もくじ
前回の復習 16世紀後半の日本
16世紀は戦国時代である。16世紀半ばに織田信長が桶狭間の戦いで勝利。織田信長が室町幕府を滅ぼし、畿内(京都近郊)を安定化。信長の跡を継いだ豊臣秀吉が、惣無事令を出し、その後に天下を統一。
16世紀前半の国際情勢
16世紀は、大航海時代である。マゼランが世界一周を果たす。
アジアでは、インドのゴアに拠点をおいたポルトガルが明王朝(中国)などと交易を行っていく。
ヨーロッパでは、ルターの「95箇条の論題」を皮切りに、宗教改革が始まる。
戦国時代
戦国時代の語源
戦国時代とは、室町幕府が権威を失い、地方の有力者が自治を行っていた時代である。
戦国時代は、当時の貴族の日記にも表現されている。当時の現状を古代中国の戦国時代のようだといったのが始まりである。
紀元前5世紀、中国は周王朝が衰退し戦乱の時代に入ったいた。これを春秋戦国時代という。周王朝は、室町幕府同様に地方の土地を有力者(諸侯)に任せていた。その後、諸侯たちが互いに勢力争いを行うようになった。これが春秋時代であった。しかし、周王朝の権威は保たれていた。しかし、紀元前5世紀に入る頃には周王朝は事実上滅亡。周王朝というストッパーがなくなり戦乱は加速した。これが戦国時代である。前漢末期の学者劉向(りゅうきょう)が『戦国策』という歴史書で、この時代を戦国時代と名付けた。
16世紀前半の歴代足利将軍と将軍家の分裂
明応の政変(1493年)以降、足利将軍家は「義稙系」と「義澄系」に分裂し、細川管領家の権力闘争に担ぎ上げられる傀儡(かいらい)状態が続きました。
- 第10代 足利義稙(義材 / 1508〜1521年再任)
大内義興や細川高国に擁立されて復権を果たすも、後に高国と対立して京都を出奔し、阿波で病没。 - 第11代 足利義澄(1494〜1511年)
細川政元によって擁立されたが、義稙派の反撃を受けて近江へ逃亡し、復権を果たせぬまま病死。 - 第12代 足利義晴(1521〜1546年)
義澄の嫡男。細川高国に擁立されて就任。細川晴元や三好勢力との抗争により、生涯に幾度も京都を追われ近江・桑実寺などに幕府を移転。 - 第13代 足利義輝(1546〜1565年)
義晴から幼少で将軍職を譲られる。三好長慶の台頭に対し、近江坂本などへ逃亡と帰京を繰り返しながら将軍権力の回復を模索。
細川家の家督争い(両細川の乱)
幕政の最高権力者であった細川京兆家(管領家)の分裂が、幕府の統治機構崩壊を決定づけました。
| 主な出来事 | 年代 | 概要 |
| 永正の錯乱 | 1507年 | 管領・細川政元が養子問題のもつれから暗殺される。これにより細川澄之・細川澄元・細川高国の3派による泥沼の内乱が勃発。 |
| 高国派 vs 澄元・晴元派 | 1508〜1530年 | 足利義稙を担ぐ細川高国が実権を掌握するも、阿波を拠点とする細川澄元・晴元父子が阿波三好氏の軍事力を背景に反撃を継続。 |
| 大物崩れ(だいもつくずれ) | 1531年 | 細川晴元・三好元長連合軍が、再起を図った細川高国を摂津大物で撃破(高国は自害)。細川晴元政権が成立。 |
三好家の台頭と畿内支配の進展
阿波細川家の重臣であった三好氏は、畿内への軍事動員を繰り返す中で主家を凌ぐ勢力へと急成長を遂げました。
- 三好之長・三好元長
細川澄元・晴元を支えて畿内へ進出。しかし、軍事力拡大を警戒した細川晴元や本願寺勢力(一向一揆)と対立し、元長は1532年に自害へ追い込まれる(飯盛城の戦い・享禄の錯乱)。 - 三好長慶の下剋上
元長の嫡男・長慶は晴元と和解して勢力を回復。1549年の「江口の戦い」で晴元派の三好政長を討ち、細川晴元と将軍・足利義晴・義輝父子を京都から追放。 - 三好政権の樹立
室町幕府の管領制を事実上形骸化させ、大名権力として畿内を直接支配する「三好政権」を確立。
16世紀前半の戦国大名と幕府・朝廷の関係
地方の戦国大名たちは領国内の独自支配(分国法制定など)を進めて自立を強める一方、権威としての幕府・朝廷を実利的に利用しました。
- 官位・役職の獲得と正統性の確保
守護職、相伴衆、関東管領などの幕府役職や、朝廷からの官位を望んで幕府・朝廷へ献金。領国統治や近隣大名との領地争奪における「大義名分」として権威を利用。 - 幕府による外交権・調停機能の限定的維持
軍事力を喪失した幕府であったが、大内氏を通じた勘合貿易の管理や、大名同士の紛争調停(和議の仲介)役としては依然として一定の政治的価値を保持。 - 経済的依存と権威の切り売り
幕府および朝廷は財政難に陥っていたため、所領安堵や栄典授与の対価として大名からの段銭・礼銭(献金)に依存する構造が定着。
16世紀前半の室町幕府は、将軍家と管領家の度重なる内部抗争により自前の軍事・政治基盤を失い、1549年の三好長慶による畿内掌握をもって「幕府中枢が有力大名によって京都から完全に排除される」という決定的な衰退期を迎えました。
下剋上
室町時代は、将軍と有力守護大名の連合政権であった。有力守護大名は、京都で政治を取り仕切り、領地には家臣である守護代を置いていた。
応仁の乱以降、京都で戦乱が続く有力守護大名は、領地を監視する余力を失った。そのため、守護代や国人らは守護大名を追放し、実力で統治するようになった。これが戦国大名である。
鉄砲とキリスト教
1543年、種子島に漂着したポルトガル人によって鉄砲(火縄銃)が伝えられました。国産化が進んだ鉄砲は戦術を一変させ、足軽による集団射撃戦を生み出して戦国時代の統一事業を大きく加速させました。
一方、1549年にはイエズス会の宣教師フランシスコ・ザビエルが鹿児島に上陸し、キリスト教を伝えました。南蛮貿易による利益を求める戦国大名(キリシタン大名)の保護を受けて急速に広まり、西洋の学問や文化をもたらしました。
これら二つの伝来は戦国社会の軍事や文化を大きく変革させ、のちの織豊政権による天下統一や江戸幕府の鎖国政策へとつながる重要な契機となりました。
政治
戦国大名とは
戦国大名とは、幕府に変わって独自に地域の武士と主従関係を結び、独自に領地(領国)を支配した。
守護大名との違い
守護大名は、幕府や鎌倉公方が任命していた。一方で、戦国大名は、将軍や朝廷の権威付けはあったものの、力によって地位を確保していた。
- 国司(奈良時代・平安時代初期)律令制が成立すると、律令国二分割。各国に中央(京都・奈良)から派遣した。
- 受領(国司)(平安時代)
- 守護(鎌倉時代)
- 守護大名(室町時代)
- 戦国大名(戦国時代)
- 大名(江戸時代)
- 知事(明治時代〜戦前)
- 知事(戦後)
どうすれば、戦国大名になれるの?
