 守護 | 守護大名 | 戦国大名 | 大名 | |
| 時代 | 鎌倉時代 13世紀 | 室町時代 14世紀〜15世紀 | 戦国時代 16世紀 | 江戸時代 17世紀〜19世紀前半 |
| 任命 | 幕府 | 幕府 | 実効支配 | 幕府 |
| 生活拠点 | 領地 | ほとんど在京 | 領地 | 領地と江戸を参勤交代 |
守護の統治の仕方
室町時代に大きな力を持った「守護大名」ですね。彼らは、単なる警察長官のような役割だった鎌倉時代の「守護」から、一つの国(令制国)を丸ごと支配する領主へと成長した存在です。
歴史の大きな流れ(100年単位の視点)で見ると、鎌倉時代の「分散的な支配」から、戦国時代の「完全な地域独立」へと向かう過渡期に生まれた統治システムと言えます。
それぞれのポイントを整理して解説します。
鎌倉時代の守護との違い
大前提として、鎌倉時代の守護と室町時代の守護大名では、持っている権力が全く異なります。
| 特徴 | 鎌倉時代の「守護」 | 室町時代の「守護大名」 |
| 権限 | 軍事・警察権のみ(大犯三カ条) | 軍事・警察権 + 行政・経済権 |
| 土地支配 | 土地そのものの支配権はなし | 領国全体を実質的に支配(一国一円支配) |
| 居住地 | 任国(地方)に赴任 | 基本的に京都に居住(幕府の政治に参加) |
1. 権限:警察から「国のトップ」へ
鎌倉時代の守護は「大犯三カ条(京都の警護、謀反人の逮捕、殺害人の逮捕)」という軍事・警察権しか持っていませんでした。しかし、室町幕府は彼らに新たな権限を与え、国を統治する権力を強めました。
- 半済令(はんぜいれい): 荘園や公領から上がる年貢の「半分」を、武士に与える権利。最初は戦争時の兵糧確保という名目でしたが、後に恒久化し、守護が土地の経済権を握る決定打になりました。
- 使節遵行権(しせつじゅんぎょうけん): 幕府が下した土地の裁判の判決を、現地で強制執行する権利。これにより、現地の武士たちは幕府ではなく「守護」の顔色をうかがうようになります。
2. 収入源:土地と税をコントロール
権限の拡大に伴い、収入源も多様化し、莫大な富を築くようになりました。
- 半済による年貢: 前述の通り、本来は貴族や寺社のものである年貢の半分を徴収できました。
- 守護領(直轄地): 謀反を起こした者の土地を没収したり、半済を推し進めたりして、自らの直轄地を拡大しました。
- 段銭(たんせん)・棟別銭(むねべつせん): 田んぼの面積(段)や、家屋(棟)ごとに臨時にかける税金。天皇の即位や幕府の行事などを名目に、領民から直接税を徴収する権利を得ました。
- 関所の通行税: 交通の要所に関所を設け、商人から税を取り立てました。
3. 主な仕事:京都での政治と地方の統治
守護大名は、地方のトップでありながら「在京の原則」があり、基本的には京都の室町第(将軍の御所)の近くに住んでいました。
- 幕府の政治への参加: 将軍を補佐し、幕府の重要な会議に参加すること。特に有力な守護大名は「管領(かんれい)」などの重職に就き、国政を動かしました。
- 領国の治安維持と裁判: 自分の任国のトラブルを解決し、治安を守ること。
- 軍役: 幕府からの命令があれば、任国の武士たちを動員して軍隊を編成し、反乱の鎮圧などに向かいました。
4. どんな人がなったの?
