「ペルシャ」という響きを聞いて、何を思い浮かべますか?
美しい絨毯や、青いタイルのモスクを想像する方が多いかもしれませんね。
しかし、1900年代のイランは「東洋の神秘」だけではありませんでした。
民衆の革命、そして発見された「石油」を巡る列強の争い……。
今回は、現代イランの原点ともいえる激動の時代を、
初心者の方にもわかりやすく、簡単に紐解いていきます!
📝 この記事の3行まとめ
- イラン立憲革命:アジアでもかなり早い時期に、憲法と議会を作った!
- 英露協商の衝撃:イギリスとロシアに、国を勝手に「勢力圏」として分けられた。
- 石油の発見(1908年):この発見が、後のイランの運命を決定づけた。
1. 専制政治への怒り!「イラン立憲革命」
19世紀末、イランを統治していた「カジャール朝」は、
深刻なお金不足に悩まされていました。
当時の国王(シャー)は、自分の贅沢や外国旅行の費用を作るため、
国の資源や関税の権利を、次々と外国へ売ってしまったのです。
これに怒ったのが、知識人や商人、そしてイスラームの指導者たちでした。
なぜ革命が起きたの?(1905〜1911年)
きっかけは、外国人が税関を仕切ることへの抗議活動でした。
実はこれには「伏線」があります。
- 成功体験:1891年の「タバコ・ボイコット運動」で、民衆の団結が政治を動かせると知っていた。
- 大きな成果:1906年、ついに国王に憲法を認めさせ、議会(マジュリス)を開設!
これは、当時のアジアにおいて非常に画期的な民主化の試みでした。
日本の勝利がイランを勇気づけた?
実は、1905年の日露戦争での日本の勝利は、イランにも大きな影響を与えました。
「アジアの小国でも、憲法を持って近代化すれば大国(ロシア)に勝てる!」
そんな希望が、イランの知識人たちの背中を押したと言われています。
2. 国が勝手に分けられた?「1907年 英露協商」
国内が革命で盛り上がる中、外では恐ろしい計画が進んでいました。
それが、イギリスとロシアによる「英露協商」です。
長年、中央アジアでライバル関係だった両国が、
台頭するドイツに対抗するため、急に仲直りをしたのです。
その「手土産」にされたのが、なんとイランでした。
イランの意志を無視した「勢力圏」分割
イランの政府には一切相談なしに、地図の上に線が引かれました。
- 北部(ロシア勢力圏):首都テヘランを含む主要エリア。
- 南部(イギリス勢力圏):インドへのルートを守るためのエリア。
- 中央部:どちらでもない中立地帯。
このせいで、ロシアは北部の革命勢力に武力干渉できるようになり、
せっかくの議会が砲撃されるなど、革命はストップしてしまいました。
3. 「黒い黄金」石油の発見!1908年の衝撃
20世紀に入り、世界のエネルギー主役は「石炭」から「石油」へ。
特に海軍の船を動かすために、イギリスは必死に石油を探していました。
1908年:中東初の巨大油田を発見
1908年5月26日、イラン南西部のマジデ・ソレイマーン。
ここで巨大な油脈が掘り当てられました。
これが、中東における初の商業用油田です。
国家戦略としての石油
1909年には「アングロ・ペルシアン石油会社(APOC)」が設立。
1914年にはイギリス政府が株の過半数を取得しました。
つまり、イランの資源なのに、イギリス政府が実権を握る構図ができたのです。
この「外国による資源支配」への不満は、後の1979年「イラン革命」へと繋がる大きな火種となりました。
🔑 歴史を読み解くキーワード
- カジャール朝:1900年代イランを統治した王朝。最後はパフレヴィー朝に代わります。
- ダール・アル・フヌーン:1851年設立の近代学校。革命を支えたエリートを輩出しました。
- ムッラー・ナスレッディーン:当時の人気風刺雑誌。ユーモアで権力を批判し、大衆を熱狂させました。
📍 歴史を訪ねる:テヘラン議会議事堂
イラン最初の議会が開かれた「バハレスターン宮殿」。
1908年には反革命派の砲撃を受けるなど、まさに民主主義の苦難を見守ってきた場所です。
現在は歴史資料館として、先駆者たちの足跡を今に伝えています。
おわりに
1900年代のイランは、自らの手で近代化を目指した「革命」と、
列強による「石油」と「地政学」の波に飲み込まれた時代でした。
この激動を知ると、今のイランが抱えるニュースも、
少し違った視点で見えてくるかもしれませんね。
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