戦国大名とは、室町幕府の権威が失墜したのち、自らの実力によって一円的な領国支配(地域国家の統治)を確立した領主を指します。
各論点の整理は以下の通りです。
1. どのような出自の人が戦国大名になったのか?
戦国大名の出自は多様ですが、大きく4つの出自・成立パターンに分かれます。
- 守護大名の変質(守護出身)
- 室町幕府から任命されていた守護が、幕府権力に頼るのをやめ、自力で国人(在地領主)を家臣団に組み込んで戦国大名化したケース。(例: 今川氏、武田氏、島津氏など)
- 守護代・重臣の下剋上(守護代・奉行出身)
- 守護が京都に常駐して不在がちになる中、現地で実務を取り仕切っていた守護代や重臣が、主家を倒したり実権を奪ったりして成り上がったケース。(例: 織田氏、朝倉氏、長尾=上杉氏など)
- 在地領主の台頭(国人出身)
- 地方の有力武士(国人)が、近隣の領主たちと同盟を結んだり武力で従属させたりして急速に勢力を拡大したケース。(例: 毛利氏など)
- 浪人・素性不明からの台頭
- 中央の権力基盤を持たない立場から、軍事力・知略・婚姻・乗っ取りなどを駆使して領国を奪い取ったケース。(例: 北条早雲=伊勢宗瑞、斎藤道三など)
2. 当時の人々に「戦国大名」と認められる条件
当時「戦国大名」という言葉自体があったわけではありませんが、周囲(家臣・民衆・隣国)から「その地域の正当な支配者(主権者)」として認められるには、次の3要素が不可欠でした。
| 条件 | 具体的な支配の実態 |
| 土地・軍役の統制 | 家臣の所領を把握(検地・指出検地)し、石高や貫高に応じた軍役(兵力・武器の供出義務)を課して主従関係を固定する。 |
| 司法・治安の自立 | 分国法(独自の法律)を制定し、私闘を禁じる「喧嘩両成敗」などを通じて、大名自身が裁判権・治安維持権を一手に握る。 |
| 民政と経済基盤の確保 | 治水・開墾による農業生産の安定、鉱山開発、城下町の整備や市場の保護(楽市・関所撤廃の端緒)を行い、民衆や商人を保護・掌握する。 |
単に武力が強いだけでなく、「幕府や荘園領主を通さず、その地域の治安・裁判・経済を自前で維持・保証できる存在」になることで、支配の正当性を獲得しました。
3. なぜ戦国時代は戦い(戦争)が多かったのか?
戦乱が日常化した背景には、統治構造と経済の両面に根本的な要因がありました。
- 中央の調停システム(室町幕府)の崩壊
- 応仁の乱以降、幕府が領地争いや後継者争いを裁定・強制執行する力を失ったため、すべての紛争解決が「自力救済(武力による直接解決)」に委ねられました。
- 「恩賞」のための領土拡大圧力(経済的動機)
- 家臣団をつなぎとめる最大の原動力は「戦功に対する恩賞(新しい領地)」でした。領地を与え続けられなければ家臣が離反・謀反を起こす構造だったため、外へ攻め込んで領土を広げ続けざるを得ませんでした。
- 防衛のジレンマ(やられる前にやる構造)
- 明確な国境線や国際法のような不可侵条約が存在しないため、隣国が強大化すれば自国の滅亡に直結しました。勢力均衡を保つための予防戦争や同盟の組み換えが連鎖しました。
- 気候変動と飢饉の影響
- 15〜16世紀は小氷期にあたり、冷害や飢饉が頻発しました。食糧や農地、水源、物流ルート(港や街道)の確保を巡る奪い合いが激化したことも戦乱を加速させました。
戦国大名と家臣団
戦国大名は、鎌倉以来の個人的・血縁的な主従関係を脱却し、土地・軍事・法・都市空間を一体化した合理的な統治システムを構築することで武士(家臣団)を統制しました。
指定の各要素による支配のメカニズムは以下の通りです。
1. 土地と軍役の把握:差出検地
各大名は家臣に対し、領地の面積・収穫量(貫高や石高)・農民数・年貢額などを自己申告させる差出検地(指出検地)を実施しました。
- 目的: 家臣が隠し持っている実質的な経済力を洗い出し、大名公認の「公定石高(貫高)」を確定させる。
- 効果: 割り出した所領規模に基づき、軍役(動員すべき兵数・武器・兵粮)を数値として厳密に義務付けました。これにより、軍事動員が主観的な忠誠心から「数値化された契約」へと移行しました。
2. 軍事と行政の再編:寄親寄子制
地縁・血縁でまとまり勝手に行動しがちだった地元の武士(国人・地侍)を解体・再編成する仕組みです。
