1880年代、日本は明治時代。国会が開設されたころである。
このころ、インドはイギリスの植民地であった。このころインドにも議会が成立した。インド国民会議である。また、東南アジアでは第三次ビルマ戦争が勃発した。
初めまして、sekaishiotakuです。世界史好きの一般会社員です。よろしくお願いいたします。
1920年代、日本は関東大震災を機に大戦景気が終わり、長期の不況に入った。この頃、アメリカは繁栄の20年代を迎える。政治面では共和党政権が続いた。
ビザンツ帝国は、セルジューク=トルコに小アジア(トルコ西部)を奪われた。これに受けて、ビザンツ帝国は、ローマ教皇に支援を求めた。ローマ教皇はこれを東西教会統一のチャンスととらえ十字軍を編成した。このころ、神聖ローマ皇帝と叙任権闘争の真っ最中。そのため、第一回十字軍はフランス諸侯を中心に編成された。
第1回十字軍は成功。イェルサレム王国が建国された。
セルジューク=トルコは、ビザンツ帝国から小アジアを奪うと、全盛期を迎える。時の皇帝(スルタン)は第3代のマリクシャーである。
マリクシャーは、ブワイフ朝の報酬制度イクター制を導入した。また、スンニ派の思想を広めるため、主要都市にニザーミヤ学院を創設した。ニザーミヤ学院とはスンニ派の法学者(ウラマー)の育成機関である。ウラマーとは、コーランなどイスラム法(シャーリア)を治めた知識人を言う。ニザーミヤ学院をつうじでスーフィズム(神秘主義)が盛んになった。神秘主義とは形式的な信仰を排して神との一体化を求める運動である。12世紀には教団が結成。世界各地で侵攻を広めた。
これらの改革を陰で支えたのが宰相ニザーム=アルムルクである。
10世紀後半、セルジュークはビザンツ帝国領の小アジアへ侵攻した(マジケントの戦い)。ビザンツ帝国はこの戦いに敗北。小アジアをセルジューク=トルコに奪われた。
セルジューク=トルコは、11世紀初頭に中央アジアのイスラム教国カズナ朝から独立した。建国者はトゥグルク=ベクである。11世紀なかば、トゥグルク=ベクはシーア派のブワイフ朝からバグダードを奪還した。トゥグルク=ベクはアッバース朝のカリフからスルタンの称号を得た。
カリフは、イスラム教のトップを表すことまである。これに対し、スルタンは、カリフから一定地域の世俗的権威(政治や軍事など)を委託されたものを表す称号である。キリスト教(ローマ=カトリック)でいう教皇と国王の関係に近い。
セルジュークトルコ以前、中東はシーア派政権が中心となった。バグダードのブワイフ朝とエジプトのファーティま朝である。
シーア派とスンニ派の分裂は、7世紀のウマイヤ朝までさかのぼる。シーア派は、カリフはアリーの血を引くものに限られるとして、ウマイヤ朝以降のカリフを否定した。一方、スンニ派、血統よりもイスラム教の教えこそが重要と考えている。そのため、スンニ派はウマイヤ朝やアッバース朝のカリフと認めていた。
シーア派は、さらに2つの派閥がる。穏健派(十二イマーム派など)と過激派(イスマイール派)である。ブワイフ朝は穏健派でアッバース朝のカリフと共存ができた。一方でファーティマ朝は過激派であった。
セルジュークトルコは、バグダードに入るとスンニ派の布教に尽力した。
セルジュークトルコがバグダードへ入城する前年、ビザンツ帝国では事件が起きていた。ローマ=カトリックと東方正教会の相互破門である。
ローマ=カトリック教会は、8世紀の聖像禁止令でビザンツ帝国(東方正教会)と対立していた。ローマカトリックはビザンツ皇帝と戦うため、8世紀末にはフランク王国皇帝カール大帝の戴冠を、10世紀後半には東フランク王国(神聖ローマ帝国)皇帝オットー1世の戴冠を行った。このあと、ローマ教皇は、神聖ローマ皇帝を忖度して、選ばれるようになった。
11世紀半ば、南イタリアにノルマン人が侵攻した。南イタリアのビザンツ総督はこの状況を打破するため、ビザンツ皇帝とローマ教皇の和解をはかろうとした。しかし、これは決裂。ローマ教皇とビザンツ皇帝(東方正教会のトップ)は相互破門へ至った。
ちなみに、その後のローマ=カトリックでは、クリュニー修道院出身のグレゴリウス7世がローマ教皇になった。ローマ教皇グレゴリウス7世は、神聖ローマ皇帝ハインリヒ7世を一時破門した(カノッサの屈辱)。ここから、ローマ教皇と神聖ローマ皇帝との叙任権闘争が始まる。ちなみに叙任権闘争は教会の人事権をめぐる争いのことである。
セルビア人は南スラブ人の一部族である。ちなみにスラブ人は東欧に住む人々で6世紀に東欧に侵入した。セルビア人はバルカン半島西部に定住した。そこはアドリア海に面した風光明媚なとちである。アドリア海の対岸はイタリアであり、神聖ローマ皇帝やイタリアの影響を多く受けた。
11世紀半ば、セルビア人はビザンツ帝国から独立した。セルビア人は東方正教会を信仰していた。しかし、セルビア王国のいじのため、対岸イタリアのローマ=カトリックに接近した。
11世紀初頭、ビザンツ皇帝は北方のブルガリアへ侵攻。「ブルガリア人殺し」という大虐殺を行い、ブルガリアを併合した。ブルガリアは、7世紀に成立したトルコ系騎馬民族国家である。バルカン半島の東半分を支配していた。ビザンツ帝国のブルガリア支配は12世紀後半まで続いた。
それでは、なぜビザンツ帝国はブルガリアに勝つことができたのだろうか。その理由は、キエフ公国との同盟があった。
10世紀末、ビザンツ帝国はキエフ公国と同盟を結んだ。キエフ公国とは、北海北部のノルマン人の国家である。のちのロシアの原型となる国である。キエフ大国は、同盟の際にキリスト教(東方正教会)の信仰を約束した。そして、ビザンツ皇帝の妹を后に迎えた。
1880年代、日本では国会が開設された。その中心人物は、伊藤博文である。
世界恐慌は、1929年、ニューヨーク(株価大暴落)から始まった。1930年代シリーズ最終回は、アメリカ史を見ながら、世界恐慌を見ていきます。
1970年代、日本などの西側諸国では高度成長期が終わり、低成長期に入った。
12世紀、ビザンツ帝国は衰退傾向になった。その理由は11世紀末にセルジューク=トルコに小アジアを奪われたことである。その後のビザンツ帝国は、ノルマン人(両シチリア王国)の侵攻やブルガリア王国の反乱でさらに領土を縮小させた。
14世紀、日本は鎌倉幕府が滅亡。南北朝の戦乱期に入った。
この時代、ヨーロッパは百年戦争と黒死病で暗黒な時代を迎えていた。フランスは、カペー朝が断絶。王位継承権をめぐりイングランドと百年戦争に入った。一方で、教皇バビロン捕囚を行い、ローマ教皇を失墜させた。