大きく分けて「足利将軍家の親戚」か「鎌倉時代からの有力な武士」のどちらかです。
- 足利一族(親戚): 斯波(しば)、細川、畠山など。彼らは幕府のナンバー2である「管領」を交代で務めました(三管領)。
- 足利一族の有力家臣: 山名、一色、赤松、京極など。彼らは軍事・警察のトップである「侍所」の長官を務めました(四職)。
- 鎌倉時代からの有力御家人: 大内、少弐、佐々木など。室町幕府に従い、そのままその地域の守護として認められたケースです。
5. 守護と守護代や国衆との関係(下剋上への火種)
ここが室町時代の最も面白く、かつ複雑な部分です。
- 守護代(しゅごだい): 守護大名は京都に住まなければならないため、任国には「自分の代理人」を派遣しました。これが守護代です(例:尾張の守護・斯波氏に対する、守護代・織田氏)。
- 国衆(くにしゅう・国人): その土地に昔から土着している地元の武士たち。毛利氏や長宗我部氏などがこれに当たります。
【関係性の変化と崩壊】
守護大名は、地元の国衆たちを自分の家臣に組み込もうとしました(被官化)。しかし、守護本人は京都で優雅に政治をしているため、地元で実際に汗を流して国衆たちをまとめ上げ、領地を管理していたのは「守護代」です。
やがて時代が下り、応仁の乱などで幕府の権威が落ち、京都の守護大名の力が弱まるとどうなるか。
家督争い
14世紀に入ると耕地が不足し、相続は分割相続から単独相続へと移行しました。その結果、15世紀には土地トラブルの大部分が相続を巡る争いとなりました。
室町幕府における「御恩(領地の保障)」と「奉公(軍事・警察)」という関係において、幕府の役割は次第に「後継者の指名」へと重きを置くようになります。家臣たちは幕府の権威を利用するため、将軍の側近や有力守護に接近し、後継者指名を勝ち取ろうと尽力しました。応仁の乱が長期化した背景には、畠山家や斯波家をはじめ、当時の諸家の家督争いが複雑に絡みっていたことがあります。
血縁から地縁へ
守護大名から戦国大名へ
応仁の乱以降、京都では戦乱が続いた。そのため、京都にいた有力守護は、領地に目を配る余裕がなくなった。
守護代や国人は、幕府や守護を無視するようになった。このようにして、実質的に守護大名のようになった。このような守護代や国人を戦国大名という。
斯波家の守護代であった福井(越前)の朝倉家や名古屋(尾張)の織田家が一例である。
毛利家は、中国地方の国人から戦国大名になった。
静岡(駿河)の今川家や山梨(甲斐)の武田家のように、領地にいた守護大名は、そのまま戦国大名になったケースが多い。
将軍と大御所
朝廷
外交)勘合貿易
勘合貿易
永楽帝
間宮林蔵
沖縄 琉球王国の成立
03年、アメリカ船が長崎に来航
ロシアのレザノフ
北海道 コシャマインの戦い
経済
幕府の財政
武士の収入源は、地頭として管理する土地の収益である。そのため、幕府は、武士に対して給料を払う必要はない。それでも、幕府を運営する経費は発生する。
幕府を運営する経費や将軍の給料は、幕府の直轄地(御料地)からの収入で賄われた。
ただ、幕府の主たる税収はこの他に2つあった。
1つ目は、金融業者(酒屋・土倉)への税金である。
2つ目は、通行税である。陸上交通では、主要な街道に関所を設置。関所を通過するものから通行料(関銭)を徴収した。海上交通では、港の使用料(津料)を徴収した。
一揆
14世紀に入ると、貨幣経済が武士だけでなく農民まで浸透した。農民も借金をするようになった。特に商業の発展した近畿地方で多かった。
資金の貸し手の中心は、寺社や商人であった。商人では、土倉(どそう)や酒屋が金融業者の役割を担った。
28年、西日本で大凶作が発生。これにより、借金で首が回らなくなる農民が急増。正長の土一揆が起こる。
正長の土一揆で多くの借金の棒引きが行われた。これを以降、一揆の件数は急増する。
現在も、借金で首が回らなくなったら、民事再生法や自己破産によって借金を帳消しや減免が可能になっている。