- 構造: 有力な重臣を「寄親(よりおや)」、その配下に地侍層を「寄子(よりこ)」として疑似的な親子関係を結ばせました。
- 効果: 大名 ➔ 寄親 ➔ 寄子 という明確な指揮命令系統(ピラミッド型組織)を構築。反乱の芽を摘みつつ、大規模な集団戦に対応できる強固な軍事編成を実現しました。
3. 経済的支配:御恩と奉公/給与制度
鎌倉時代からの「御恩と奉公」は、より現実的かつ大名主導の給与システムへと変化しました。
- 知行制(土地による給与):軍功に応じた新領地の給付(御恩)と引き換えに、軍役や普請役(奉公)を課しました。従来の「先祖伝来の土地を守る」意識から、「大名から預かった給与地」という認識へ変質させました。
- 蔵米知行・俸禄制(米や金銭による給与):土地そのものを与えるのではなく、大名の直轄地から収穫された米や現金を直接支給する形態も拡大しました。これにより、家臣が土地に根を張って独立勢力化するリスクを抑えました。
4. 規律と私闘の抑止:分国法
各大名は自国の実情に合わせた独自法(分国法/家法)を制定し、領主間の関係を明文化しました。
- 喧嘩両成敗: 理由の如何を問わず私闘(プライベートな復讐や土地争い)を厳禁とし、違反者は双方処刑としました。裁判権・警察権を大名が一手に独占するための根幹ルールです。
- 私婚・私的な同盟の禁止: 大名の許可のない婚姻や他国との連絡を禁じ、家臣同士が結託して派閥を作ったり離反したりするのを防ぎました。
5. 合意形成と統制:評定(会議体)
大名は絶対君主として独断専行したわけではなく、重臣たちによる評定(ひょうじょう)と呼ばれる合議制を活用しました。
- 機能: 軍事方針の決定、領土配分、民事・刑事裁判の審理などを行いました。
- 効果: 家臣団の意見を吸い上げて納得感を担保しつつ、大名の決定を「家臣団全体の総意」として正当化し、求心力を維持しました。
6. 物理的な隔離と専業化:城下町と集住
武士をそれぞれの領地(農村)から引き剥がし、大名の居城周辺に建設した城下町へ強制的に住まわせる(集住政策)が進められました。
| 政策の影響 | 具体的な統制効果 |
| 軍事の即応性向上 | 家臣が一箇所に集まっているため、合戦時の動員スピードが飛躍的に上がった。 |
| 土着・反乱の防止 | 武士と農民・領地を物理的に切り離し、在地での勢力拡大や一揆への加担を封じた。 |
| 兵農分離の端緒 | 武士は都市生活者(専業軍人・官僚)となり、農民は農業に専念する体制へと分業が進んだ。 |
統制メカニズムの相関
【経済・軍事の基準化】
差出検地 ──▶ 所領・貫高の確定 ──▶ 厳格な軍役の賦課
│
【組織・規律の固定】
寄親寄子制(ピラミッド型編成) + 分国法(私闘禁止・裁判独占)
│
【生活空間の統合】
城下町集住(農村からの切り離し・常備軍化・専業官僚化)
戦国大名は、単なる武力による威圧ではなく、「土地の定量把握」「組織の階層化」「法の独占」「都市への集住」という制度改革を重層的に組み合わせることで、自立性の高かった武士たちを「大名権力に従属する家臣団」へと再編していきました。
領国の経営
戦国大名と領民(農民)の関係は、それまでの「荘園領主による重層的で曖昧な支配」から、大名が直轄地として一元的に掌握し、生産力を徹底的に管理する仕組みへと大きく変貌しました。
1. 税金(年貢)の仕組みと負担の実態
戦国大名は、領内の経済基盤を安定させるため、多重構造だった税体系を整理し、大名権力へ一極集中させました。
- 「指出検地」による正確な課税把握農民や在地領主に自分の田畑の広さや収穫量を自己申告させ、それを大名側が調査・確定(検地)しました。これにより、誰がどこでどれだけ生産しているかが可視化され、公平かつ確実な徴税が可能になりました。
- 年貢(本途物成)の徴収基本的には収穫された米(または銭)の一定割合を納めさせました。よく言われる「四公六民(収穫の4割を税とし、6割を農民の手元に残す)」などは目安であり、実際の比率は大名や地域、作柄によって変動しました(時には五公五民やそれ以上になることもありました)。
- 年貢以外の多様な負担(諸役・夫役)
- 雑公事(ぞうくじ)・諸役: 通行税や市場税、臨時の臨時課税など。
- 夫役(ぶやく): 労役の義務。城の普請(建設・修繕)や道路・橋の整備、河川の治水工事などに駆り出されました。
2. 戦国大名の農業政策と領民統治
