16世紀前半の日本 戦国時代って何?

前回の復習 16世紀後半の日本

 16世紀は戦国時代である。16世紀半ばに織田信長が桶狭間の戦いで勝利。織田信長が室町幕府を滅ぼし、畿内(京都近郊)を安定化。信長の跡を継いだ豊臣秀吉が、惣無事令を出し、その後に天下を統一。

16世紀前半の国際情勢

 16世紀は、大航海時代である。マゼランが世界一周を果たす。

 アジアでは、インドのゴアに拠点をおいたポルトガルが明王朝(中国)などと交易を行っていく。

 ヨーロッパでは、ルターの「95箇条の論題」を皮切りに、宗教改革が始まる。

戦国時代

戦国時代の語源

 戦国時代とは、室町幕府が権威を失い、地方の有力者が自治を行っていた時代である。

 戦国時代は、当時の貴族の日記にも表現されている。当時の現状を古代中国の戦国時代のようだといったのが始まりである。

 紀元前5世紀、中国は周王朝が衰退し戦乱の時代に入ったいた。これを春秋戦国時代という。周王朝は、室町幕府同様に地方の土地を有力者(諸侯)に任せていた。その後、諸侯たちが互いに勢力争いを行うようになった。これが春秋時代であった。しかし、周王朝の権威は保たれていた。しかし、紀元前5世紀に入る頃には周王朝は事実上滅亡。周王朝というストッパーがなくなり戦乱は加速した。これが戦国時代である。前漢末期の学者劉向(りゅうきょう)が『戦国策』という歴史書で、この時代を戦国時代と名付けた。

室町幕府と戦国時代のはじまり

 戦国時代の始まりは、前述の通り室町幕府が事実上滅亡したのはいつかということになる。

 昔(昭和・平成初期)の時代は、応仁の乱によって戦国時代は始まったとされている。しかし、最近の教科書では、14世紀末の明応の政変や伊勢宗瑞(北条早雲)の堀越公方襲撃によって戦国時代が始まったとする説が有力になっている。

 以下では、明応の政変以降の京都の歴史を見ていきます。

 端的に行くと、将軍家と管領細川家のお家騒動である。将軍家は、明暦の政変で将軍についた義澄の家系と明暦の政変で追放された義稙の家系の対立である。一方、管領細川家は、3人の用紙による争いであった。

 明応の政変によって、堀越公方の家系の足利義澄(よしずみ)が将軍になっていた。それを支えたのが明応の政変の首謀者である管領の細川政元である。

 一方で、山口(周防)では、前将軍足利義稙(よしたね)が中国の有力守護大内家に保護されていた。そのため、流れ公方と呼ばれた。

 07年、細川家の後継者問題で細川政元が暗殺される。これにより、現将軍の義澄は協力の後ろ盾を失う。

 細川政元は実子がいなかった。そのため、2人の養子を取った。摂関家である九条家から澄元、有力分家の阿波細川家の澄之である。後継者は澄元で確定していた。それを支えたのが細川高国であった。澄之の家臣が管領政元を暗殺。これを澄元・細川高国連合軍が澄之勢(阿波細川家)を一層。澄元が管領についた。そのときに活躍したのが三好之長であった。

 09年、足利義稙が大内家の支援を得て状況。将軍に復帰。義稙は、滋賀(近江)の六角家の庇護に入る。こうして、義稙vs義澄の将軍職争奪戦が京都で展開される。

 この背景には、細川家の対立がある。管領細川澄元は、三好之長を厚遇した。それに反発した家臣たちは、細川高国の元に集まりだした。細川高国は、足利義稙と繋がり、入京をサポート。その後、管領職は大内家が握り、細川家の家督は高国が握った。一方、細川澄元・三好之長は、義澄とともに滋賀に逃げた。

 11年、義澄が死去。その夢はその子である義晴(よしはる)が担う。滋賀(近江)の六角氏は、義稙派に寝返る。そのため、義晴は、兵庫(播磨)の赤松氏のもとに移動する。

 その後、尼子氏(島根・鳥取)の台頭を受けて、大内家は山口へ戻る。管領職を細川高国に譲る。その後、細川高国と将軍義稙が対立。義稙は、阿波へ逃亡した。そのまま阿波でなくなった。

