14世紀の中国 明王朝 明王朝の成立 〜漢民族国家の復活〜

前回の復習 15世紀の中国

 15世紀の中国は、明王朝の時代である。15世紀初頭の永楽帝の時代に全盛期を迎える。鄭和の大航海が行われたのもこの時代である。

 しかし、15世紀なかばになると、明王朝は危機を迎える。北虜南倭である。北からは、モンゴルの騎馬民族が侵攻。南では倭寇の海賊が襲ってくる時代である。皇帝が捕虜になる土木の変も起こった。

14世紀の国際情勢

 14世紀は、病気と内乱で混乱した時代である。ヨーロッパでは、ペスト(黒死病)が流行した。

 日本は、南北朝の戦乱期。鎌倉幕府が滅亡。後醍醐天皇による建武の新政を経て、室町幕府が成立した。しかし、天皇が2人いる南北朝時代に入った。この混乱で全国で戦乱が起こった。14世紀末、足利義満が南北朝の合一を実施。戦乱は終結した。

ペストの流行

モンゴル系国家 元王朝

 13世紀は、モンゴルの時代である。ユーラシア大陸にモンゴル帝国が支配していた。

 中国も例外ではない。宋王朝(南宋)が滅亡し、モンゴル(元王朝)の支配下に入っていた。

 そのモンゴルでは、13世紀末、フビライ(トゥルイ家)の子テムルとオゴタイ家のハイドゥの間で後継者争いが行われ、テムルが勝利。テムルがハーン(皇帝)になった。この後継者争いをハイドゥの乱という。

 13世紀末、フビライが死去。その後皇帝の急死が続く。

ペストの流行

 13世紀は、モンゴルの時代。統一国家の誕生によって、東西の交流が進んだ。金や物資、文化などプラスのものだけでなく、病原菌というマイナスの要素もあった。

 14世紀なかば、ヨーロッパでペストが流行した。

 中国でも、はやり病が流行った。

物価高騰

 元王朝の末期は、財政難であった。元王朝が成立すると、ハイドゥの乱などの内紛が勃発した。さらに、日本やジャワへの遠征失敗。これにより、軍事費が増大した。

 さらに、宮廷費が急増した。とくに、チベット寺院の建築が進んだ。

 軍事費と宮廷費の増大で、元王朝は財政難に悩まされた。それを打開するために、紙幣(交鈔・こうしょう)を大量に発行。更に収入を増やすため、専売を強化した。これにより、中国の物価が高騰し、生活が困窮した。

紅巾の乱

概要

 はやり病と物価高騰で、中国の人々は元王朝に不満を持つようになった。

 白蓮教徒を中心とした紅巾の乱が起こった。その中で頭角で頭角をあらわしたのが、漢民族の朱元璋であった。

 白蓮教徒は、仏教要素の強い民間の宗教結社である。宋代に成立した。

前期倭寇

 その頃、日本では南北朝の動乱が起こっていた。九州には、元寇で貧しくなった人々が、海賊になった。ただ、実際は、襲う船がないので、密貿易を実施ていた。

 日本は、南北朝の戦乱中なので、元寇を取り締まる余裕はなかった。

 元王朝も、倭寇を退治する体力はなかった。

朱元璋と明王朝の成立

 69年、朱元璋は明王朝を成立させた。朱元璋は洪武帝になり、都は南京に置かれた。

 朱元璋は、宋王朝時代の政治に戻そうとした。そのため、科挙を復活させた。しかし、側近を信じなかった。そのため、中書省などを廃止し、皇帝が直接六部をコントロールした。

 税収を安定させるため、租税台帳(賦役黄冊)や土地台帳(魚鱗図冊)が作成された。

 外交では、海禁政策(鎖国政策)を取った。

靖難の役と永楽帝

 朱元璋は、身内以外を信頼していなかった。そのため、軍隊は、朱元璋の息子たちがトップに付いた。特に騎馬民族の侵攻を受けやすい北方は息子たちがトップに付いた。

 その一人が永楽帝である。永楽帝は、かつての元も都があった北京に拠点を置き、燕州を治めたことから燕王と呼ばれた。

 98年、洪武帝(朱元璋)の孫が2代目皇帝に即位した。南京にいた皇帝の側近たちは、皇帝の叔父である北方の軍人たちを警戒するようになった。そのため、叔父たちを次々と処分していった。

 危機を感じた永楽帝は、南京へ侵攻した。これが靖難の役である。永楽帝は、靖難の役に勝利。皇帝に就任した。

 武力で皇帝になった永楽帝は、正統性を必要とした。永楽帝は外交によって得ようとした。これで成立したのが朝貢貿易と鄭和の大航海である。

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