戦国大名にとって農民は、「兵糧(コメ)を生産し、兵力の源泉となる最も重要な財産」でした。そのため、保護と厳しい管理が表裏一体で行われました。
- 生産基盤の拡大(新田開発と治水)
- 荒れ地の開墾や新田開発を奨励し、時には税を免除する優遇措置(免税特権)を与えて開墾を促しました。
- 河川の氾濫を防ぐための堤防築造や用水路の整備など、大規模な治水・灌漑工事を国家事業として主導しました(例:武田氏の信玄堤など)。
- 村落共同体(惣村)の再編と末端支配
- かつての農民は自分たちで自治組織(惣村)を作り自立していましたが、戦国大名はこれを取り込みました。
- 村の代表者(名主・庄屋・年寄など)を通じて、村全体に年貢の納入や犯罪の連帯責任(五人組など)を負わせる郷村制を敷きました。
- 農民の保護と移動の制限(人返し・掠奪の禁止)
- 他国との戦争の際、敵国の農民を拉致したり、自国の農民が逃亡したりすることを厳禁としました。労働力不足は直ちに大名の国力低下に直結するためです。
- また、自国領内での無断の私闘や暴力から農民を法(分国法)で保護し、農業に専念できる環境を作ることで安定的な税収を確保しました。
戦国大名の経済力
戦国大名の財政は、現代でいえば「ベンチャー軍事国家の会社経営」に似ています。主な収入源、使い道(支出)、そしてお金を増やすための経済政策をシンプルに整理しました。
1. 戦国大名の「収入」(どこからお金が入るか)
大名の収入源は、米(農業)だけでなく、商業や鉱山など多岐にわたりました。
- 年貢(米・お金)
- 最大の収入源。農民から収穫物(主に米)や銭を税金として徴収しました。
- 商工業・流通からの税(通行税・市場税)
- 領内を通る荷物や船、街道の関所、港、市場の売買などにかける各種の手数料や税金。
- 鉱山(金・銀・銅・鉄)の直営収入
- 領内に金山・銀山などがあれば直轄地とし、採掘した貴金属を直接大名の財源にしました。
- 神社仏閣や豪商からの献金・借入
- 有力な商人や寺社から「礼金」としてお金を集めたり、軍資金を借り入れたりしました。
- 戦争による略奪や敵からの賠償
- 敵地から奪った兵糧や金品、講和の際に支払わせる金銭も臨時収入になりました。
2. 戦国大名の「支出」(どこにお金が出ていくか)
支出の圧倒的多数は「軍事」と「家臣の維持」に消えていきました。
- 軍事費(最大の出費)
- 兵糧(食料): 何万人もの兵士や軍馬が食べる米や干し肉・味噌の確保。
- 武器・装備: 槍、弓、鎧、鉄砲(高価な火薬・鉛玉を含む)の購入・整備。
- 家臣への給与・報奨(人件費)
- 手柄を立てた武士へのボーナス(銭や米、金銀の贈呈)。
- 公共事業・インフラ投資(土木費)
- 城の築城・改修、水害を防ぐ堤防工事、道路や橋の建設。
- 外交・朝廷工作費(交際費)
- 朝廷や幕府への献金(官位や権威をもらうため)、他国の大名への贈答品。
3. 戦国大名の「経済政策」(どうやって領内を富ませたか)
戦争に勝ち続けるには「兵站(補給)と資金力」が不可欠だったため、大名は経済を活性化させる様々な仕掛けを行いました。
| 政策 | ねらいと具体的な施策 |
| 楽市・楽座(商業の自由化) | 旧来の商人ギルド(座)による独占や税を撤廃。誰でも自由に商売できるようにして、全国から商人やモノを自分の城下町に呼び込む。 |
| 関所の撤廃・街道整備 | 領内の通行税(関所)をなくし、道路や橋を整備して人やモノの流れをスムーズにする。 |
| 通貨・度量衡(単位)の統一 | 質の悪い「悪銭」を排除して流通を整え、重さや長さ、枡(ます)の規格をそろえて取引を公正にする。 |
| 新田開発と治水(農業振興) | 堤防を作って洪水を防ぎ、水路を引いて新しい田んぼ(新田)を増やし、ベースとなる米の収穫量を底上げする。 |
| 金銀山の開発・技術導入 | 最新の採掘・精錬技術を導入して金・銀の生産量を飛躍的に増やし、貿易や軍資金の原資にする。 |
まとめ
戦国時代の強さとは、単に「戦上手な武将がいること」ではなく、「農業と商業を両輪で回して効率よく稼ぎ、それを無駄なく軍事力へ変換できる経済システムを持っていたこと」でした。
各地の情勢
京都 なぜ、義昭は信長を頼る必要があったのか?
織田信長が上洛した理由は、足利義昭を将軍にするためでした。では、なぜ足利義昭は織田信長に応援を要請したのでしょうか?