 21年、管領高国は、浦上氏に寄せていた義晴(義澄の子)を将軍に迎える。浦上氏は、下剋上で赤松氏から家を奪っていた。

 26年、管領高国が有力家臣を暗殺。多くの家臣が近江に逃亡していた澄元の子晴元の下へ集まった。

 翌27年、細川晴元が挙兵。将軍義晴と管領高国は、近江へ逃亡した。晴元は、義晴の弟である義維(よしつな)を将軍に擁立するが、朝廷はこれを認めなかった。31年、管領高国が京都へ進行するも失敗。自害した。これが「大物崩れの戦い」である。

 34年、細川晴元と将軍義晴が和解。将軍義晴が帰京。46年、将軍義晴が義輝に将軍職を譲り、大御所になる。

 管領細川晴元とその家臣三好長慶が対立。49年、管領細川晴元が敗れる。京都には、三好政権が成立。将軍義輝と大御所義晴は近江へ追放される。翌50年、大御所義晴が病死。

 51年、反三好長慶軍が京都へ進行するも、松永久秀らによって打ち取られる。

 52年、将軍義輝と京都の有力者三好長慶が和睦。義輝は京都へ戻った。細川晴元は隠居。

 53年、将軍義輝と三好長慶との和睦が不成立。隠居した細川晴元を頼りに近江へ戻る。

 58年、将軍義輝と三好長慶が再び和睦。全国各地の戦闘の和解案を示し、将軍の権威を取り戻す。多くの戦国大名は、このときに幕府のお墨付きを得た。このとき、織田信長は将軍義輝に謁見している。

 65年、三好三人衆が将軍義輝を暗殺。義維の子である義栄(よしき)を将軍に就任。このとき、将軍の弟である義昭は京都を脱出し、福井(越前)の朝倉家に身を潜めた。

下剋上

 室町時代は、将軍と有力守護大名の連合政権であった。有力守護大名は、京都で政治を取り仕切り、領地には家臣である守護代を置いていた。

 応仁の乱以降、京都で戦乱が続く有力守護大名は、領地を監視する余力を失った。そのため、守護代や国人らは守護大名を追放し、実力で統治するようになった。これが戦国大名である。

鉄砲とキリスト教

政治

戦国大名とは

守護大名との違い

領国の経営と分国法

戦国大名と家臣団

戦国大名の経済力

各地の情勢

東北 伊達家

 室町幕府は、東北地方に奥州探題を置いていた。しかし、鎌倉時代からの有力武士がそのまま戦国大名になっていた。そのなかで台頭したのが、山形の最上家と仙台(宮城)の伊達家であった。

 例外は青森である。津軽海峡では、若狭武田家の末裔といわれている蠣崎氏が統治した。

関東 北条家と上杉家

 関東は、畿内に次ぐ重要拠点である。将軍の親族が鎌倉公方になった。この鎌倉公方は、堀越公方と古河公方に分裂していた。

 更に、鎌倉公方を支える関東管領は、扇谷上杉家と山内上杉家が対立していた。

 15世紀末の明応の政変で堀越公方の義澄が将軍に就任した。その堀越公方で、義澄の弟がクーデターで堀越公方に就任。将軍義澄は、追討軍を派兵した。それが伊勢宗瑞である。

 伊勢宗瑞は、そのまま伊豆を統治。後北条家を創設。神奈川県(相模)の小田原を中心に関東南部を支配した。

 関東管領家は、越前の守護代であった長尾家が上杉を名乗った。後の上杉謙信である。上杉家は、新潟を拠点に北関東を統治。信濃(長野)へ進行するために山梨(甲斐)の武田家と争った。

 茨城県は、古河公方の家臣である佐竹家が戦国大名になった。

中部 武田家と今川家

 中部の有力大名は、山梨(甲斐)の武田家と静岡(駿河)の今川家である。この2つの家系は、鎌倉公方の監視役の役割を持っており、守護代を置かなかった。そのため、守護大名からそのまま戦国大名になった。

 武田家は、平安時代から続く源氏の名門である。武田信玄が戦国大名になり、長野(信濃)をめぐり、上杉謙信と川中島の戦いで戦った。

 今川家は将軍足利家の分家である。

近畿東部、朝倉家、斎藤家、織田家

中国 大内家→毛利家

四国 長宗我部家

九州 島津と大友

経済