応仁の乱以降、将軍は2つの家系が争っていた。京都の足利義視の家系と堀越公方の足利政知の家系であった。そして、将軍は、時の有力者が事実上決定していた。
15世紀初頭の有力者は、当初は細川家(細川京兆家)であったが、15世紀なかばには、細川家の家臣であった三好家に移っていた。
始まりは、明応の政変である。管領の細川政元は、足利義材(京都系)を追放し、足利義澄(鎌倉系)を将軍に迎えた。
管領は、室町幕府のNo2のポジションである。三管領という細川家、斯波家、畠山家の三家から選出された。しかし、斯波家と畠山家は、応仁の乱時の内紛で衰退。応仁の乱以降、細川家が代々引き継いでいた。細川家は、四国の有力守護大名である。
細川宗家(細川京兆家)の細川政元には、子どもがいなかった。そのため、3人の養子を迎えた。五摂家(九条家)から澄之を迎え、正式な後継者とし、その補佐役で四国(阿波)の分家から澄元と畿内(野州家)の分家から高国を迎えた。細川澄元は、三好家ら四国の家臣団を引き連れて上洛。政元は、後継者を澄之から澄元へ変更(廃嫡)。澄之支持派が養父の政元を暗殺した。(永正の錯乱)。
澄之暗殺事件が起こると、澄元は、高国とともに澄之はを一掃。澄元が後継者になった。ここで発言力を持ったのが、四国からともに上洛した三好之長である。反三好派の家臣たちは、冷遇されたため、高国のもとに終結していた。
この混乱時に、山口県の大内義興氏は、追放された京都系の足利義材(義稙)を奉じて上洛。細川高国らの反三好勢は、三好勢を追放した。
| 勝ち | 負け |
| 足利義稙⑩(義視の子) ▶ 将軍の子 | 足利義澄⑪(堀越公方、政知の子) ▶近江へ追放(近江公方) |
| 細川高国(管領) | 細川澄元 ▶阿波へ帰国 |
| 大内義興(山口の守護) |
中国地方の混乱から、大内義興が帰国。これにより、将軍足利義稙と管領細川高国の関係が悪化した。そのような中、阿波の細川政元・三好之長が再び上洛。足利義稙は細川高国と手を切り、細川政元と結んだ。しかし、細川高国は、近江の六角氏、越前の朝倉氏と結んでこれを撃退。三好之長は処刑。細川澄元は、阿波へ帰国し、そのまま病死。義稙も堺へ逃亡した(堺公方)。高国は、近江から義澄の子である足利義晴を将軍に迎える。
| 将軍(足利義稙、足利義視の子) ▶負け(堺公方へ) | 管領(細川高国) |
| 細川澄元 ▶阿波に戻り、病死 三好之長 ▶処刑 | 足利義晴(鎌倉公方足利政知の子) ▶近江から迎える 近江六角氏など近隣の諸大名 |
細川高国は、家臣を誅殺したことで、多くの家臣が不満を持つようになった。其の隙をついて、阿波から、細川晴元(澄元の子)と三好元長(三好政元の孫)が上洛。細川高国を追放した(大物崩れ)。将軍足利義晴と細川高国は、近江に逃れた。細川晴元は、義稙(堺公方)の養子の足利義維を将軍に迎えた。しかし、力を拮抗し、細川高国と細川晴元の京都の奪い合いが続き、政権は安定しなかった。
| 細川高国(畿内派) ▶近江へ逃亡 | 細川義晴(四国派) |
| 将軍、足利義晴(近江へ逃亡) | 将軍、足利義維(堺公方) ▶足利義稙の養子 三好元長 |
細川高国がなくなると、細川晴元と三好元長が対立。細川晴元は、足利義維(堺公方)を切り捨てて、足利義晴(近江公方)を和睦した。三好元長は、細川晴元と連携した一向一揆に討たれた。足利義維は、阿波に逃れた(平島公方)。
細川晴元は、幕府を掌握したが、次の脅威が登場した。一向一揆である。そこで味方にしたのが、法華宗である。法華宗と一向宗を対立する一方で、山科本願寺を焼き払った。これにより、一向宗の拠点は、山科本願寺から石山本願寺に移る。
一向勢は、逆襲。細川晴元は、京都を脱出。近江六角氏の軍事力で、晴元は一向宗と和睦した。ちなみに、この頃、織田信長が誕生している。
今度は、法華宗の一揆が問題になった。近江六角氏や比叡山延暦寺によって、一掃した。
この頃、三好家の家督争いが始まる。三好家の当主は、晴元側についた三好政長であった。そのような中、三好元長の子である三好長慶が上洛する。
将軍足利義晴と細川晴元が対立。足利義晴は、高国の養子(細川氏綱)らと結び、対立した。細川晴元は、三好政長、三好長慶や近江六角氏などの協力で抵抗。将軍足利義晴は、子の足利義輝に譲位し、細川晴元と和睦した。
ここで、三好家の家督争いが表面化した。三好長慶は、高国の養子(細川氏綱)や四国の有力武将と結び、三好政長を討つ。三好政長を失った将軍足利義輝と管領細川政元が近江へ逃亡。三好長慶は京都を制圧。天下人になった。
この後の日本史をドラクエ風に言うと、足利将軍家(足利義輝)はラスボス(三好長慶)を討てる勇者(大名)を全国各地で探すことになる。その勇者になるのが織田信長になる。
東北 伊達家の台頭
室町幕府は、東北に羽州探題と奥州探題を設置した。羽州探題は最上家、奥州探題の大崎家が担当していた。その中で、台頭したのが伊達家である。
14年、伊達稙宗が家督を継承する。周辺大名を次々と参加にした。幕府は、伊達稙宗を陸奥守護に任命。23年に分国法『塵芥集』を制定。36年、奥州探題の大崎家の内紛に介入。
42年、伊達家で内紛。稙宗とその子晴宗が対立。48年、晴宗が主導権を握った。これは、天文の乱と言われる。この晴宗の子が伊達政宗である。この家督争いで晴宗をサポートしたのが蘆名氏である。また、仲裁に当たったのが足利義輝である。この内紛で、周辺の蘆名氏(会津)、相馬氏(いわき)、最上氏(米沢)が台頭してきた。
関東 北条家と上杉家
関東は、畿内に次ぐ重要拠点である。室町幕府は、この地に鎌倉府をおいた。そのトップは鎌倉公方とし、将軍家の分家が務めた。また、No.2 には関東管領が置かれ、上杉家が務めました。
15世紀、将軍家が断絶。足利義教が将軍に就任すると、将軍の地位を巡り、幕府と鎌倉公方が対立。関東の武将は、どちらにつくかが大きな問題であった。15世紀末には、鎌倉公方は、古河に拠点を置き、古河公方と呼ばれるようになった。関東は東西に分割され、東半分(千葉と茨城)が古河公方の勢力圏、西半分は関東管領上杉の勢力圏とした。
15世紀末の明応の政変で堀越公方の義澄が将軍に就任した。その堀越公方で、義澄の弟がクーデターで堀越公方に就任。将軍義澄は、追討軍を派兵した。それが伊勢宗瑞(北条早雲)である。
伊勢宗瑞は、そのまま伊豆を統治。扇谷上杉氏に接近した。上杉家は、北部の山内上杉家と南部の扇谷上杉家が対立していた。江戸城を統治していた扇谷上杉家の家宰(筆頭家老)の太田道灌が暗殺。これにより、多くの武士(国人)が山内上杉家に寝返っていた。
04年、立河原の戦いで山内上杉家と古河公方連合が侵攻。扇谷上杉氏は今川軍とともにこれを撃退した。伊勢宗瑞は当時、今川家の有力家臣の1人に過ぎなかった。07年、扇谷上杉家の本拠である。河越城が包囲。扇谷上杉氏が降伏。山内上杉家と扇谷上杉家の対立が終わる。
09年、永正の乱が起こる。永正の乱は、以下の内紛は複雑である。
- 古河公方の内紛
- 越後守護代の長尾為景の下剋上
- 山内上杉家の家督争い
古河公方は、鎌倉のNo2で関東の東側を勢力圏としていた。ここで、後継者争いが発生。父足利政氏と子足利高基が対立。後継者に弟の足利義明を指名した。
長尾為景は、上杉謙信の父である。当時の守護は、上杉房能であった。兄は、関東管領の上杉顕定である。きっかけは、長尾為景の父が越中一向一揆で戦死したことである。この時、上杉房能が援軍を送らなかったことが要因である。
山内上杉は2人の養子で分裂していた。1人は、越後上杉家から養子に入った顕実である。もう1人は、憲房である。憲房は、実権を握るため、古河公方や長尾家とつながるようになる。
07年、扇谷上杉家が山内上杉家に降伏した。この時、守護代の長尾為景が守護の上杉良房を襲撃。良房は自害した。長尾為景は、良房の娘婿の上杉定実を守護として迎えた。
09年、関東管領で良房の兄である上杉顕実が越後へ出兵。長尾為景は佐渡へ逃亡。しかし、再び越後にに上陸。越後の国人たちが長尾為景の支援をしたため、関東管領軍が敗走した。この戦で、関東管領の上杉顕定は戦死する。
この後、上杉顕実が家督を相続し、関東管領を引き継いだ。しかし、憲房はこれを認めなかった。憲房は、古河公方を剥奪された足利高基と連携した。
12年、足利高基が古河公方を奪回。このときに支援したのが下野(栃木)の宇都宮氏と常陸(茨城)の結城氏であった。弟の足利義明は、下総(千葉市)の小弓城に逃れる(小弓公方)。この家系が江戸時代の喜連川家である。この小弓公方を支えたのが下総(千葉県木更津市)の真里谷氏であった。山内上杉家では、足利高基と連携した上杉憲房が家督争いに勝利。家督も相続した。
伊勢宗瑞は、扇谷上杉氏の衰退を感じ、相模へ侵攻した。相模の大森氏、三浦氏を滅ぼし、16年に相模(神奈川県)を平定した。扇谷上杉家は、三浦氏滅亡で失意の内、当主が亡くなる。このあと、家督相続争いが発生し、衰退していく。19年、伊勢宗瑞、没。北条氏綱が家督相続。この時から、北条氏を名乗るようになる。
2代目の北条氏綱は、太田家を寝返らせ、江戸城を扇谷上杉家から奪う。これに対抗するため、扇谷上杉氏が北条包囲網を結成した。甲斐武田家、山内上杉家、古河公方(高基)が参加した。扇谷上杉家の家臣の里見家は、鎌倉に侵攻した。この戦いで鶴岡八幡宮が消失。氏綱はこの再建に尽力した。しかし、この包囲網は各家の内紛で失敗した。37年、扇谷上杉家の当主が河越城で病死。北条氏綱は、扇谷上杉家の河越城を奪う。
古河公方足利晴氏は、父の高基と対立した。古河公方に就任すると、弟(小弓公方)と安房(千葉南部)の里見家連合軍の侵攻を受ける。ここで支援を求めたのが、河越城を奪った北条氏綱であった。38年、北条氏綱は、第一次国府台の戦いで小弓公方・里見連合軍に勝利。小弓公方は滅亡した。
41年、北条氏綱が病死。北条氏康が家督相続。このときに、幇助包囲網が再結成
茨城県は、古河公方の家臣である佐竹家が戦国大名になった。
中部 武田家と今川家
中部の有力大名は、山梨(甲斐)の武田家と静岡(駿河)の今川家である。この2つの家系は、鎌倉公方の監視役の役割を持っており、守護代を置かなかった。そのため、守護大名からそのまま戦国大名になった。
武田家は、平安時代から続く源氏の名門である。武田信玄が戦国大名になり、長野(信濃)をめぐり、上杉謙信と川中島の戦いで戦った。
今川家は将軍足利家の分家である。
武蔵(東京・埼玉)の扇谷上杉家は、北条氏綱の侵攻に苦しんでいた。武田信虎(信玄の父)が支援した。21年、武田信玄が誕生。
一方、今川家の当主は、北条早雲の甥の氏親であった。氏親は、死が近づくと分国法『今川仮名目録』を制定。26年、氏親がなくなる。家督を引き継いだのが氏輝である。35年、北条家と同盟を結び、甲斐へ侵攻。しかし、翌36年、氏輝が死去。甲斐侵攻が止まった。その後、家督争い(花倉の乱)が勃発。この争いに勝利したのが今川義元である。
今川義元は、甲斐の武田家と同盟。これに反発したのが北条氏綱である。38年、北条氏綱は富士川まで領地を拡大した。
41年、武田信玄が父信虎を追放して、実験を握る。甲斐の国人たちは、強権的な信虎が追放されたことを歓迎した。
近畿東部、朝倉家、斎藤家、織田家
29年、三河の国人であった松平清康(家康の祖父)が三河を統一
34年、尾張の織田家で織田信長が誕生。35年、松平清康が家臣によって殺害。混乱に乗じて三河を侵攻する。
中国 大内家→毛利家
応仁の乱以降の中国地方では、室町幕府を支えた有力守護大名たちが内紛や下剋上によって次々と衰退し、新たな戦国大名が台頭する激しい権力再編が進みました。
かつて西軍の総大将として山陰・山陽に広大な領国を誇った山名氏は、一族の内紛や家臣の離反により但馬・因幡の限定的な勢力へと後退。出雲・隠岐の守護であった京極氏は、守護代・尼子経久の下剋上によって追放されました。山陽の播磨・備前・美作を治めた赤松氏も、家督争いや重臣・浦上氏の下剋上、尼子氏の侵攻を受けて形骸化します。さらに安芸の安芸武田氏は、大内氏や毛利元就との抗争で当主・武田元繁を失うなど打撃を重ね、1541年に居城・佐東銀山城を落とされて滅亡しました。
旧勢力が後退した16世紀前半は、周防の大内氏と出雲の尼子氏による二大勢力の覇権争いへと集約されます。この抗争をさらに激化させたのが、16世紀前半(1520年代後半)に本格開発され、灰吹法の導入で産出量が急増した石見銀山の存在でした。莫大な経済的・軍事的価値を持つこの銀山を巡り、大内氏と尼子氏は山陰・山陽の国人領主を巻き込みながら激しい争奪戦を繰り広げました。
安芸の小領主であった毛利元就は、両陣営の狭間で巧みに立ち回りながら勢力を拡大。16世紀半ば、大内氏で重臣・陶晴賢によるクーデター(大寧寺の変)が起きると、元就は1555年の厳島の戦いで陶氏を撃破します。続いて大内氏の残余領国を併合した毛利氏は、石見銀山の完全支配権を奪取して強大な財政基盤を確立。さらに月山富田城の戦いで尼子氏を滅ぼし、中国地方の大半を束ねる巨大勢力へと飛躍を遂げました。
こうして西国随一の戦国大名となった毛利氏は、中央で天下統一を推し進める織田信長と必然的に衝突することとなります。毛利氏が信長包囲網に加わり石山本願寺や足利義昭を支援したことで両者の対立は決定定的となり、信長の命を受けた羽柴(豊臣)秀吉による「中国攻め」へと突入していくことになります。
四国 長宗我部家
四国は、三管領家の細川家の勢力圏であった。
讃岐(香川)と土佐(高知)は、細川宗家(細川京兆家)が、阿波(徳島)は、分家の阿波細川家が統治していた。伊予(愛媛)は、河野家が統治していた。
讃岐と阿波は畿内に近いため、細川家が勢力を維持していたが、畿内と同様に三好家が勢力を誇るようになった。
土佐は、細川家の影響力を維持することが出来ず、国人たちが互いに勢力争いが展開していた。この状況を土佐七雄という。その中には、元公家の土佐一条家もあった。15世紀なかばには、西部の土佐一条氏、中部の長宗我部氏、東部の安芸氏に集約されていった。土佐一条家は、京都の文化を高知に使えて、拠点の中村(現在、四万十市)は小京都と呼ばれた。また、長宗我部家の復興にも一躍を担った。
伊予は、河野家が統治していたが、中国地方の大内氏や九州地方の大友氏の侵攻に悩まされていた。また、広島(安芸)と愛媛(伊予)の間には、多くの島があり、村上海賊が勢力をふるい、周辺大名を支援していた。
九州 島津氏と大友氏
九州の中心は、山口の大内義興氏であった。この大内家は、京都を追放された流れ公方こと足利義材を保護していた。07年、大内義興が上洛。この中で台頭したのが少弐氏と大友家である。
少弐氏は、鎌倉時代から続く北九州の名門であった。しかし、山口の大内家に博多を奪われて、肥前(佐賀・長崎)に拠点を移していた。
大友氏も、鎌倉時代から続く北九州の名門。大分に拠点をおいていた。熊本など南九州に勢力を伸ばす一方で、北九州を巡り、大内家と争うようになる。
18年、大内義興が山口に戻る。
そのような中、発展したのが、大内家の拠点の山口と博多である。博多は勘合貿易の拠点である。また、朝鮮半島との交易も行われた。朝鮮から綿花や経典などが輸入された。足利将軍家が衰退すると、大内家と細川家が担うようになった。大内家は、博多商人と結んで勘合貿易を実施。一方で細川家は堺商人とともにこれに対抗していた。この博多の町では、堺の町と同様に、豪商の寄り合いで自治が行われていた。
23年、大内義興と細川高国が勘合貿易で争った。その場所は、明王朝(中国)の寧波であった。(寧波のらん)。この戦いで勝利した大内家が勘合貿易を継続する。しかし、明王朝の力はすでに衰退。15世紀なかばになると、明との貿易の中心は、後期倭寇(密貿易)になる。この密貿易のネットワークに、ポルトガルやスペインが参加する。
北九州の動きも変わっていく。30年、少弐氏が滅亡。38年、大内家と大友家が和睦した。
一方、南九州では有力な大名がなく、多くの国人が勢力争いを展開していた。この南九州の国人をまとめたのが、宮崎(日向)の伊東氏と鹿児島(薩摩・大隅)の島津氏であった。
経済
16世紀前半(戦国時代中期)は、中世の権威が崩壊し、戦国大名たちが自らの領国を豊かにして軍事力を強化する「富国強兵」へと突き進んだ転換期です。ご指定のポイントに沿って、当時の日本経済の構造をまとめます。
1. 戦国大名の財政(収入と支出)
戦国大名の財政は、絶え間ない戦乱を生き抜くための「軍事費」をいかに捻出するかが最大の課題でした。
| 項目 | 主な内容 |
| 主な収入 | 年貢(土地からの基本税)、段銭・棟別銭(田畑や家屋ごとの臨時税)、鉱山収入(金・銀・銅山の直轄化)、関銭・津料(関所や港の通行税)、運上・冥加(商人からの営業税) |
| 主な支出 | 軍事費(鉄砲などの武器調達、兵糧、傭兵の雇用)、恩賞(家臣への土地や銭の給付)、築城・防衛費、公共事業(治水工事・街道整備) |
自国通貨を発行する権力はまだなく、中国からの渡来銭(明銭など)を基準とする貫高制(かんだかせい)を用いて、土地の価値や年貢を「銭」に換算して財政を管理し始めました。
2. 農業と土地支配
荘園公領制崩壊の影響
16世紀に入ると、京都の貴族や寺社が遠方の土地を支配する「荘園公領制」は完全に崩壊しました。
- 一円知行(いちえんちぎょう)の進展: 複雑な権利関係が解消され、戦国大名や国衆(地元の武士)が、ひとつの土地を直接かつ排他的に支配する体制が確立しました。
- 惣村(そうそん)の自立: 農民たちは村ごとに自治組織(惣)を作り、大名に対して村単位で年貢を請け負う(地下請)ようになりました。大名は個人の農民ではなく、村を単位として農村を支配しました。
戦国大名と農業政策
大名にとって、農業生産力の向上は軍事力の源泉でした。
- 治水・灌漑事業: 大規模な河川工事(武田信玄の「信玄堤」など)や用水路の建設を行い、新田開発を奨励しました。これにより、16世紀の耕地面積と米の収穫量は飛躍的に増加しました。
- 指出検地(さしだしけんち): 大名が家臣や村に対して、土地の面積や収穫量を自己申告させ、領内の生産力を把握して年貢を確実に徴収するシステムを整えました。
3. 商業の発展と都市
城下町の形成
大名は、防衛と経済の中心として「城下町」を建設しました。
- 家臣と商工業者の集住: それまで農村に散らばっていた家臣(武士)を城の周辺に強制的に住まわせ、同時に商人や職人を呼び寄せました。これがのちの「兵農分離」の基礎となります。
- 計画都市: 職業ごとに町割り(鍛冶町、呉服町など)を行い、消費地である城下町に富を集中させました。
戦国大名と商人の関係
大名は、戦争に必要な物資(武具、火薬の原料、米、塩など)を確保するため、特定の商人を保護しました。
- 御用商人の台頭: 大名に軍需物資を優先的に納入する見返りとして、関所の通行免除や独占的な営業権(座の特権)を与えられた豪商が現れました。
- 貿易の掌握: 堺や博多などの有力な港町を勢力下に置くことや、豪商と結びつくことは、大名にとって死活問題でした。
楽市政策(初期)
16世紀半ばになると、一部の大名が従来の特権を打破する新しい商業政策を打ち出します。
- 特権の廃止: 特定の商人グループ(座)が持っていた独占権を廃止し、誰でも自由に商売ができる「楽市(らくいち)」を設けました。
- 先駆例: 織田信長が有名ですが、最も早い例は1549年に近江(滋賀県)の六角定頼が観音寺城の城下町で行ったものとされています。これにより城下町に多くの商人を惹きつけ、経済を活性化させました。
4. 戦国時代の交通と物流
軍隊の迅速な移動と、大量の物資の輸送のために、交通インフラが整備されました。
- 関所の撤廃: 中世には各地の寺社や国人が勝手に関所を設け、通行税を取って物流の妨げになっていました。戦国大名は領内の関所を撤廃(または自らの直轄に)し、物資の流通をスムーズにしました。
- 伝馬制(てんませい)の整備: 街道沿いに宿場を設け、人や馬を常備させて、軍事情報(書状)や物資をリレー形式で迅速に運ぶシステムを整えました。
- 水運の重視: 米や木材などの大量・重量物の輸送には、陸路よりも水運(川船や海船)が主力でした。琵琶湖の水運や、瀬戸内海の海上交通を握ることが、経済的覇権に直結していました。
文化)地方へ広がる雅!小京都の誕生
概要
- ひとことで!: 文化の地方分散!京都の雅が全国の「小京都」へ広がった時代
- 時代と中心人物: 戦国時代(16世紀前半〜中頃)/ 戦国大名(大内氏、朝倉氏など)、地方の武家、堺などの豪商
- 時代背景:応仁の乱の戦火を避けて、京都の公家や禅僧が地方へ避難。戦国大名が彼らを城下町に招き入れたことで、京都の高度な文化が地方へと広まった(文化の地方伝播)。また、経済の発展により庶民や商人も文化の担い手となった。
宗教・思想
仏教が庶民に深く浸透し、浄土真宗(一向宗)や日蓮宗(法華宗)が団結して大名に匹敵する勢力を持った(一向一揆、法華一揆)。16世紀半ば(1549年)には、フランシスコ・ザビエルによりキリスト教が伝来した。
建築・庭園
戦国大名による城下町づくりが進行。大内氏が治めた山口(山口県)や、朝倉氏の一乗谷(福井県)など、京都を模した計画都市(小京都)が各地に築かれた。
美術
狩野元信(正信の子)が、力強い水墨画(中国風)と色彩豊かな大和絵(日本風)の技法を融合させ、日本絵画の最大派閥となる狩野派の基礎を固めた。また、土佐光信が宮廷絵所預として大和絵(土佐派)を復興させた。
文学・学問
関東では足利学校(栃木県)が学問の中心として繁栄し、宣教師に「日本最大の大学」と紹介された。また、禅僧の桂庵玄樹が薩摩(鹿児島県)で儒学を講じ(薩南学派)、戦国武将たちの間で実践的な学問が重視された。
芸能・生活
庶民の流行小唄(歌謡)を集めた『閑吟集』が編纂された。茶の湯では、堺の商人・武野紹鴎が村田珠光のわび茶をさらに発展。連歌から派生した、より自由で笑いを含む俳諧連歌(山崎宗鑑の『犬筑波集』など)も流行した。
現代とのつながり
現在、全国各地にある「小京都」と呼ばれる観光名所や、その土地独自の伝統工芸品・郷土料理の多くは、この時代に戦国大名が京都から文化人や職人を呼び寄せたことがルーツになっています。